七章七話 『迷いの森』
馬の悲鳴が上がった。爆音をねじ伏せ、それは悲痛なものだった。
アキンの起こした爆発に巻き込まれ、僅かにガーゴイルの動きが鈍った。コントロールに不安はあるものの、巻き込む威力としては十分なものだった。
結果、ルーク達は上手く荷台から飛び下りる事に成功。しかし、喜んでいる暇なんてある筈もなく、
「走れ! 森にさえ入れば奴らは上手く飛び回れない筈だ! 前に進む事だけを考えろ!」
「俺だけ自力かよオイ!」
馬の操縦に意識を集中していたためか、アンドラは着地に失敗。派手に顔面から落下したが、鼻から垂れる血も気にせずに走り出す。
「おいティア! お前自分で走れ!」
「……行かないで…………」
「あぁもう! ソラ、加護そのまま使ってろよ!」
『了解した』
ティアニーズからの返事はなく、瞳は虚ろなままでどこかを見つめていた。恐らく、今がどんな状況なのかすら理解していないのだろう。彼女になにがあり、なにを思っているのかは分からない。しかし、捨てて行く事は、今のルークには出来なかった。
全員が固まってそのまま走り抜け、ようやく森へと足を踏み入れた。身長の何倍もあるような木々に見下ろされ、外から見るよりも中から見た方が、さらに森の雰囲気が怪しげなものだった。
遅れ、爆煙を抜けたガーゴイルが動き出す。
「オイアテナ! お前道分かってんだろーなオイ!」
「知らん! どのみち迷う覚悟で突入するつもりだったのだ、どの方向へ進もうがさほど関係ないさ」
「ふっざけんなオイ! こんな森の中で餓死なんて洒落になんねぇぞ!」
「餓死するよりも早く食われるかもな。そうなりたくなければ前を向け!」
「ガーゴイル、来ます」
迷って餓死するか、食われて胃の中で死ぬか。そのどちらもが嫌ならば、今は一歩でも前に進むしかないのだ。
冷静なケルトの言葉を聞き、最後尾にいたルークが振り返る。
「逃げ回れねぇんなら、こっちの好きにやらせてもらうぞ!」
ティアニーズを落とさないよう強く脇を締め、ルークは地を蹴った。普段なら動き辛い状況だが、加護のおかげもあってか体は軽かった。
立ち並ぶ木を足場にしてかけ上がり、ガーゴイルの頭上に飛び出ると、
「とりあえず一匹!」
剣を逆手に持ち変え、ガーゴイルの背中に突き刺した。そのまま落下の勢いを加え、体を貫通して地面に剣がたどり着く。剣を乱暴に抜くと、苛々をぶつけるように動かなくなったガーゴイルの頭を蹴り飛ばし、
「あと六匹!」
「ルークさん! 避けてください!」
その言葉の直後、ルークの真横を雷をまとった炎が通過した。やったのはアキン。アテナに抱えられながら狙いをすまし、放った一撃はガーゴイルの頭を粉々に吹っ飛ばした。
「ナイスだちびっこ!」
「流石アキンだ! あとでいっぱい褒めてやるからなオイ!」
「そんな場合じゃないです! 走ってください!」
「ご、ごめんなさい!」
腕を振り上げてアキンに近付いたアンドラだったが、お叱りを受けて肩を落とす。そんなアンドラの背後に、一匹のガーゴイルが迫っていた。
拳を握り、振り返る勢いを使って体を思い切り捻ると、
「しつけーぞオイ!」
放たれた右フックがガーゴイルの顎を的確に捉え、バチン!と鈍い音を立てて木に激突。
フラフラとよろけながら立ち上がろうとしていたが、追い討ちをかけるようにして飛んだケルトの足が、その頭部を踏み砕いた。
「う……」
「すみません、少し乱暴過ぎました。目を閉じていてください」
「い、いえ! ケルトさんが戦っているのです、私が目を逸らす訳にはいきません!」
飛び散る脳ミソを目にし、僅かに目を逸らしたエリミアス。しかし、直ぐに瞼を持ち上げると、決意のこもった瞳でケルトの顔を見つめた。
ケルトはエリミアスを担ぎ直し、
「では、私は頑張らないとですね。友として、貴女を守るために」
「はい! 頑張ってください!」
残るガーゴイルは四匹。しかし、地面が激しく揺れた。ドタドタと騒がしい足音とともに、魔獣の群れが森に突入を開始。巨木をすり抜け、狼のような魔獣、二足歩行のトカゲ、背中から大量の触手を伸ばすカエルーーともかく、見るに耐えない光景だった。
「クソ! 魔獣ってあんなキモいのばっかなのかよ!」
『デザインした男がアレだからな、そこに美的センスはない』
「人生初の魔獣が意外と普通で良かったよ!」
人間に不安感と絶望を抱かせるために造られたとくれば、あのグロテスクな見た目も納得だ。ルークが初めてサルマで目にした魔獣も、そこそこ気持ち悪かった。
ともあれ、そんな事を気にしている場合ではない。
「このままじゃ追い付かれんぞ!」
「木を倒して防壁を作るんだ! 少しでも良い、奴らの進行を妨げろ!」
「あいよ!」
ルークは斬撃を、アキンは爆発する鳥を放った。
光の斬撃は数十匹の魔獣を凪ぎ払い、近くに生えていた巨木を意図も簡単に斬り倒す。ギギギ、と音を立てながら葉が落ち、遅れて倒れた木が魔獣を踏み潰した。
一方、アキンの魔法は爆発しなかった。進むにつれて鳥は羽根を巨大化させ、魔獣の群れを一気に燃やし尽くす。木を燃やす、というよりは一部を抉りとり、不安定になった木は轟音とともに倒れる。
「そろそろコントロール出来るようになれ!」
「ぼ、僕だって頑張ってます! で、でも今の見ましたか!? ちゃんと出来ましたよ!」
「凄いぞアキン! やっぱお前は天才だオイ!」
これだけ甘やかされても、アキンはダメな子に育たないあたり、元々持っていた芯がしっかりとした子なのだろう。
僅かに出来た隙をものにし、一同は息を切らしながらも必死に進む。
だが、魔獣の進軍はとどまる気配がない。いくら妨害したとしても、魔獣の群れは気にする様子もない。死んで行く仲間の屍を踏み潰し、数でひたすら攻めて来るだけだ。
『ルーク、こんな事は言いたくないが、逃げるのは諦めるべきだ。無駄に体力をすり減らすだけだぞ』
「んな事分かってんだよ」
『決断しろ。戦うか、逃げるか』
一時は危機を脱したと思っていた。しかし、それは本当に一時的なものでしかなかった。このままでは追い付かれ、体力がなくなったところを叩かれて全滅ーーなんて結末が待っている事はルークだって分かっている。
生き残るには戦うべき。恐らく、それが一番勝算の高い道だ。いくら数が多いとはいえ、今ならまだ戦える。加護が切れるその瞬間までは、ルークは戦える。
だが、
「…………」
視線を下ろし、抱えられながらぐったりと力の抜けた少女を見る。
戦うという事は、もう一度この少女を泣かすという事だ。誰かに任せ、自分一人で群れに突っ込めば、今度こそ少女は全てを捨ててでもあとを追いかけてくるに違いない。
そして、死ぬ。
出来ない。それだけは出来ない。
もう二度と、あんな思いはごめんだから。
ルーク頭を、メレスに言った言葉過る。
微笑んだ。ニヤリと口角を上げ、
「逃げるに決まってんだろ」
『良いのか、私は戦う事をオススメするが……』
「バカ言え、俺を誰だと思ってんだ」
ソラの提案を切り捨てる。ソラがルークの体を気遣い、死んで欲しくないと思いながら、それでも苦汁を飲んで言った言葉だ。
戦えば、ルークだってただでは済まない。
そんな事は分かっている。
分かっているからこそ、ルークは言う。
「俺は逃げるのが得意なんだよ。相手が誰だろうが、それだけは負ける気がしねぇ!」
ルークが持つ、唯一の才能。
卑怯で、情けなく、相手が相手なら侮辱だと言われるかもしれない。背を向け、けつを振り、みっともないという事も理解している。
だが、ルークはそれを悪とは思わない。
恥ずかしい事じゃない。
逃げる事を捨て、命を捨てる行為こそが、ルークにとっては悪なのだ。
だから、
「もうあんなふざけた決断はなしだ。あとで俺をぶん殴る! だがなァ、それはここを切り抜けてからだ!」
情けない自分に腹が立つ。自分の命を削り、他の人間を生かそうとした自分に吐き気すらもよおす。
そうじゃない。ルークという男は、そんか格好良い男ではなかった筈だ。
「逃げるぞ! なにがなんでも逃げて、生き延びて、最後の最後にやり返しゃ良いいんだよ!」
『フッ……そうだな、貴様はそういう男だったな。しかしどうする? なにか策でもあるのか?』
「ねぇよ、逃げるのに精一杯だ」
『そんな事だろうと思ったよ』
耳元で、ソラの呆れ笑いが聞こえた。けれど、心なしか楽しそうな笑い声にも聞こえた。
すると、前を走るアンドラが振り返った。笑いながら独り言を口にするルークに訝しむ視線を向け、
「気持ちわりぃぞさっきから。んで、どうやって逃げんだオイ」
「んなもん、全力で走るに決まってんだろ。下手に体力消費するよか、その体力を走る事に温存した方が良いだろ」
「いずれ追い付かれんぞオイ。アイツら頭はわりぃが、体力はバカみてぇにある。群れの頭を殺せりゃ話は別だが……」
顔を揃え、同時に振り返る二人。約三秒ほど頭を探そうと群れを見渡したが、そんなの分かる筈がなかった。
再び同時に前を向き、
「全部同じに見えるんですけど。キモすぎて違いが分からねぇよ」
「奇遇だな、まったく同じ事を考えてたぜオイ」
「頭を殺すのは無理。異論はねぇな?」
「おうよ、全力で逃げるしかねぇなオイ!」
アンドラも決断したのか、走るペースが更に速くなる。仮面の下から呼吸の音を漏らすケルトの横を過ぎ、アキンを抱えて先頭を走るアテナの横につくと、
「逃げる事に決まったぞオイ。ひたすら前だ、迷ってもこの俺がどうにかしてやる」
「ようやく覚悟が決まったか。分かった、必ず逃げ切るぞ」
振り返ったアテナと目があった。安心したように微笑み、なぜか抱えていた不安が消えさったようにも感じた。
と、その時、なにかが横を通り過ぎた。
木の影から姿を現し、ゆっくりと歩みを進める。
「あ?」
ルークは思わず足を止めた。
それは、人の姿をしていたからだ。白髪混じりの髪に、物腰の柔らかそうに落ち着いた目尻。紺いろのセーターを着た老人だった。丸メガネをかけ、博識そうな印象を受ける。
だが、老人は歩いていた。魔獣の群れに向かって。
「お、おいおっさん!」
ルークの声も聞かず、老人はさらに前へと進む。このまま行けば、あの老人は群れに踏み潰されて死ぬというのに、気にする素振りすらない。
しかし、残り数メートルで魔獣の群れと激突するという時、老人は口を開いた。
「まったく、最近は静かに暮らせて安心していたが……やはりこうなったか」
一瞬だった。
地を揺らしなが進んでいた魔獣の群れが、同時に足を止めたのだ。老人の前で立ち止まり、魔獣達は恐れるように少しずつ足を下げる。
そこへ、老人はさらに一歩を踏み出した。
「ここは我々の森だと何度言わせれば気が済む。君達の親が誰かは知らないが、今すぐに帰れ。私の方が、君達よりも上だ」
凄まじい眼力、というものが実在するのなら、今の老人の瞳の事だろう。瞳に優しさを宿しながら、同時に怒りのようなものが混ざりあっている。静かに落ち着いた語り口調でさえ、心臓を握られているように思えてしまう。
「帰るんだ。そしてもう二度と、我々に近付くなと伝えろ。私達は帰らない……人を殺さないと、決めたからだ」
呟きの意味がなんのか、ルークには分からなかった。しかし、その言葉が合図となり、がむしゃらに進み続けていた魔獣の群れが一気に踵を返した。
悲鳴のよう奇声を上げ、焦ったように来た道を引き返した行く。
その様子を見て、ルーク以外の全員も足を止めていた。どれだけ攻撃しても引き下がる気配のなかった魔獣の群れを、意図も簡単に退却させた老人。どう考えても、ただ者ではない。
アテナは目を細め、警戒するように、
「ご老人、貴方は?」
「あぁ、いや、すまなかったね。いきなりで驚かせてしまったかな?」
「いえ、助かりました。ですが……」
「……怪しい、かね? もっともだよ、そう思うのが普通だ。これでも溶け込んでいるつもりなんだが……現実は上手くいかないものだな」
肩を落とし、落ち込んだように目を伏せる老人。コロコロと変わる表情に少しだけ警戒心が和らぐが、アテナはさらに問い掛ける。
「貴方は何者ですか? ここは迷いの森、騎士団でも容易に近付く事はしない場所です」
「ははは、そんな名前がついているのか。私は君達の敵ではないよ。仲間……という訳でもないが、危害を加えるつもりもない」
苦笑いしながら、敵意がない事を示すように両手を上げる老人。武器を持っている気配はないし、服は不自然に膨らんでいない。
ひとまずはいきなり襲って来る事はない、アテナはそう判断したのか、
「いや、すまない。少し威圧的過ぎました。魔獣に襲われてピリピリしていたんだ」
「謝る事ではないさ。こんな森にいる老人を、警戒しない方がおかしい。私ももう少し気をつけよう」
「それで、貴方は? かなりの強者とお見受けするが……」
「いやいや、そんな大層な者じゃない。……そこの仮面の女性は気付いているだろう?」
謙遜するようにはにかむ老人だったか、不意に話をケルトへと向けた。
老人は気付いていたのだ。ケルトが女性だという事ーー人間ではないという事に。
「はい、貴方は人間ではありません。そして、私と同じ、精霊でもない」
「精霊ではない、か……。そうだね、私は人間でも精霊でもない。君達の言うーー魔獣というやつだよ。そこの剣の君、君も精霊だね?」
言われ、ソラは人間の姿へと戻った。目を細め、明らかに老人を警戒しているような視線を向ける。だが、それはルークも同じだった。
以前に一度だけ、人の姿をした魔獣を見た事がある。それと同じ空気がする訳ではないが、魔獣というだけで警戒心は引き上げられる。
「魔獣なのに敵じゃねぇってのか?」
「全ての魔獣が人を襲う訳ではない。やりたくもない事をやらされる……君もそれは嫌いだろう?」
「おう、大ッ嫌いだ」
優しく微笑んだ老人に、ルークは即答した。
なんというか、老人は普通だった。魔王や魔元帥、先ほど逃げていた魔獣、そのどれとも違い、独特の雰囲気を放っている。
そう、例えるのならーー人間だ。
「我々は人を襲わない。そんな事をしても意味がないと、ただ虚しいだけど気付いたらだよ」
「その言葉を信用しろと言うのか?」
「いや、そんな甘い事が許されるは思っていない。我々魔獣がやって来た事は、憎まれて当然の事だからね」
ソラの問い掛けに、老人は軽く頭を下げた。多分、この老人は人を殺した事があるのだろう。非を認め、それを償おうと思っているーーそんな感情が伝わって来た。
老人は上げていた手を下げ、
「少し、話をしないか? こんな森に来て、私が魔獣だと知っても襲って来ない人間は珍しい」
「んな事言って、いきなり殺すつもりじゃねぇだろうなオイ」
「やるならとっくにやっている。それに、魔獣を引き返しさせたりしないさ」
「ですが、どこで?」
敵意むき出しのアンドラを押し退け、アテナが口を開く。
老人は静かに頷き、
「魔獣の村。我々が静かに暮らす場所だよ」