六章三十六話 『魔元帥』
どう、表現したら良いのだろうか。
なにも感じなかった。水晶に中にいる時に感じた恐怖も、殺意も、威圧感も、底知れぬ悪意も、今の男からはなにも感じない。静かな声とともに放たれた言葉は、周囲の音を全てねじ伏せて耳に滑り込んで来た。
だが、なにも感じない。
本当に『あれ』が魔王なのかという疑問さえわいてくる。とてもじゃないが、この国を滅ぼそうとした存在には思えない。
ルークがまったく勇者に見えないように、男はまったく魔王に見えない。
似ている、という訳ではないけれど、ルークは一目見て理解した。
あの男の本質は、自分に近しいものなのだと。
「あれが……魔獣の王」
「間に合わなかったのか……」
隣で倒れていたソラが、悔しさを拳に乗せて地面に叩き付けた。
だがしかし、ルークはそれほどの危機感を抱いてはいなかった。確かに強いのかもしれないが、こうして向かいあった今も、危険度ならばメウレスの方が上だとさえ感じている。
「本当にアイツがそうなのかよ。全然やばそうに見えねぇぞ」
「貴様は分かっていないのだ。覚悟しろ、ここで全滅する可能性もある」
ルークは立ち上がる。身体中にまとわりつく水晶の欠片を手で払いのけ、男へと視線を送った。
男はしばらく辺りを見渡し、一人一人の顔を確認するように頷く。それから顎に手を添え、
「どういう事だ。なぜお前しかいないーーメウレス」
「すまない。色々と予定外の事が起きた」
「予定外の事? お前が予想出来なかった事だと? 笑わせるな、お前が……いや、まて、なるほど……これは驚いたな」
自分に歩み寄るメウレスに僅かな怒りを向けていたが、男はソラを見た瞬間に笑みで口元を満たす。
その時、全身を寒気が襲った。見られたのはルークではないのに、一瞬だけ動くという当たり前の行動が頭からすっぽ抜けたのだ。
「こうしてまた会えるとは……いや、俺を封印したのだから会えて当然か。久しいな、アルト」
「アルト、だと?」
「ん? なにを驚いている」
「その精霊は記憶を失っている。当然、本当の名前も忘れている」
「記憶を? そうか、俺を封印するのに力を使った代償か。まったく惨めだな、パートナーを失い、自分の記憶も失った。その上、俺はこうして再び目を覚ました」
衝撃的な発言に、ルークは思わず息を飲んだ。いや、元々適当につけた名前なので当たり前なのはそうなのだが、ソラの本名ーーあの男はアルトと呼んでいた。
それは本人も同じで、呼ばれたソラが一番驚いているようだった。
「お前の負けだ。お前の努力は全て水の泡。あの男の命も全て無意味。だが誉めてやろう、俺を五十年も封じ込めていたのだからな」
「黙れ……! 私の前で奴を侮辱するな!」
「ほう、記憶はなくとも心が覚えているか。相変わらず弱いな、精霊。その安っぽい友情とやらのせいで、お前は敗北したんだよ」
初めて、ソラが本気で怒りを露にしている瞬間を見た。以前、多少は前の勇者を覚えていると言っていたが、ソラはその話をまったくしようとはしなかった。
ルーク自身、興味がないので聞かなかったが、彼女なりに思うところがあるのだろう。
それを、男はバカにしたように鼻で笑った。
下らないと、無様だと、面白くて仕方がないと、そう言って笑った。
「だがまぁ、これは俺も予想外だった。メウレス、お前の言う通りだ」
男は腕の感覚を確かめるように拳を握り、今度は屈伸を始めた。全身が思い通りに動く事を確認すると、
「まさか、俺が四人も殺されるとはな。デスト、ウルス、ユラ、ニューソスクス。殺ったのはどこにいる?」
「そこの男だ」
「……ほう、あれか」
メウレスの指先ーールークへと男の視線が注がれる。
ルークは一瞬躊躇ったが、直ぐ様睨み返した。
「今度の契約者はお前か。まったく、懲りない奴だな。また死ぬだけだぞ」
「黙れ、もう二度と殺させん」
「その言葉、前にも聞いた気がするが?」
「おうコラ、さっきから好き放題言いやがって、俺は死なねぇぞ」
「随分と大きな口をきくな。殺すぞ」
「やってみろ、カス」
たまらず口を挟んだルークに、男の殺意が注がれる。しかし、ルークは動じない。なぜだか分からないが、腹の底から男に対して怒りがわいていたのだ。
イリートと初めてあった時と同じように、理由はないが本能が叫ぶ。
この男の事が、大ッ嫌いだと。
「今回のは態度がデカイな。まぁ、どのみち殺すが」
「上等だ、今すぐぶっ飛ばしてやるからかかって来い」
「では……と言いたいところだが、いかんせん体が上手く動かない。今戦ったとしても、ギリギリ勝てるかどうかだな」
「ざけんな、言い訳して逃げてんじゃねぇ」
「状況を冷静に見極めただけだ。お前はバカか? 俺は勝ちめの低い勝負をするほどバカじゃない」
「魔王が聞いて呆れるぜ。結局ビビったるだけじゃねぇかよ」
「調子に乗るなよ」
「だったら来いや」
今のやり取りで分かったが、向こうもルークが嫌いらしい。お互いがお互いを牽制し、今にも飛びかからんとする空気が流れる。
しかし、男は一旦流れを立ちきるように手を叩くと、
「お前の相手はあとだ。先にやらなばならない事がある」
「あ?」
「言った筈だ、勝ちめのない勝負はやらないと」
そう、男が言った直後だった。
ベキ、と音がなる。
男が、自分自身の腕を引きちぎる音だった。ボタボタと流れる血を気にもせず、男は千切った腕を乱暴に投げ捨てる。
「なに、やってんだテメェ……」
「まぁ見てろ。お前らにくれてやる、絶望をな」
投げ捨てられた腕が、一人でに動き始めた。皮膚が波打ち、指先が勝手に暴れる。まるで、それ自体が生き物かのように、腕は地面を転がる。
そして、それは起こった。
千切れた腕が、さらに四つに別れる。
ただの肉片は内側から肉が盛り上がり、メキメキという音を出しながら巨大化していく。やがてそれは、人の形となった。目も口もない、のっぺらぼうの人形のようだった。
そこへ、男は呼ぶ。
「デスト、ウルス、ユラ、ニューソスクス。起きろ」
直後だった。
肉の人形が激しく伸び縮みを始めた。
肉をこねたような音、骨が折れたような音。雑音、快音、それらを奏で、肉の塊は形を得て行く。
ルークは、ただそれを見ているだけだった。
いや、その場の全員が、目の前で起きる歪な光景を眺める事しか出来ない。
そしてーー、
「アァ……? なんだ、こりゃ……」
白髪の男が呟く。
頬に刻まれた傷が特徴的で、全体的にチンピラを思わせる風貌の男だ。
「……あれ、意外と早かったのね」
次に口を開いたのは女性だった。
胸の辺りまで伸びる茶色の髪、妖艶という言葉が当てはまる女性だった。
「んぁ……? 俺爆発したよな?」
次に口を開いたのは男だった。
ボサボサの寝起きのような緑色の髪、病人服のようなものをまとった男だった。
「ふぅ、ようやっと生き返れた。おせぇぞ親父」
最後に口を開いたのは男だった。
真っ赤に燃える炎のような髪。飄々とした態度だが、一本筋の通った男だ。
赤い髪の男ーーウルスは言う。
「また会えたな。ルーク、ティアニーズ、トワイル、メレス……それと、嬢ちゃん」
ルークは気付かなかった。
いつの間にか、その場にエリミアスが来ていた事を。
だって、そんな事を気にしている余裕なんてなかった。
四人の魔元帥を前に、ルークは瞳を揺らす事しか出来なかったのだ。
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デスト、ウルス、ユラ。
その三人は、かつてルーク達が殺した魔元帥の名だ。宝石を砕き、確かに彼らはこの世界から消えてなくなった。魔元帥にとって宝石とは命であり、それが砕ければ生きてはいけない。
なのに、なぜ、
「なんで、テメェらが……」
ーーなぜ、死んだ筈の魔元帥がここにいるのだ。
訳が分からなかった。千切った腕が形を変え、殺した筈の魔元帥になった。常識の範疇なんてとっくに飛び越えている。元々人間の常識が当てはまるような連中ではなかったが、それでも、見た目は人間となにも変わらない。
けれど、今のを見たら、人間なんて言葉は絶対に出て来やしない。
正真正銘、化け物でしかない。
そして、それをやった男は、
「なんのつもりだ。なぜお前らが死んでいる」
「しょーがねぇだろ。思ったよりも人間が強かったんだよ。それよか褒めろよな、一人で王都に乗り込んだんだから」
「んー、私は最後望んでたところもあるし、正直起こされて苛々してるわ」
「俺は自爆した。……しかも誰も殺せてみてーだな」
「なんだよ、俺は……死んでたのか……?」
あろう事か、彼らは普通に会話を始めた。家族団欒の賑わいを見せ、各々が好きな事を口にする。
そんな中、現実を受け止められていないのか、デストが両手を見つめながら歯ぎしりをした。それから顔を上げ、ルークと目があう。
目が、大きく開かれた。
その奥に怒りが燃え盛り、
「テメェェェェェェェ!!!」
デストの叫びが響き渡る。それはルーク一人に向けられたものであり、憤怒の感情だった。誰に殺されたのかを思い出し、彼の怒りは極限まで高まっているようだった。
「ぶっ殺してやるッ! テメェなんぞに俺が殺される筈がねェんだよ!」
「デスト……!」
「きやすく俺の名前を呼んでんじゃねェぞカスがァ!!」
咄嗟に手を伸ばし、ルークは剣を握りしめようとする。が、その手はソラへと届かなかった。突然全身から力が抜け、その場に崩れ落ちたのだ。
当たり前だ。ここまでどれだけ力を使って来た。
数千のゴーレムとの戦闘。メウレスとの戦闘。
とっくに、ルークの体は限界を迎えていたのだ。
「ルーク! バカ者、もう戦える状態ではないぞ!」
「うっせぇ、んなの関係ねぇんだよ……! 今ここでアイツら全員ぶっ潰す!」
「止めろ! 無理に動けば死ぬぞ!」
「関係、ねぇんだよ!」
勝てる筈がない。メウレス一人でさえ勝てないのに、それを五人ーーいや、六人同時に相手に出来る筈がない。今までだって、一対一ですら勝つのがやっとだったのに、もうルークの体は戦える状態ではない。
しかし、相手にそんな事情は関係ない。
怒りを露にするデストは、倒れるルークへと走り出す。
「テメェだけは俺がぶっ殺さねェと気がすまねェ!!」
「待て、デスト」
感情に体の主導権を奪われていたデストを止めたのは、父親の一言だった。たった一人で、その足は止まる。別になにか特別な事をした訳ではない。子供をしかるように、怒鳴り付けた訳でもない。
ただ、静かに呟いただけだ。
「うっせェぞ、俺はアイツを殺す……!」
「……俺は待てと言ったんだ。殺すなとは言っていない」
「だったらいつ殺して良いんだよ、アァ!?」
「少し黙れ。俺は腕を千切ったんだぞ? あまり苛つかせるな」
「……く、そ!!」
行き場のなくなった怒りを発散するように、デストは硬く結んだ拳を地面に叩き付ける。拳が触れた箇所を中心に蜘蛛の巣のような亀裂が走り、デストは舌を鳴らして元の場所へと戻った。
「相変わらず短気だなぁ」
「うるせぇ、殺すぞ」
「おー怖い怖い。久しぶりだな、ルーク。また会えて嬉しいぜ」
楽しそうに地面に入った亀裂を飛び越え、ウルスがルークへと近付く。
彼も同じだ。ティアニーズ達が殺した筈なのに、前と変わらずにふざけた態度で口を動かしていた。
「テメェ……死んだ筈じゃねぇのか」
「あぁ、きっちりバッチリ死んだよ。ティアニーズにとどめを刺されてな」
「じゃあなんで……!」
「お前も見ただろ。これが親父の力。俺達魔元帥や魔獣を作った力だ」
確かに、魔王は全ての魔獣の生みの親だと言われている。だから魔王と呼ばれているのだが、ルークの思っていた作り方とは大分異なる。
わき上がる怒りに突き動かされ、ルークは拳を握って立ち上がろうとする。そんな時、
「ウルス、さん」
「よォ。俺の言った通りになっただろ?」
背後から声がした。ウルスの顔を見つめ、声を震わせながら呼んだのはティアニーズだ。
殺した筈の男が生きている。その事実は、ティアニーズを動揺させるには十分だった。
「なんで、生きてるんですか……」
「言っただろ? また会えるのを楽しみにしてるって」
「でも、私は確かに……!」
「殺されたよ。俺はお前達に負けた。別にリベンジしたかったって訳じゃねぇが、こうして戻って来たぜ」
手を広げ、心底楽しそうに微笑むウルス。
彼はなにも変わっていない。人間が好きで、人間の強さを認めていて、それでも敵であると宣言した男。
エリミアスに、踏み出す覚悟を与えた男。
「本当は嬢ちゃんとも話しておきてぇが、そろそろ戻らねぇと親父にきれられちまう」
そう言ってウルスは再びスキップをしながら戻って行った。
魔王、そして五人の魔元帥。
これ以上ないほどに、それは絶望と呼べる光景だった。
人間は勝てない。
そう思わせるには、十分だった。
「んで、どうすんだ?」
「ここに用はない。今は俺の傷を癒す事を優先する。いずれ殺す機会は回ってくる。だが、それは今ではない。良いな、デスト」
「あぁ」
男の言葉に、デストは気に入らないといった様子で頷いた。そのご、男達はルークに背を向ける。もう、興味はないと言いたげに、その場から去ろうとしていたのだ。
しかし、そんな事ルークが許す筈がない。
拳を叩き付け、
「待て! 逃がす訳ねぇだろ!」
「今回は……そうだな、あえて逃げるという言葉を使おう。今のお前には殺す価値すらない。それを理解しろ」
ルークへと視線を送る事すらせず、男はゆっくりと足を踏み出した。男達の前に黒い影が出現した。ゆらゆらと揺れ、転がっていた石ころを吸い込む。
しかし、そこで一旦足が止まった。
首を捻り、男はその場の全員を眺める。
ニヤリと、怪しく口元が動いた。
「……いや、止めておこう。ここでなにもせずに逃げれば、俺がただの負け犬になってしまう」
「どうすんだ?」
「一人殺して行く」
「あいよ。誰にする?」
軽いテンポの会話だった。男の言った『殺す』という言葉に、ウルスはなんの迷いもなく即答で頷く。
男は吟味するように全員の顔を見つめ、一人の少女で視線を止めた。
そして、言う。
殺すべき、人間の名を。
「ーー桃色の頭のガキを殺せ」
「ーー了解」
タンッ、とウルスの体が跳ねた。
突然過ぎて、意味が分からなくて、誰も動けなかった。ルークは動けず、横を過ぎるのをただ見送った。
しかし、ウルスは止まらない。
力で造った剣を握り締め、ティアニーズの目の前に降り立つ。
そして、小さく、呟いた。
「悪いな」
直後、ウルスの剣が左胸を貫いた。