七章三十一話 『貴女を許さない』
逃げるように時計台をあとにしたティアニーズは、出来るだけ人目から逃れるようにして貧民街へ訪れていた。
今さらだが、彼女の髪の色はとても目立つ。
良い意味でも悪い意味でも、だ。
特に彼女を良く知る者からすれば、これ以上ないほどの目印になる。顔も美少女という訳ではないがそこそこ整っているので、目を引いてしまうのである。
なので、
「逆に怪しくないかな……」
このままではバレバレだと思い、ティアニーズは適当な店に入って紺色の布を購入。とりあえず髪だけは隠さねばと、髪を布でおおって被っているのだが……。
まぁ、お気付きだとは思うが、当然不審者である。
「でもこれなかったら直ぐに見つかっちゃうよね……」
ただでさえ貧民街の人間には異邦人として認識されているのに、流石に素顔のまま突入するのは危う過ぎる。しかし、この格好では隠れるという本来の目的を達成出来ていない。
つまり、
「どっちみちダメか……」
とはいえ、せっかく買った布を捨てるのも勿体ないので、ティアニーズは被ったまま突入する事を決めた。
「種、か……。ちゃんと場所指定されてないけど、土ならどこでも良いのかな……?」
逃げるように飛び出して来てしまったため、厳密な場所を指定されてはいない。ヴィランが言うには新鮮な土ならどこでも良いらしいが、ティアニーズには土の良し悪しは分からない。とりあえず土ならなんでも良いとは思うのだが、
「……種、か。なんの種なんだろう。薬って言ってたけど、こんなので魔力を暴走させる事なんて出来るのかな……」
歩きながら、ティアニーズはポケットから取り出した黒い種を見つめる。大きさは小指の爪くらいで、重さは小石程度。特に植物に対する知識がある訳ではないので、ティアニーズは『これ』の用途が分からない。
とはいえ、この種が多くの人間を不幸にする事は間違いない。上手く使えば社会に役立てる事も出来るかもしれないが、あのスキンヘッドを見るに、買う人間にろくな奴はいないのだろう。
それを分かっていて、ティアニーズは今から種を植えに行く。
「言い訳なんてしない。これから私がやる事はただの犯罪だ。もう、後戻りは出来ない……」
まだ、戻れるかもしれない。
そんな考えが頭を過る。
覚悟を決めたと言ったくせに、いざ行動に移すとなると迷いしか出て来ない。軽い気持ちであの勇者と決別した訳ではないけれど、これから行う事は人間として、騎士団として決してあってはならない行いだ。
けれど。
「大丈夫。あの人のために、私は悪にだってなる。もうこれ以上あの人が傷つかなくて良いように……私がやらないと」
そう思う事で、少しは躊躇いが消えてくれた。
多くを救うために少数を犠牲にする。自分の欲望のためにこれから不幸になる人間を見過ごす。けど、それはあの男のためだ。
それが逃げだと、言い訳だと、あの男のせいにしているだけだと分かっていながら、それでもティアニーズは進む。
声のする方を出来るだけ避け、家の影に隠れながら適当な畑を探す。流石に貧民街の人間全てを養うのに、盗んで来た食料では足りないので、畑の一つや二つはあるだろう。
「こっちは……うん、大丈夫」
顔だけを出して人がいないのを確認すると、駆け足で次の家の影へと滑りこむ。これでは本当に泥棒だ。盗賊であるアンドラよりも、今のティアニーズがやっている事は盗人だ。
それを何度か繰り返していると、
「あ……あった!」
視界の先に畑が見えて来た。近くから牛の鳴き声も聞こえるので、恐らく家畜もこの付近で飼われているのだろう。
辺りに注意を払いつつ、一気に畑まで駆け寄る。
「色んな野菜が植えてあるけど……一緒に植えちゃって良いのかな?」
そもそもの話だが、種を植えたとして野菜と一緒に掘り起こされる危険はないのだろうか?
ティアニーズはそんな事を考えて、直ぐに結論を出した。
「まだ植えたばかりのところなら大丈夫だよね」
まだ芽の出ていないエリアを探し、ティアニーズは素手で土を掘り起こす。
先ほども言ったが、ティアニーズに植物に関する知識はない。なので、どれだけ掘れば良いのかなんて事は分からず、とりあえずは深く掘る事にした。
その間も、辺りへと警戒は忘れない。
バレるどうのこうのではなく、これではただの野菜泥棒になってしまうからだ。
数分間かけて念入りに土を掘り起こすと、
「これで、平気だよね……」
深くに種を植え、掘った土を戻して平らに整える。日光はちゃんと当たっているし、水に関しては野菜に水をやる時に一緒にやってくれるだろう。
作業を終え、手についた土を払うように掌を合わせる。
「こんなんで本当に良いのかな……」
与えられた仕事は終わった。
呆気なく、特に修羅場もなく、意図も簡単に終了した。種を一粒植えるだけなのでそこまでの苦労はないと思っていたが、これでは拍子抜けだ。
だが、やってしまった。
あまり罪悪感がないのは、きっとまだ実害をこの目で見ていないからだろう。
「……帰ろう。力を貰って、それでおしまい」
振り返り、ティアニーズは早々とその場を去ろうとする。しかし、そこまで上手くは行かなかった。
振り返った体が、踏み出そうとした足が、鎖で縛られたように止まる。
ーー背後に立っていた、エリミアスとケルトの存在によって。
「…………」
動揺していない訳ではない。心臓は激しく鼓動を刻んでいるし、手には汗が滲んでいる。けれど、慌てて逃げ出すようなまねはしなかった。
そんな予感はしていたからだ。
初めに会いに来るのは、エリミアスかあの勇者だと思っていた。
「なんだか、久しぶりな気がしますね」
エリミアスはいつもと変わらない様子でそう言った。口調も、表情も、立ち振舞いも、今までティアニーズが側で見てきたものだ。
隣に立つケルトも、一歩引いた位置で見守っている。
「皆さんから……ルーク様からお話は聞きました。ティアニーズさんが、敵になったという事も」
なぜ、こんなにも優しい口調なのか、ティアニーズには分からなかった。なぜ、なにも変わらないのか。なぜ、当たり前のように接する事が出来るのか。
状況が分からない訳ではない筈だ。
エリミアスだってこの旅で様々な事を経験し、かつてのなにも知らないお姫様ではない。
では、なぜ。
「聞かせてください。私は、ティアニーズさんの言葉で聞きたいのです。本当に、本当に貴女は、私達の敵になってしまったのですか?」
一瞬、ティアニーズは躊躇った。
ここで、違うと、これは全て演技だと、そう言ってしまいたいという自分がいた。
でも、そんなのは許されない。
だから、覚悟を決める。
拳を握り、息を飲む。
「はい。私は、姫様達の敵です」
エリミアスはなにも言わなかった。
その言葉を聞いて、静かに瞳を閉じる。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「トワイルさんが、亡くなってしまわれたからなのですか?」
「……それもあります。けど、それはきっかけにすぎません。私はずっと、弱い自分が嫌でした」
確かに、トワイルを守れなかった自分を責めた。
でも、そうじゃない。
もっと前から、あの勇者と出会う前から、ティアニーズは弱い自分が嫌いだった。
「弱いくせに意地はって立ち向かって、でも結局誰かに助けられて……守りたい人を、誰一人守れない……そんな自分が、私は大嫌いなんです」
「ティアニーズさんは強いです。ルーク様もそうおっしゃっていました」
「そんなのまやかしです。私はちっとも強くなんかない」
あの勇者に、『お前は強い』と言われた時、生まれて初めて自分を認められたような気がした。
ずっと欲しかった言葉を、一番言って欲しかった人が言ってくれた。
けど、それは違う。
「私には、自分の信じた道だけを進む強さなんてない。ソラさんのような特別な力もない。姫様のように誰かを許せないし、アキンさんのように立ち向かう事も出来ない……アテナさんのような冷静な判断能力もない、アンドラさんのように罪を認めて進む事も出来ない。ケルトさんのように……魔元帥と戦う力もない」
「ティアニーズさんは諦めずに戦って来たではないですか。私には出来ません、それは、ティアニーズさんにしか出来ない事なのです」
「諦めない……それは違います。ただ、自分の弱さを認めたくなかっただけです。まだやれるって、自分は強いって、そう信じたかっただけなんです」
「だとしても、私はティアニーズさんの背中を見て学びました。決して諦めない気持ちが、いつしか目的のための大きな力となると」
「でも、そうはならなかった。いくら諦めずに立ち向かっても、結局はなにも守れなかった。私は、弱いままなんです」
諦めない勇気、なんて呼べるほど立派なものじゃない。
現実から目を逸らしたかっただけだ。
自分は強いんだと、強くなれたのだと、そう思いたかっただけだ。
結局、自分の事しか考えていなかった。
「あの人に会って、少しは強くなれたと思ってた。魔元帥と戦って、勝って、少しは自信もついてきた。けど、けど……私一人じゃなにも出来なかったんです。周りの人が助けてくれたから、私は勝てた」
「それが普通です。人は一人ではなにも出来ない、だから家族が、友達が、国というものがあるのです」
「それは、弱さです。私は勘違いしてただけなんです。助けられて勝ったくせに、自分が強いと思っていた。皆さんの強さを、勝手に私のものだと思っていたんです」
エリミアスは目を逸らさずに話を聞いている。声を荒げる事もなく、涙を浮かべる事もなく、ただティアニーズを見つめて。
だから、ティアニーズも目を逸らさない。
真っ直ぐに、その瞳を見据える。
「私も、一人ではなにも出来ません。皆さんの力があったからこそ、私はこうして生きているのです。だから、ティアニーズさんは弱くなんてありません。それが普通なのです」
「姫様は私とは違う。私にないものを、沢山もっている」
「それは違いますよ。私が持っているものは、皆さんからいただいたものです。皆さんと旅をして、この目で直に見て、触れて、私は沢山のものをいただきました。城に閉じこもったままでは得られなかった大切なものを、沢山」
「…………それをあげたのは、あの人です。私じゃない」
そもそも、ティアニーズは間違っている。
あの勇者と自分を比べる事自体が間違っているのだ。特別な力を持った人間と、なにも持たない人間。違って当たり前なのだ。
あの勇者だけではない。エリミアスもソラも、他の誰だって、ティアニーズとは違う。
でも、そんな当たり前の事にすら、今の彼女は気付けていない。
「最初から無理だったんです。あの人に追い付こうって思う事自体が、その考えが間違ってたんです。だって、私にはなにもないから。弱くて、弱くて、弱くて、弱くて……なにも、ないんです」
「そんな事ありません。ティアニーズさんは私にないものを沢山ーー」
「貴女に私のなにが分かるんですか!!」
エリミアスの声を、ティアニーズの怒声が上からねじ伏せた。
分からない。そんなの当たり前だ。
だって、他人の考えている事なんて分かる方がおかしい。
「なにも知らないくせに、分かったような口をきかないで! 生まれた時から欲しいものを欲しいだけ貰って来た貴女には、私の気持ちなんて分からない!」
「…………」
「欲しくても、欲しくても……私には手が届かないものが山ほどあるんです! どれだけ努力したって、指先が触れる事すらない! そんな経験が、貴女にあるんですか!!」
「…………」
「ケルトさんだってそうです。私は力が欲しかった、でも、ケルトさんが選んだのは貴女なんです! 奴らと戦える力を得たのは……なんで、なんで私じゃないんですか!!」
もし、ケルトがティアニーズと契約をしていたらーーそんなのは考えるだけ無駄だ。
ケルトはティアニーズを選ばない。
ティアニーズがどれだけ優れた人間だったとしても、選んでいたのはエリミアスだ。
それだけの恩を、ケルトは彼女の母親からうけていたから。
結局、嫉妬していただけなのだ。
自分がずっと欲しかったもの、目の前で簡単に手に入れるのを見た。
なんでお前なんだと、なんで私じゃないんだと。
そんな浅ましくて自分勝手な欲望。
ティアニーズ・アレイクドルは、自分の事しか考えていない。
そんな自分が、嫌で嫌で仕方なかった。
「分かってます……私じゃダメなんだって事くらい。私はあの人は貴女みたいに選ばれた人間じゃないから……平凡でちっぽけで、惨めで弱いただの人間だから」
「…………」
「なにか言ってくださいよ。今の私の言葉を聞いて、それでも私が強いって言えますか? こんな汚い人間のどこが強いんですか」
ドス黒い感情を全てぶちまけた。
でも、晴れやかにはならない。人に話せばスッキリするとか言う人間もいるが、そんなのは嘘だ。いくら話しても晴れないものはある。
それは、絶対に覆らない現実だ。
「私なんてこの程度なんです。本来は誰かに助けてもらうような人間じゃない。騎士団に入ったのだって、人を助けようとするのだって、結局は自分が満たされたいから。父のようになりたいと、そんな傲慢な考えからです」
目の前で困っている人がいて、それを助けると直ぐに決断出来る人間がどれだけいるだろうか。
ティアニーズは、それが出来る。
本気で人を助けたいという気持ちは確かにある。
けど、根底にあるのは汚い感情だ。
その人の無事を願うからじゃない。
自分の目的のための手段として、人助けをやっていたにすぎないのだ。
「……これが、私の本音です。力さえ手に入れば良いんです、それで全てが解決するから。あの人も、貴女も、もう誰も傷つく必要なんてない。私が全てを一人で終わらせます、傷つくのは、私だけで十分なんです」
ティアニーズは、なぜか笑っていた。
こんな自分を見られて、汚いものを全てぶちまけて、別におかしくなった訳ではない。
口に出す事で、改めて自分がどれだけ腐った人間なのかを再確認し、それに呆れているだけだ。
エリミアスはティアニーズの叫びを無言で聞いていた。ケルトもなにか言う気配はない。
沈黙が、流れる。
「ティアニーズさん」
一言、名前を呼んだ。
顔を上げ、エリミアスが歩き始める。
ティアニーズの目の前で足を止め、
「貴女は、なにも分かっていない」
振り回したエリミアスの掌が、頬を叩いた。
鈍い音が響き、ティアニーズはなにが起きたのかを理解出来ず、一瞬固まってしまった。
遅れて、頬の痛みが暴れ出す。
「確かに、私はティアニーズさんの事をなにも知りません。貴女のお父上が戦争で亡くなってしまった事も、つい最近まで知りませんでした」
至近距離で二人が見つめあう。
叩かれた頬が赤くなり、ティアニーズは言葉を吐く事を忘れていた。
「でも、貴女も私の事をなにも分かっていない。私は、欲しいものをなに一つ貰えなかった。どんなに願っても、私の立場がそれを与えてはくれませんでした」
「…………」
「けれど、やっと、やっと、私は旅に出てそれをいただいたのです。私が欲しかったのは、ティアニーズさん、貴女のようなお友達です」
「私は……友達なんかじゃない」
「私は、貴女を友達だと思っています。だから、私は貴女を許さない。なにも相談せず勝手に決めた貴女を、勝手に出て行ってしまった貴女を、絶対に許さない」
なにを言っているのか分からなかった。
全てを聞いた筈だ。全てを見た筈だ。
普通の人間なら、直ぐにでも縁を切りたくなるような一面を見せた筈だ。
なのに、なのになんで。
ティアニーズは、必死に言葉を紡ぐ。
「許さないのなら、どうするんですか? 私を今ここで殺しますか?」
「そんな事しません。私はそんなに優しくはない。必ず、必ず貴女に謝らせてみせます」
「謝る……?」
「はい。私や、他の皆さんの前で、ルーク様の前で、必ず貴女に謝らせる」
「謝罪がほしいのならいくらでもあげます」
小さく笑みを浮かべ、ティアニーズは頭を下げようとした。しかし、エリミアスがティアニーズの肩を掴んだ。
両手で、しっかりと。
「言った筈です、皆さんの前で、と。こんなところで謝られても意味なんてありません」
「…………」
「ティアニーズさんがどこへ行こうと、私は必ず貴女に会いに行く。貴女が一人で戦うというのなら、私は勝手について行きます。それが嫌なら、今すぐにでも戻って来て謝ってください」
ティアニーズは大きな勘違いをしていたようだ。
この少女は、ちっとも優しくてなんてない。
今ティアニーズが一番嫌がる事を、的確に言い当てて要求して来た。分かってやっているのかは不明だが、その言動に優しさなんて感じられない。
「友達だから、私は貴女を逃がさない。たとえ地の果てに行こうとも、絶対に見つけ出してみせます」
「……勝手にして。私は、もう戻るつもりなんてない」
エリミアスの両手を強引に払いのけ、ティアニーズは逃げるようにして背を向けた。
そのままフラフラと歩き出す。
捕まえようと思えば、エリミアスでも捕まえられるほどに今のティアニーズは衰弱している。
けれど、
「私、諦めませんから」
エリミアスは追いかけて来なかった。
引きずって連れ戻すのでは意味がない。
自分自身の意志で戻れと、そう言っているのだ。
ティアニーズは、振り返る事なくその場を立ち去った。
「上手く出来たでしょうか……」
ティアニーズの背中を最後まで見送り、エリミアスは緊張の切れたように大きく息を吐き出した。
疲れきった表情で振り返り、フラフラと揺れながらケルトへと歩みよる。
「はい。私はエリミアス様を誤解していたようです」
「誤解、ですか?」
「えぇ、貴女の優しさは人を傷つける」
「そ、そんな! では失敗なのですか!?」
「いえ、今のティアニーズさんには必要なものでした。優しく受け入れるのではなく、優しく突き放すという行動が」
「よ、良かったのです……」
後半からなにを言っていたか覚えてはいないが、ケルトの満足げな声を聞く限り、どうやら思いの丈を伝える事は出来たようだ。
確かに、ティアニーズは変わっていた。
エリミアスの思うような人間ではなかった。
しかし、それと同時に分かった事もある。
それが分かったからこそ、エリミアスはティアニーズを見送ったのだ。
「やっぱり、ルーク様とティアニーズさんは似ています」
ティアニーズは自分勝手で愚かな自分が嫌いと言った。
けれど、それはあの男そのものではないか。
自分の信じただけを突き進み、誰になにを言われようが気にしない。ただ自分のためだけに踏み出す。
どうしようもなく愚かで、人間くさい勇者。
ティアニーズは、あの男となにも変わらなかった。
「行きましょう。私のやれる事はやりました。あとは、ルーク様にお任せします」
「大丈夫ですかね? あの勇者、私達が出掛ける前にどこかへ行ってしまいましたが」
「そ、そうなのですかっ?」
「はい」
そう、エリミアスは知らなかったが、同じ貧民街のとある場所で、あの勇者も戦いへと身を投じていたのだ。