六章三十七話 『良かった』
剣を伝い、血が落ちる。
ピチャ、ピチャ、と一定のリズムを刻み、赤い液体が地面を濡らす。
メウレスの握る剣は、確かに左の胸を貫いた。的確に、鼓動を刻む心臓を一刺しにしたのだ。
魔元帥でいう宝石に近い臓器。その鼓動が止まれば、人間は命を落とす。それを貫いたという事は、もう助かる見込みはない。
死。先で待っているのはそれだけ。
なのに、微笑んでいた。
胸に突き立てられた刀身を握り締め、微笑んでいたのだ。
ウルスの口元が動く。
自分が刺した『男』を見て、ウルスは呟く。
「やっぱかっけぇなーートワイル」
「ゴ、フッーー」
蓋が外れたように、トワイルの口から大量の血がこぼれ落ちた。
そう、トワイルの胸を、貫いていた。
ティアニーズの横に立ち、唯一ウルスの動きに反応出来た人間。男は、ティアニーズを守るために剣を受けたのだ。
その一突きで、自分が死ぬと分かっていて。
「トワイル、さん……?」
背中を見つめ、ティアニーズは震える声で呟く。背中を貫通した剣が目に入り、瞳が動揺で大きく揺れた。
苦痛に満ちた声で、されど意志の揺らがぬ強い声色で、トワイルが呟く。
「俺の前で、部下は絶対殺させやしない……!」
「俺の思った通り、お前はすげぇ奴だったよ」
ブシュッ、と音が鳴る。
胸に刺さっていた剣が乱暴に抜かれ、血しぶきが上がった。膝をつき、トワイルの体が前のめりに倒れた。ジワリ、と地面に血が溢れ出す。
目の前が真っ暗になったような感覚だった。
分からない。
なんで、なぜ、なんで、なぜ、なんで、なぜ、なんで、なぜ、なんで、なぜ、なんで、なぜ、なんで、なぜ、なんで、なぜ、なんで、なぜ、なんで、なぜ、なんで、なぜ、なんで、なぜーー、
「アァァァァァァァッ!!!!」
無意識にティアニーズの喉が張り裂けんばかりに叫びを上げた。剣を抜き、トワイルを飛び越えてウルスに飛び掛かる。
ウルスは剣を振った。
剣同士が激突し、
「せっかく拾った命だ。俺が言うのもなんだが、大事にしろよ」
パキ、と音が生じ、握っていた剣が真っ二つに折れた。それと同時に頬を痛みが襲い、トワイルの横へと倒れこむ。
ウルスは二人に背を向け、
「わりぃな、殺す人間が変わっちまった。どうする?」
「いや、殺せればそれで良い。行くぞ」
「あいよ」
男との会話を終え、ウルスは歩き出す。
ティアニーズはそれを見る事すらしなかった。倒れるトワイルの体を抱き上げ、掌を傷口に押し当てる。腫れた頬に走る痛みすら、今は感じない。
そんなティアニーズに、ウルスは小さく呟いた。
とある少女に向けて。
「悪いな嬢ちゃん。これが、俺だ」
その瞬間、ルークの頭は起きた事を理解する事を放棄した。刺されたトワイル、殴られたティアニーズ、二人を見て、なにかが弾け飛んだ音が頭の中で鳴り響く。
体を包んでいた疲労が、倦怠感が、一瞬にして消え去る。
「ウルスゥゥゥゥゥゥ!!」
叫んだ。なぜ叫んだのかはルーク自身分かっていない。
ただ、受け入れられなかった。
トワイルが死ぬのを、本気で嫌だと思ってしまった。
これが、ルークが初めて誰かのために怒りを露にした瞬間だった。
「行くな!!」
しかし、単身で駆け出そうとするルークをソラが止めた。腰にしがみつき、小さな体で前へ出る足を必死に抑える。
「離せ……アイツだけは俺が殺す!!」
「ダメだ、今行ったところで貴様が死ぬだけだ!」
「るっせぇ!! んなの関係あるか! アイツを殺さねぇと気がすまねぇんだよ!」
「頼む!! ……もう、私はパートナーが死ぬところを見たくない!」
「ぐーー!!」
その言葉で、ルークは足は止まった。
そんな事を言われるなんて思ってなかったから。ソラが本気で涙を浮かべ、声を荒げるなんて思っていなかったから。
「行くぞ、十分に力は示した。これでもまだ足掻くと言うのなら、その時は殺してやろう。俺が、魔王が自らな」
吸い込まれるように、黒い影へと男が消えて行く。それに続き、他の魔元帥も消えて行った。
最後の一人、メウレスが足を踏み入れようとした瞬間、アルブレイルの叫びがこだました。
「メウレス! お前、なんでそっちにいやがる!」
「……隊長、貴方には世話になりました。本当に、心から感謝しています」
「待て!」
「すみません。でも、これが俺なんです。俺はーー魔元帥なんです」
それだけ言い残し、彼らは闇へと消えて行った。
残るのは静寂。時間にして、僅か十分ほど。
それなのに、こんなにも感情が動かされる事があるだろうか。否、それが彼らの力なのだ。
抱いた小さな希望を指先で捻り潰し、抗う意志を踏み砕き、なおも平然と闊歩する。
そこに感情は関係ない。ただ、圧倒的なまでの理不尽を振りかざし、根こそぎ人間の『希望』を焼き払う。
これ以上、適切な言葉なんて存在しない。
人間は言う。
それを『絶望』と。
「トワイルさん!!」
「トワイル!!」
朦朧とする意識の端で、声が弾けた。震える声で青年の名前を呼ぶ、ティアニーズとメレスの声だった。
しがみつくソラを乱暴に払いのけ、ルークは一心不乱に青年の元へと走る。
たどり着いたルークの目に入ったのは、ティアニーズの膝の上で息を小さく吐き出すトワイルの顔だった。息を吸う事さえやっとなのか、青ざめた唇が静かに揺れている。
しかし、青年の顔は微笑んでいた。
いつもと変わらず、あの爽やかな笑顔で。
「こんなところで死ぬなんて許さないわよ!」
「もう、無駄です……。心臓を刺されてる。いくらメレスさんでも……」
「うっさい! 少し黙ってろ!」
トワイルの声を遮り、メレスの手が傷口を強く押す。触れた箇所から光が溢れ、それは治癒魔法の発動を意味していた。
しかし、トワイルの顔色は一向に良くならない。
その命の灯火が消え行くように、静かに瞳から光が失われて行く。
「ふざッけんな! アンタが死んだら誰がアルの世話するのよ!」
「アハハ……それは、メレスさんにお願いしようかと」
「絶対に嫌よ! アンタが生きてするの! 私を誰だと思ってんのよ! これでも凄い魔法使いなんだからね!」
「知ってますよ。他の誰よりも、メレスさんの凄さは理解してます。……一応、これでも副隊長ですからね」
かわいた笑いを浮かべ、トワイルは力なく呟く。
そんなトワイルの胸に手を押し付けながら、メレスの『治りなさいよ!』という悲痛な叫びが辺りに響き渡る。
「トワイルさん……」
「そんな顔しないで……。これは俺の選んだ道だ。ティアニーズのせいじゃないよ」
「でも! 私がもっとちゃんとしていれば……もっと強ければ!」
「君は十分強い。俺やルークなんかよりも、あの魔王なんかよりもね」
「そんな事ない! 私は弱い……弱いから、トワイルさんがこんなめに!」
ティアニーズの瞳から、止まる事なく涙がこぼれ落ちる。頬を伝い、大きな雫はトワイルの頬を濡らす。
頬が腫れ、鼻水を垂らし、涙を流し、ぐちゃぐちゃになった顔で、ティアニーズは叫ぶ。
「ダメです……まだ死なないで! まだ教えてほしい事がいっぱいあるんです!」
「……そうか、俺はちゃんと副隊長出来てたんだね。そう言ってもらえると、副隊長になったかいがある……」
なぜ、こんなにも晴れやかに笑っていられるのか、ルークは分からなかった。これから自分がどうなるのか、それはトワイル自身が誰よりも理解している筈なのに、青年の笑顔はいつもとなにも変わらない。
もう、痛みはないのかもしれない。
それでも、笑っていられる余裕なんてないのに。
「メレスさん……」
「話かけんな! 今集中してんの!」
「良いから、聞いて。もうーーどうにもならない」
その言葉が、とどめとなった。
メレスは分かっていたのだ。治療を始めてから、険しい表情がずっと続いていた。治らないと、もう手遅れだと分かっていながら、諦められず、受け入れられず、みっともなく足掻いている自分を。
そんなメレスの手を握り、トワイルはそっと自分の胸から退かす。
「これが、副隊長からの最後の言葉です」
「そんなの、聞きたくない!!」
「ちゃんと……仕事してくださいね。適齢期が近付いて焦る気持ちも分かりますけど、メレスさんは騎士団です。凄い……魔法使いなんですから」
「なにが凄い魔法使いよ! 私は……アンタ一人助けられない……!」
「良いんです。だから、アルフードさんの事を……お願いします。あの人、意外と脆い部分があるから……側で誰かが支えてあげないと……」
「そんなの知ってるわよ。私がどれだけアイツと一緒にいると思ってんの!」
「ですよね、なら……安心して任せられる。第三部隊の副隊長は、貴女に任せます。皆を、ちゃんと引っ張って行ってくださいな」
ポツリ、ポツリと呟く。一つ一つの言葉には希望が見溢れていて、トワイルは最後まで他人の事を思っている。
怖くて仕方ないのに、それでも生きる者達の背中を押すように。希望を与えて行く。
「あと、コルワにも伝言を。コルワは強いけど、結構子供っぽいところがあるから……ちゃんと誰が導いてあげないと……」
「うん。あの子、まだまだガキだから」
「多分、泣くかな。泣いてくれると……嬉しいな」
「泣くわよ。鼻水垂らしてワンワン泣くわ」
「大人になれって、ちゃんと責任を持てって、伝えてくれますか?」
「うん。必ず、伝える」
メレスの瞳からは、すでに迷いが消えていた。これから起こるであろう事を受け入れるように、瞳にためた涙を必死に堪えて。
トワイルの目が、ルークへと向けられる。
「俺の人生でもっとも誇れる事は、勇者とともに戦えた事だよ」
「…………」
「君に会えて良かった。君と戦えて良かった。少し無鉄砲なところはあるけど……ルーク、君は間違いなく勇者だよ」
「…………」
「君は気付いていないだろうけど、違うって否定するかもしれないけど、君は多くの人間を救って来た。消えそうな希望の炎に、薪をくべて来た」
ルークは答えない。いつものような嫌味口調も、強気な発言も、他人行儀な態度も、なに一つ見せない。
言葉が、見当たらなかった。減らず口なら探さなくても出てくるのに、トワイルに向ける言葉がなにも見付からなかった。
「それはきっと、勇者にしか出来ない事なんだ。君だからこそ、出来る事なんだ」
「…………」
「この国を、世界を頼むよ。結末を見届けられないのは残念だけど、ルークなら大丈夫」
「…………」
「ソラにも伝えておいてくれるかな。ルークをよろしくって。ルークが前に進むには、必ず君の力が必要になるって」
これ以上ないほどの信頼を預け、トワイルは微笑む。それから少しだけ口を閉ざし、
「それと、ずっと聞きたかった事がある。俺は……君の友人になれていたかな?」
「……知らねぇよ」
かろうじて発する事の出来た言葉。
トワイルは少しだけ残念そうに息をもらしたが、直ぐに表情を正す。次に、静かにたたずむエリミアスへと視線を移す。
「姫様、貴女は強い。夢物語かもしれないけど、机上の空論かもしれないけど、貴女が望む世界がやって来る事を……俺は願ってます」
「はい。きっと、私は自分にしか出来ない事を見つけてみせます」
「……あぁ、本当に強くなられた。友人として、鼻が高いです」
「いえ、私もです。トワイルさん、貴方と友人になれた事を、貴方と旅を出来た事を、貴方に守っていただいた事を……この国の姫として、最大の感謝を捧げます」
「……ありがとう。エリミアス」
エリミアスは最後まで泣く事はなく、屈託のない笑顔で微笑んだ。トワイルの言う通り、彼女は強くなっていたのだろう。目を逸らさず、最後まで青年の姿をその目に刻んでいた。
そしてトワイルは、最後の最後で、彼女の友人として、その名を呼んだ。
もう、限界だった。
しかし、トワイルは口を、喉を、体を動かす。
まだ、伝えなくてはならない事があると言いたげに、涙をこぼすティアニーズの顔を見上げる。
「ティアニーズ、君のおかげだ。俺は、最後の最後で誇れる事が出来た」
「私は……なにも……」
「ずっと、見守っていたかった。いや、見守っているつもりだった。でも、君は俺の知らない間に成長していた。俺なんか通り過ぎて、もっとその先へ足を踏み入れていたんだ」
「まだまだです……。私なんか、全然トワイルさんには……」
「恥ずかしいけど、ちゃんと言うよ。俺は君に憧れていた。何度倒れても立ち上がる君の背中を見て、俺はいつも頑張ろうって気持ちになれたんだ」
照れ笑いを浮かべ、流れる涙を指ですくう。ほとんど動いていなかった。指先は震え、瞳からは色が消えている。それでも、トワイルは口を開く。
この希望だけは、絶対に繋がなくてはならないから。
「ティアニーズ、自分を責めないで。これは俺の意思なんだ、俺が自分で決めて、自分で歩いた道なんだ。だから、君は悪くないよ」
「私のせいです! 私がもっと、もっともっと強ければ! 皆を守れる力があれば……!」
「違うよ。そんな力、君には似合わない。君はもう、持っているじゃないか。誰にも負けない、決して折れる事のないーー諦めないっていう、勇気を」
「違う! 私はただ……前を向くのに必死で……」
「良いんだ。それで、良……い。自分を、決して見失わないでくれ。君の信じる道を、君の中にある気持ちを、絶対に忘れないで……くれ」
ティアニーズの頬に触れていた手が、ゆっくりと落ちた。
その手を掴もうとしたが、すり抜けて地面に落ちる。
トワイルは最後に空を見上げ、笑顔で呟く。
「あぁ、皆に会えて良かったよ。騎士団に入って、本当に良かった。安っぽい言葉だけど……俺は先に行ってる。皆を信じて……ずっ……と」
それが、最後だった。
青年の最後の言葉だった。
ありきたりで、特別じゃない言葉。
けれど彼にとっては、本当に思う、伝えたい言葉だったのだろう。
もう二度と、青年の目が開く事はなかった。
青年の体が動く事はなかった。
笑顔を浮かべ、青年は満足そうな顔だった。
ーーこの日、トワイル・マグトルは、死んだ。