六章三十五話 『魔の王』
ティアニーズの背中を見送り、エリミアスは自分の無力さに唇を噛み締めた。唇が切れ、血が口内に流れ込む。なれない血の味で口の中が満たされ、ますますその不安はかきたてられた。
彼らは、彼女達は、この血の味を何度も味わい、それでも前へ進む事を止めない。
辛いのに、苦しいのに、逃げてしまえば楽なのに、誰一人逃げ出す者はいない。
「私は……」
「お気になさらないで。エリミアス様が行っても事態は良い方向へは進みません。危険な場所へ、わざわざ行く必要はないのです」
うつ向くエリミアスを慰めるように、ケルトが背中を優しく撫でた。
なにも変わらないーーその言葉が、胸の奥深くに突き刺さる。
そんな事、誰に言われなくても分かっている。いつだって誰かに守られて、エリミアスは今日まで生きて来た。
それが嫌で城を抜け出したのに、結局なにも変わってなどいない。何度も守られ、その度に己の無力さを痛感し、それでも前を向こうと頑張った。
だが、なにかが変わる事はなかった。
結局、足手まといでしかなかった。
「自分が無力だという事は分かっていました。それでも外の世界が見たいと、私にもなにか出来る事があるのではなかいと、必死に前だけを向いて来ました」
違う。分かっている。
前だけを向いて来たんじゃない。他のものを見ないようにして来ただけだ。
一緒に旅するのが楽しくて、皆と笑っているのが好きで。この旅はそんな気楽なものじゃないと理解していながら、エリミアスは自分の気持ちに抗えなかった。
「少しだけ、強くなれた気がしていたのです。城に閉じこもっていた頃よりも、ほんの少しでも……前に進めていれば」
エリミアスはルークに言った。
皆が、魔獣も人間も、全員が笑って暮らせる世界が創りたいと。
けれど、それがどうだ。この光景を見て、この悲劇を前にして、自分がどれだけ愚かな事を言っていたのか、それが分からないほどバカじゃない。
「でも、進めていませんでした。口ばかりで、結局私はなにも出来ていない。ルーク様やティアニーズさんに任せて、私はいつも後ろから眺めているだけ……」
「それが貴女の役目です。そして、彼らはそれを望んでいる。貴女が生きる事を」
「わがままかもしれませんが、私は嫌なのです。皆さんと一緒に戦いたいのです。私には力などなくて、弱くて小さな存在です。けど、けど……」
守られる事が、こんなにも辛いとは思わなかった。見ているだけが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
今まで当たり前だったものは、現実を前にして簡単に崩れ落ちた。
無力が、こんなにも悔しいなんて。
「悔しい……! なにも出来ない事が、凄く悔しいのです……!」
自分に力があれば、なにかが変わったのだろうか。
ティアニーズのようにブレない意思があれば、ルークのように何事にも怯まず立ち向かう勇気があれば、トワイルのように全てを受け入れる優しさがあれば、ソラのような自信があれば。
いや、違う。
なにも変わらない。
だって、エリミアスはエリミアスだから。
他の人間にはなれない。
前を向くと決めた筈なのに。
目を逸らさずに全てを見ると決めたのに。
なにも、見たくないと思っている。こんなにも残酷な現実が広がっていたのなら、城に閉じこもっていれば良かったと。
「ここへ、来なければ良かった。私には、皆さんの隣に立つ資格なんてなかった……」
それが現実だ。力のない者は戦う事が出来ない。
いくら意思があっても、結局は力が全て。
立ち向かうためには、勇気だけじゃまだ足らない。
「……エリザベス様に、言われた事があります。私の娘はとても優しくて、人の痛みが分かる子だと」
「お母様から……?」
「貴女は十分強い。私や、あの勇者よりも。誰かのために涙を流せる……それはきっと、本当に強い人間でなければ出来ません」
「でも、そんな力では……」
「本当に強い人間は、人を受け入れる事が出来るーーそう、エリザベス様はおっしゃっていました。人の醜い部分も、汚い部分も、全てを受け入れて、それで良いよと言える人間だと」
「そんな力では、戦えない!!」
思わず、声を荒げていた。ケルトはなにも悪くないのに、八つ当たりだと分かっていて、エリミアスは感情を抑える事が出来なかった。
しかし、ケルトはエリミアスを抱き締めた。
優しく、暖かく、心の底にある冷たい感情をほぐすように。
「人を許す勇気ーーそれが、貴女の強さです」
「ーーーー」
その時、エリミアスは母親の事を思い出していた。幼い頃の僅かな記憶。
絵本を読んでくれて、寝る前には必ず抱き締めてくれた。そんな些細な当たり前の記憶。
ケルトは離れ、顔をおおっていた仮面を外す。
不気味な仮面とは相反し、整った顔立ちだった。赤い瞳は恐怖ではなく、優しさを宿している。表情は変わらないけど、どこか、懐かしささえ感じる。
「力がないのなら、私が貴女の剣になりましょう。私が貴女の盾となり、貴女をお守りします」
精霊の力。それは魔元帥と対等に戦える力であり、ルークと同じ力だ。
その力を手にすれば、正真正銘エリミアスは本物を手に入れる事になる。ずっと、ずっと欲しかった戦うための力。
「私と契約すれば、貴女は戦う力を得る事が出来ます。戦闘に特化した勇者ほどの力は出せませんが、私もそれなりに戦えます」
けど、
「いえ、私はいりません」
エリミアスは、即答した。
願いを突っぱね、欲しかったものから遠ざかる。
またとないチャンスだと分かっていて、また弱い自分に戻ると分かっていて、エリミアスはその言葉を断った。
けれど、迷いはない。
涙を拭い、エリミアスは言う。
「私は私です。どれだけ努力しても、ルーク様やティアニーズさんのようにはなれません。いえ、なってはダメなのです」
「…………」
「私はこの国の姫です。皆を置き去りにして、一人で戦う事は許されません」
まだ、姫なんて大それた役割の意味は分からない。幼い頃から覚悟はしてきたけれど、まだエリミアスは少女だ。
けれど、迷いは消えた。
きっと、進むとはこういう事なのだろう。
「だから、契約ではなく、私と約束していただけますか? ずっと、これからずっと、私とともに戦ってくれると」
一緒でなければ、意味がない。
並んで味を揃えて、たとえ小さな一歩だとしても、ともに歩む事に意味がある。
悔しさは、弱さは罪ではない。
それは、まだ強くなれるという事だ。
この先も、もっともっと前に進めるという事だ。
だから、エリミアスが手にするのは、ただの力では意味がない。暴力では意味がないのだ。
ともに歩き、支えるーー優しさという何者にも負けない強さ。
手を伸ばす。
「どうか、私を支えてください」
躊躇いはなかった。
ケルトはその手を握る。
片膝をつき、エリミアスの瞳を見据え、
「はい、つつしんでお受けします」
ケルトはそう言って、くったくのない笑顔を見せた。
迷いはない。
だったら、行かなくては。
もう、守られてばかりは嫌だから。
「皆さんのところへ行きましょう。案内してください」
「分かりました」
エリミアス・レイ・アストは進む。
自分を守る大事な人達を守るために。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ケルトの言われた通りに進み、祠のある場所までたどり着いたティアニーズ。いくつかのボロ小屋が並んでおり、その先に明らかな違和感を放つ石の建造物が建っていた。
そして、
「ん? 遅かったじゃない」
「メレスさん!?」
祠に向けて走り出そうとした時、視線の先に見知った人影が三つ。トワイル、メレス、ハーデルトの三人が立っていた。
メレスとハーデルトはほとんど外傷がなく、魔元帥と戦ったにしては綺麗過ぎるが、無事ならばなんの問題もない。
ティアニーズは三人に駆け寄り、
「良かったぁ、無事だったんですねっ」
「あったり前でしょ。私を誰だと思ってるのよ」
「一時はどうなるかと思ったけどね。一応、アンタの手柄って事にしといてあげる
」
「目が覚めたみたいだね。無事でなによりだよ」
「はい! ……それより、その背中の子供は誰ですか?」
相変わらずの様子に、ティアニーズは安堵の息を吐く。しかし、ここで異変に気付いた。
トワイルが見知らぬ少女を背負っていたのだ。逃げ遅れた一般人かとも思ったが、手足をロープでぐるぐる巻きにされている。
トワイルは背中の少女に目をやり、
「あぁ、彼女かい? 説明するとややこしいんだけど……とりあえず、魔元帥だよ」
「へぇ、魔元帥……え、魔元帥!?」
「メレスさんが気絶させたんだ」
「だ、大丈夫なんですか!? そんな簡単に触れてしまって!」
「寝てるし、多分大丈夫なんじゃないかな。それに貴重な情報源だ。このまま彼女には王都まで拘束させてもらう」
トワイルの背中の少女ーー魔元帥は気持ち良さそうに寝息を立てている。その寝顔は普通の少女そのもので、とても人類の脅威とは思えなかった。
トワイルの警戒心のない態度に若干の不安を覚えつつ、
「それなら、良いんですけど……。いきなり起きて襲って来たりしませんかね?」
「そん時は私がどうにかするわよ。最悪、情報は諦めて殺すしかない」
「……今度は通用するのからしらね」
「なに、手柄取られたからって嫉妬? 醜いわよぉ」
「アンタに嫉妬なんかした事ないわよ。勝手に言ってなさい」
ウザさ全快のメレスと、それを軽くあしらうハーデルト。その非常時にそぐわぬやり取りだが、こんな時だからこそ普通の光景が心を癒す。
四人は味を揃え、祠へと向かおうとした時、
「やはりここにいたか。いやはや、町を走り回るのは疲れたぞ」
「おう! お前ら無事だったか!」
声の方に目をやると、疲れた様子のアテナ。そしてーー今にも死にそうなアルブレイルが元気良く手を振っていた。片腕はぶら下がり、頭からはピューっと血が噴射。ヘラヘラと笑ってはいるが、真っ直ぐ歩けていない事に本人は気付いていないのだろうか。
ともあれ、
「アテナさん! アルブレイルさん!」
「ちょ、なによそれ。アンタ良く生きてられるわね」
「このくらいへーきだ。鍛えていれば……」
バタン、と力尽きたようにアルブレイルが倒れた。
全員は顔を合わせ、自然と笑みがこぼれ落ちる。ハーデルトはため息をついたのち、瀕死のアルブレイルの治療を始めるのだった。
それから数分後、事を乗り越えたアルブレイル。全員が集まり、とりあえず戦況を方向する事になった。
「こっちは魔元帥を一人捕縛したわ。トワイルの背後にいる奴ね」
「こちらは……最後は自爆したそうです。多分、もう生きてはいないかと」
「こっちもだ。団長が真っ二つに引き裂いた」
「私とお前で、だ」
「この町に入り込んだ魔元帥は、ニューソスクスの話だと四人。皆の話を合わせると討伐出来たのは二人、そして拘束が一人。残りは……」
トワイルの言葉のあと、全員の視線が祠へと注がれる。
残る最後の魔元帥は、恐らくあの中にいる。そしてあの祠の中にはルークがいる。となると、交戦しているのはまず間違いないだろう。
そして、
「魔王も、あそこに……」
「は? ティアニーズ、それって本当なの?」
「はい。魔元帥の一人が言ってました」
メレスの驚きにつられ、他の面々も驚いたように声を上げる。
正直に言って、既に全員が限界を超えている。ほぼ無傷のアテナは置いておくとしても、まともに魔元帥と交戦した他のメンバーは戦えないだろう。
もし仮に、この状況で魔王が復活ーーなんて事になれば……結果は考えるでもない。
「早く行きましょう。ルークさんが心配です」
「それなんだけど……あの扉、精霊じゃないと開けられないんだ」
「私が試したから本当よ。びくともしない。そこの筋肉バカ、無理だから試そうとしない」
筋肉バカと言われ、なぜか嬉しそうにするアルブレイル。無理と言われ、筋肉が名乗りを上げたのだろう。さりとて、無駄に動けば寿命を縮めるだけなので、メレスとハーデルトが抑える。
「でも、早くしないとルークさんが!」
「分かってる。幸い、ここには戦力が集中してる。全員でぶっ壊すわよ、あれ」
「出来るの?」
「やるの」
短い会話で、メレスとハーデルトが笑みを交わす。
国を代表する魔法使いが二人。これ以上に頼もしい事はないだろう。
祠へ手を向ける二人に続き、全員が構える。
一斉に攻撃を開始しようとーー、
「ーー!?」
瞬間、ティアニーズ達の立つ地面が激しく揺れた。地震ではない。ピンポイントで、その場所だけが揺れているのだ。
ボロ小屋が音を立てて崩れ、立つ事さえ困難なほどに揺れは強くなる。倒れそうになったところをトワイルに支えられ、
「な、なにが……!?」
「分からない。けど、ただの揺れじゃなさそうだね……」
さらに揺れが強くなる。まるで、なにかが地下から近付いて来ているかのように。
そして数分後、揺れが収まった。
辺りの小屋は根こそぎ倒れ、木々は掘り起こされたかのように土を巻き上げて横倒しになっていた。
「収まった……?」
「いったいなんなのよ、次から次へと……」
それで、異変は終わらなかった。
光が上がった。祠のあった場所からだ。
祠が光に飲まれ、一瞬にして消し飛んだ。地下から上がる光の柱は空高くまで伸び、雲を突き抜けてさらにその上までひたすら上がる。
一瞬、ティアニーズは首を傾げた。
嫌に冷たい光だったからだ。雲から覗く太陽の光をかき消し、純粋な不安だけを植え付けるかのような光。人間の悪感情を全て詰め込んだようなーーともかく、見ているだけで体の震えが止まらなかった。
なにがどうなったら、あそこまで邪悪なもが完成するのだろうか。そんな疑問さえわいてくる。
光とは、本来照らすものだ。なのに、あれはそもそも照らす気などない。光なのに、全てを飲み込んで潰してしまう。
圧倒的な、破壊の渦だった。
と、逸らす事も出来ずに目を奪われていると、不意に光が激しく左右に揺れた。
その直後、光の中からなにかが飛び出して来た。
人だった。それも四人。ティアニーズが良く知る人間の顔だった。
その名前を、叫ぶ。
「ルークさん!!」
ルーク、ソラ、アンドラ、アキン。
ずっと姿が見えなかった四人。その四人が、光の中から飛び出して来たのだ。
くるくるときりもみ回転し、そのまま落下。
ティアニーズは直ぐに駆け出した。
やっと、やっと会えた。
しかし、
「来んな!!」
立ち上がったルークが叫ぶ。見れば、肩から大量の血が流れている。しかし、それを気にするどころか、ルークは直ぐに剣を握り締めて光を見つめる。
つられ、ティアニーズも目を向けると、既に光は消えていた。
その代わりに、巨大な水晶があった。
中に人が入っている。
そして、その水晶の前で片膝をつく男が一人。
「く……やはり無理か。俺一人では扱えない」
「メウレス……さん?」
その男の顔を見た瞬間、寒気が走った。黒かった筈の瞳は赤く変色しており、まとう雰囲気がティアニーズの知っているものとは全く異なる。
まるで、そう、魔元帥のような。
「おっさん!」
「おう!」
再び意識がルークの方へと戻る。
ルークとアンドラが駆け出していた。真っ直ぐに水晶へ、呼吸を荒げているメウレスへ。
なにが起きているのかまったく分からなかった。
それは全員同じようで、口を開けたまま見守る事しか出来ない。
そんな中、一人の女性が動く。
トワイルの腰の剣を勝手に抜き、
「借りるぞ」
駆け出したのはアテナだった。
彼女だけが、即座に状況を理解したのだ。
誰が敵で、誰が味方で、なにをすれば良いのかを。
駆け出したルーク。
考えている暇も迷っている暇もなかった。なんでいきなり地上に出たのか、その答えは明白だった。洞窟を維持していた力がなくなり、消えた事により強制的に弾き出されたのだ。
では、その力はどこへ行った?
簡単だ、あの、水晶の中の男へだ。
『仕方あるまい! あの水晶を砕け!』
「出来んのか!」
『まだ間に合う! 出来なくてもやれ!』
加護の時間も残っていない状況で、あれを壊せるとは思わない。だが、放置する事は出来なかった。水晶の中の力が、確かに強くなるのを感じていたから。
しかし、その前に立ち塞がる男がいた。
メウレスは剣を構え、
「ここは通さない」
「邪魔だ! とっとと退け!」
振り上げた剣が激突する瞬間、その間に誰かが割って入った。
メウレスの剣を止めたのアテナだった。
振り返る事もせず、
「行け!!」
「頼んだぞ!」
二人の横をすり抜け、ルークとアンドラは水晶に向けて加速する。その時、ルークは確かに見た。
水晶の中の男の指先が動くのを。
水晶に、僅かな亀裂が入るのを。
「仕方ねぇ。ルーク、来い!」
「あ!?」
「良いから来い!」
隣を走るアンドラが前に出ると同時に、腰を屈めて両の掌を結んだ。なにをするべきかを瞬時に察知し、ルークは迷わずに跳んでその掌に足をつける。
「行ってーー来い!!」
アンドラの腕力を利用し、ルークは高く飛んだ。残りの加護を使いきり、さらに加速する。
「届け……!」
手を伸ばす。
あとちょっと、あと少し。
「届けェェェェ!!!」
ーー水晶が、弾けた。
バヂン!と限界まで引っ張ったゴムが切れたような音が生じ、弾けた水晶を中心にして衝撃波が広がる。
当然、回避も防御も間に合わず、空中で受け身をとる事も出来ず、ルークの全身に衝撃波と砕けた水晶が叩きつけられ、そのまま数メートル吹っ飛んだ。
それは、アンドラも同じだった。アキンも、アテナも、メウレスでさえも、その衝撃波によって体を大きく弾き飛ばされる。
「ぐ……ダメか……!」
「どうなった!」
あまりの勢いに人間の姿へと戻ったソラ。
足を挫いたのか、足首で痛みが暴れ回る。それを押さえつけ、無理矢理体を起こす。
そこで、ルークは目にした。
弾けた水晶から、一人の男が現れたのを。
水晶の欠片を踏み潰し、首に手を当てて音を鳴らす。
男の口が動いた。
「……久しぶりだな。まさかこんなにも長く寝るとは思わなかったが……まぁいい、ようやく動ける」
絶望はおりた。
ーーここに、王の帰還はなされた。