七章三十五話 『無くした居場所』
「なに、あれ……」
エリミアスと別れたあと、ティアニーズは魂が抜けたように虚ろな表情で時計台へと向かっていた。
しかしその道中、違和感を感じたティアニーズが振り返ると、空に向かって真っ暗な煙が上っていた。
あの方向になにがあるのか、なんてのは考えるまでもない。
ガジールの家だ。あの勇者や、エリミアスが泊まっている。
「ッ……!」
無意識に足が踏み出していた。
一歩、二歩と駆け出し、そこで自分がなにをしようとしていたのかに気付く。
助けに行こうと、していた。
「……関係ない。もう、私には関係ない」
勝手に前に行こうとする足を必死に止め、ティアニーズは太ももに拳を振り下ろす。
何度も、何度も何度も、痛みで正気を取り戻そうとする。
「止まれ、止まれ……止まれって!」
なにをやっているのか、自分でも分からなくなっていた。太ももの痛みに意識を引っ張られる事はなく、視線は上がる煙に向けられたままだ。
心配で心配で仕方なかった。
なんにも、決意なんか出来ていなかった。
「……なんでよ。なんで見限ってくれないの……!」
思い出すのは、先ほど会話したエリミアスの事だ。
敵になったのに、決別したのに、あの少女はティアニーズの事を友だと言った。友達だから許さないと、友達だから必ず謝らせると。
もう関係ないと見捨てれば良いのに、敵だからと殺してしまえば良いのに、エリミアスはそれをしようともしなかった。
あの顔に、瞳に、怒りはなかった。
ただ純粋に、ティアニーズを心配している表情だった。
「ズルい、ズルいよ。勝てないじゃん……あんなの見せつけられたら……」
どこまで行っても、自分はエリミアスには敵わない。
あんな優しさ、自分にはない。
そう、思い知らされてしまった。
「あんなに酷い事言って、みっともない姿を見せて……なのになんで……」
噛み締めていた唇から血が落ちる。
その頃には、ぐちゃぐちゃになっていた気持ちが多少の落ち着きを取り戻していた。
ティアニーズは背を向ける。
大丈夫だろうとか、心配ないからとかではない。
その場から逃げるために。
そうする事で、自分の覚悟を証明したかったからだ。見捨てる事で、助けない事で、他でもない自分自身を納得させたかったからだ。
もう、完全に敵対しているのだと、体の深くに刻みたかったからだ。
「……ほんと、ズルいよ。私は」
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時計台に戻ったティアニーズ。
今朝入った裏口には誰もおらず、鍵がかけてある気配もない。とりあえず辺りを見渡して人がいない事を確認すると、そのまま中に入った。
螺旋状の階段をぐるぐると周りながらひたすら上がり、現れた扉の中に入る。
すると、すでに全員が揃っていた。
ヴィラン、ベルトス、カストリーダ、あとは今朝いなかった男ーー恐らくロイという名前は彼の事だろう。
ティアニーズを見つけるなり、ヴィランが手を上げた。
「よォ、上手く植えてこれたか?」
「はい。正確な場所は指定されなかったので、とりあえず土のある場所に植えて来ました」
「してなかったっけか? まぁ良いや、成功したんなら問題はねぇ」
全員の視線が集中する中、ティアニーズは真っ直ぐにヴィランの元へと向かう。
ティアニーズの真剣な眼差しに対して、ヴィランは謎の笑みを浮かべ、なにを考えているのか分からない。
「なぜですか」
「ん? なぜって、なにがだ?」
「とぼけないでください。貴方達ですよね、貧民街に火を放ったのは」
「……あぁ、そうだが。なにか問題でもあるのか?」
罪悪感の欠片もないのか、ヴィランは適当な様子でそう返した。
思わず、握っていた拳に力が入る。
あれだけの事をしておいて、この男は普通だとでも言いたげだ。
「あそこまでする必要はなかった筈です。関係のない人間まで巻き込まれているかもしれないんですよ」
「関係ならある。あそこにいるのは元々うちの商品だ。それをガジールが勝手に奪って行った。その責任はちゃんととってもらわねぇとな」
「商品ではありません。あの人達は人間です」
「おぉ怖い怖い。でもな、元々ガジールは殺すつもりだったんだよ。アイツだけが俺達の邪魔をして来た……まぁ、今は何人か増えちまってるけどな」
その何人かはあの勇者達の事だろう。
まとめて始末するつもりだったのだろうけど、恐らく誰も殺せていないだろう。あの程度で死んでしまうようならば、ここまで生き残る事は出来ていない。
「残念ですが、殺せていませんよ。あの人達はあの程度では殺せません」
「それなんだが、火を放った家に勇者はいなかったぞ。なんせ俺と喧嘩してたからな」
コップギリギリまで注がれたビールを一気に飲み干し、僅かに顔を赤くしながらベルトスが言った。
ティアニーズは目を見開いてそちらを向き、
「喧嘩って……なにをしたんですか!」
「だから喧嘩だよ。あの勇者、散歩してたみてぇでよ、なんつったかなぁ……ま、元奴隷の女と出掛けてたんだ」
「元奴隷……? シャルルさんかな……」
ひとまずあの家にいなかった事は安心だ。
しかし、喧嘩をしたという割には、ベルトスに目立った外傷はない。それどころか疲れている気配もなく、先ほどから次々とお酒を口に運んでいる。
ヴィランは口元を緩め、
「そりゃおもしれぇな。んで、結果は?」
「俺が勝った。でもまぁ、今回は精霊なしの喧嘩だったしよ、俺としちゃ納得はいってねぇ」
「……殺したんですか?」
「とどめはさしてねぇよ。けど、放っといたら死ぬかもしれねぇな。一緒にいた女を先に帰らせちまったし」
「……そう、ですか」
いくらあの男でも、精霊なしで魔元帥の力と戦うのは難しいのだろう。
ティアニーズの頭に、嫌な予感が過る。
暗い表情でうつ向いていると、突然肩を叩かれた。
「どうした? 気になるのか? 様子を見に行きてぇのか?」
「いえ、大丈夫です。私はもう、あの人達とは関係ありませんから」
肩に乗せられた手を乱暴に払いのけると、ヴィランは残念そうにその手をヒラヒラと振った。
「でもまぁ、タイミング悪かったよなぁ」
「タイミング?」
「だってそうだろ? お前が貧民街に行って、その直後に家が燃やされた。もしかしたら、姿見られてるかもしれねぇな」
ヴィランの白々しい口調に、ティアニーズは眉を上げて睨み付けた。
その瞬間に悟った。
自分はこの男にハメられたのだと。初めからそのつもりだったのだと。
「分かっていて、私を貧民街に向かわせたんですね」
「おいおい早まるなよ、行くって決めたのはお前だ。別に他の場所でも良かったんだぜ? それをお前は人の話も聞かねぇで出て行っちまうから」
「そんな気なかったくせに」
「でも良かったじゃねぇか。これでお前は立派な悪人だ」
ティアニーズの怒りを分かっていながら、ヴィランは人を小バカにしたような口調で続ける。
「多分怒ってんだろうな。仲間だと思ってた奴に裏切られて、次の日には家を燃やされて……お前の仲間だけじゃねぇ、貧民街の奴らはお前を恨んでる」
フラフラとティアニーズの周りを歩き、どこまでも楽しそうな様子のヴィラン。
挑発的な態度に苛立ちながらも、ティアニーズは必死に握った拳を押さえつける。
「だってせっかく手に入れた居場所を燃やされたんだぜ? 自由もクソもなかった生活から解放されて、ようやく獲得した自分の居場所。それを壊されたんだ、誰だって怒るよなそりゃ」
「なにが、言いたいんですか」
「お前も帰る場所がなくなったって事だよ。向こうからすりゃ、お前は完全に敵だ。お前の仲間が許したとしても、あそこの住人は絶対に許さねぇ。なんせそういう奴らの集まりだからな」
この男の事は、きっと一生かかっても理解する事は出来ないだろう。
人の不幸を本気で幸福ととらえている。口元は汚い笑みで満たされ、恍惚とした表情でどこかを見つめている。作り笑いではなく、本気で微笑んでいるのだ。
「それによ、あそこを燃やされたのはお前の仲間が貧民街に行ったからだよな? お前達さえ来なけりゃ、あのクズどもは偽物の幸福を味わえてた。……お前達なんだよ、アイツらの生活を奪ったのは」
「…………」
「追い出されてるんだろうなぁ。お前の仲間さえいなけりゃ、貧民街は平和なままだった。お前も、お前の仲間も、帰る場所を失ったんだよ」
「それが、狙いだったんですね」
「やる時は徹底的にやる。歯向かう意思を削ぎ落として、立ち上がる足をもいで、しがみつく腕をへし折る。くだらねぇ善意にとりつかれた人間ってのは、それくらいしねぇとダメなんだよ」
「貴方って、本当に救いようのないクズですね」
「自覚してるよ。でもこれがやめられねぇんだ、楽しくてしょうがねぇんだよ」
なにもかも、この男の思惑通りに動いていた。
ティアニーズが貧民街に向かうタイミングで家に火を放ち、その全ての罪を背負わせる。当然、貧民街の人間はティアニーズの事を知っているので、その責任はあの勇者達へと向けられる。
そうなれば、あの勇者達は追い出されてしまう。自分の生活を守るために、他人を不幸にしても構わない。人間とはそういうものだ。
そんなどうしようもない本質を、醜い部分を、この男は的確に狙ったのだ。
「でもよ、悪い事ばかりじゃない。俺はお前のためを想ってやってやったんだよ」
「…………」
「お前にはまだ迷いがあった。いくら口では覚悟を決めたって言っても、そう簡単に大事なものを切り捨てられるような人間じゃない。お前さ、燃えてる家を見てどう思った? 助けたいって思ったんじゃねぇのか?」
「…………」
「別に答えなくても良いけどよ。俺はお前の背中を押してやったんだぜ。お前の覚悟が決まらなくたって、向こうがお前を敵だと認識すりゃ、そうせざるを得なくなる。だってそうだろ? お前がいくら大切だと思っても、向こうはお前を憎んでんだから」
なにも、言い返す事が出来なかった。否、言い返す気力すらわかなかった。
この男が本気でティアニーズの事を考えている訳じゃない事くらい分かっている。ただガジールが邪魔だから、あの勇者が邪魔だから火を放っただけなのだろう。
けれど。
ティアニーズは戻れない。
なにもしてないにせよ、向こうは間違いなくティアニーズを敵だと確信した筈だ。
実際に、ヴィランはティアニーズの背中を押していた。
「これで名実ともに仲間って訳だ。どんな気分だ? 大事な人から恨まれるってのは?」
「別に、なんとも思いません」
「そうだよな、だってなに言っても遅いもんな。今さらお前が戻ったって誰も話を聞きやしねねぇ。お前の居場所はここなんだよ、もう、後戻りなんか出来ないんだよ」
ヴィランの顔が迫る。
間近で見て分かったが、この男の顔は狂気という言葉を形にしたようなものだった。理解なんてする気にもならないし、多分それは踏み込んではいけない領域だ。
そっち側にいったら、きっと人間にすら戻れなくなる。
ティアニーズはヴィランの肩を押し、
「もう、覚悟は出来ています。居場所なんかなくたって、帰る場所なんかなくたって、私は私のやるべき事をやるだけです」
「そうだ、俺達には帰る場所なんかない。進むしかねぇんだよ。振り返ってもあるのは死体の山か、俺達を憎む人間の顔だけだ」
「私は振り返りません。過去の自分とは決別しました」
「……そうか、なら問題ねぇな」
他の三人はヴィランを見ようともしていなかった。多分、この三人と彼はまったく異なる人種なのだろう。仲間なんて生易しい関係じゃない。彼らにとっても、ヴィランは異物なのだ。
ティアニーズはヴィランを睨み付け、
「そんな事より、早く私に力をください。ちゃんと仕事はしました」
「それなんだが……まだ無理だな」
「そんな! 話が違います!」
「まぁまぁ落ち着け、別に力をやらねぇなんて言ってねぇだろ」
声を荒げ、ヴィランに詰め寄るティアニーズ。
そんなティアニーズをなだめるように、
「よーく考えてみろ。お前が種をちゃんと植えた証拠なんてねぇ」
「私はちゃんと植えました! だから火事の現場を見る事が出来たんです!」
「別に植えなくたって貧民街に行けば誰だって見れる。証拠がねぇんだよな」
「証拠って、どうすれば言いんですか」
「種が芽を出すまで待つ、かな。多分一ヶ月くらいかかるんじゃねぇの?」
思わず掴みかかっていた。
胸元を掴み、何度もヴィランを揺さぶる。
そんなに待てる訳がない。今すぐにでも魔王を殺さなくちゃいけないのに、一ヶ月という長い時間を無駄に過ごすなんて出来る訳がない。
最悪の場合、それまでに国が終わってしまう可能性だってある。
一分でも一秒でも早く、ティアニーズは力を得なければならないのだ。
「ふざけないで! 私は今すぐに力が欲しいんです! だから貴方の指示に従った、だから行きたくもないところに行った! なのに、それなのに!」
「んな事言われてもよぉ、力を与えるのは俺じゃねぇんだし」
「だったら私が直接言いに行きます。魔元帥は上にいるんですよね」
「止めとけ、俺でも入る事を許可されてねぇ場所だ。上の階には絶対に入らない、これが俺らとアイツの契約なんだ」
ヴィランの表情が一瞬にして変わった。
今までまったく読めなかった感情が、その瞬間だけは読み取る事が出来た。
前に入った事があるのかは分からないが、ヴィランは本気でそれを止めようとしていた。
ティアニーズはその表情を見て怯んでしまった。
次第に胸元を掴む手が弱まり、
「そんなに、待てないんです。そんな余裕、この国にはないんです! 早くしないとまたあの人が傷つく。それが嫌だからここに来たのに……力が手に入らないんじゃ意味がないんです!」
「……直ぐに力が欲しいのか?」
「はい」
「そのためなら、なんでもやる覚悟はあるか?」
「はい」
躊躇っている暇なんてない。
あの男はどれだけ打ちのめされようが、必ず立って前に進む。だから、早く止めないと。
全てを終わらせて、あの男が立ち上がらなくても済む世界を創らないと。
そんな強迫観念に突き動かされ、ティアニーズは口を開いていた。
「なら裏技を教えてやる。俺のために動け、俺に借りを作れ」
「貴方に借りを?」
「おう。お前がアイツに作る筈だった借りを、俺がまとめてアイツに返してやる。それで問題はねぇ」
「なにを、すれば良いんですか?」
そんな事が出来るのか、とは訊かなかった。
もうなんだって良い。
力が手に入るのなら。
ヴィランは微笑んだ。
黒くて、邪悪で、汚くて、見ている人間に不幸を与える笑顔で。
「なんでもするんだよな?」
「はい」
「その言葉に嘘はねぇな? 別に俺の女になれとかは言わねぇけどよ」
「私もそれだけは嫌です」
「随分と嫌われちまったな……まぁ良い」
冗談を挟み、ヴィランはそこで一旦言葉を区切った。
それから息を吸い、
「ーーエリミアス・レイ・アストを殺せ」