六章三十三話 『ちいさなことば』
千切れた腕がくるくると回り、放物線を描きながら宙を舞う。ビートの右腕は血を撒き散らしながら、そのままボトッ、と音を立てて地面に落ちた。
ビートの腕が千切れたーーその事実が遅れて脳を刺激し、ネルフリアの瞳が大きく揺れる。
苦痛が押し寄せるよりも早く、ビートは渾身の叫びを上げた。
「逃げろォォォォ!!」
「ーー!!」
叫び出しそうな喉が締め付けられ、ネルフリアはこぼれ落ちそうになった涙を押し留める。立ち上がり、振り返るとともに走り出すーー、
「逃がすかってーー言ってんだろォが!!」
咆哮があった。
その声の主ーーウェロディエの殺意がネルフリアだけに注がれ、必死に踏ん張る足が無意識に動きを停止した。
狙いはネルフリアのみ。傷口から大量の血を流すビートには目もくれず、一直線に鋭利な爪が迫る。
「させるかよォォ!!」
その爪を止めたのはアルブレイルだった。
大剣を前に突き出し、ウェロディエの腕にぶつける。だがしかし、明らかに弱っていた。先までの戦いとはうって変わり、押されているのはアルブレイルだった。
けれど、大男は歯を食い縛り、
「逃げろ小さいの! ここは俺がなんとしてでも止める!」
「で、でもうち一人じゃ……」
「お前がやるんだ! お前にしか出来ないんだ!」
不安と恐怖に飲まれそうになった時、今にも消えそうなか細い呼吸の音が聞こえた。目の前、ビートが青ざめた顔でうずくまっている。そもそも動けない筈の体だった。老体とかそんな事は関係なく、ウェロディエの猛攻を一時的とはいえ一人で防いでいたのだ。
それに加え、腕を引きちぎられた。
きっと、もう息をするのさえやっとな筈だ。
目を閉じてしまえば、目覚める事は二度とない。
だが、ビートの眼光はまばゆく光っている。そして、ネルフリアを見つめている。
「退けザコがァ! お前なんかに用はねぇんだよ、そこの女を食わせろ!」
「随分と荒々しくなったもんだな! その右腕、もう動かないんじゃないのか!?」
「お前なんざ片腕だけで十分なんだよ!!」
こうしている間にも、アルブレイルは己の務めを果たしている。騎士団として、人間を守るという当たり前の事を。
見れば、ウェロディエの右腕は垂れ下がっている。肩の辺りから大量の出血が見られ、引っ張っただけでも千切れそうだ。しかし、その殺意は先までの比ではない。
一度敗北した事で、怒りがそのまま殺意へと変化している。
「行け、小さいの! 悪いが、俺の筋肉もそろそろ限界だ!」
「……う、ぐ……アァァァ!!」
叫んだ。叫びで恐怖を誤魔化すという原始的な方法だが、今のネルフリアにはそれが精一杯だった。
倒れそうになるビートを無理矢理担ぎ、そのまま走り出す。小さいネルフリアの体では、完全に力の抜けたビートを運ぶ事は難しい。
それでも、走る。
「待てって言ってんだろ!」
「お前の相手は、俺だッ!」
最後に聞こえたのは、大剣と鱗が激突する音だった。
道なんか分からない。そもそも、分かっていたとしても冷静にそれを辿る事は出来なかっただろう。頭の中がぐちゃぐちゃになったような気分だった。
真後ろから聞こえる呼吸音が、ネルフリアの不安を更にかきたてる。冷静さを、ゆっくりと削りとって行く。
「……う」
「だ、大丈夫かよじじい! 今逃げてる最中だから、もう安心しろ!」
返事はない。
その変わりに、うめき声が鼓膜を叩く。
「ごめん! うちが勝手について来たから、うちが逃げるの遅れたから! じじいの腕が……!」
「ガキが大人の心配してんじゃねぇよ……。このくらい、ただのかすり傷だ……」
「でも、でも! ……そんな状態じゃ、もう剣打てないじゃんか!」
「俺も歳だからな……。そろそろ引退しようと思ってたところだ。丁度良い……」
いつものような生気が、ビートの言葉にはない。バカ野郎と叱る言葉は飛んで来ないし、拳骨だって飛んで来ない。
強がりを口にしているが、限界が近い事くらいネルフリアにだって分かった。
「ネルフリア……」
「な、なんだよ! 言いたい事があるならはっきり言えよ! うちじゃ頼りないかもしれないけど、出来る事ならなんでもやるから!」
「そうか……なら、一つだけ頼みがある」
絞り出したような声だった。かすれ、力などなく、いつにも増して優しい口調だった。こんな瀕死の状態でなければ、きっと一生聞く事の出来なかった声。
そんな声で、ビートは言う。
「俺を、置いて行け……」
「……は?」
「お前一人で逃げろ。お前一人なら、なんとか逃げられる筈だ……」
「な、なんだよそれ! そんな事出来る訳ないじゃん!」
到底、受け入れられるような内容じゃなかった。自分のせいでこんな事になったのに、助けてくれた恩人を置いて行け?
そんな事、出来る筈がない。たとえどれだけの恐怖に襲われようとも、それだけは無理だ。
「お前の体じゃ、俺を担いで行くのは無理だ。分かってんだろ、全然進めてねぇって」
「うるせぇ、うるせぇ!」
大の男であるビートを、ドワーフのネルフリアが運ぶのには無理があった。普通の人間より小さな体では、一歩を踏み出すのがやっとだった。ほとんど歩くのとペースは変わらない。
それでも、それでも足を止めない。
「お前だけでも生きろ。どのみち俺はもう助からねぇ」
「絶対にやだ! じじいも一緒に逃げるんだよ!」
「こんな時くらい素直に言う事を聞け。これが、俺の最後の頼みだ……」
「なんだよ最後っ……死ぬみたいな言い方するなよ!」
放って置けば、いや、ビートはもう直ぐ命を落とすだろう。今直ぐでも傷を塞いで血を止めなければ、まず間違いなく助からない。それが出来るのは、前線に出ているメレスだけだ。しかし、間に合わない。
そんな事、ネルフリアだって分かっている。
けれど、認めたくなかった。
「行け、もうお前も限界だろ。こんな無駄な事で大量を使うな」
「やだ、やだ! じじいの言う事なんか聞くもんか! うちは絶対にやだ!」
「聞き分けのねぇガキだな……」
「うっせぇ!」
「……悪いな、先に謝っとく」
言葉の直後、ネルフリアの体が傾いた。
ビートの左腕が首の辺りに絡み、わざバランスを崩すように力を入れたのだ。結果、ほとんど力の入っていない足を滑らせ、二人は揃って横転した。
「いッ……なにすんだよ!」
「こうでもしねぇと、お前は逃げねぇだよ……」
ネルフリアは直ぐ様立ち上がり、ビートに駆け寄る。肩を掴んで引きずるが、びくともしなかった。重い。どの剣なんかよりも、重い。それこそ、死体のような重さだった。
思わず、涙が落ちた。
「ふざけんなよ……なんでこんな事するんだよ!」
「バカ野郎……大人がガキを守るなんてのは、当たり前の事なんだよ……」
力なく微笑んだビート。
その瞳からは光が失われつつあり、瞳に映る自分の姿が揺れていた。唇は色を失い、段々と呼吸が小さくなって行くのが分かった。
「頼むから、一緒に逃げようよ!」
「行け……」
「もうわがまま言わないから、ちゃんと家に帰るから、弟子にしてくれなくても良いから……だから、一緒に行くんだよ!」
「ネルフリア……お前は良い鍛冶職人になれる」
まったく関係のない言葉に、ネルフリアの目が見開かれる。
途切れそうな言葉を繋ぎあわせたかのような口調で、ビートはなおも続ける。
「お前には俺にない優しさって強さがある。良いか、よく聞けよ。殺す剣より、守る剣の方が強い。お前は……そんな優しい剣を打てる奴だ……」
「無理だよ……まだなにも教えてもらってないもん! うち一人じゃ無理だよ!」
「出来る。俺の姿を見て来ただろ? なら、出来る……」
優しい、どこまでも優しい口調だった。父親のように、本気でそう信じているかのように。母親のように、その身を按じるように。
こんな顔のビートは見たくなかった。
ネルフリアの知っているビートは、こんな男ではない。
「ふざけんなよ……いつもみたいに怒れよ! いつもみたいに怒鳴れよ!」
「悪いな、もう……出来そうにない……」
「やだ……やだよ、やだ! 死ぬなよ!」
ゆっくりと、その瞼が落ちて行く。
閉じればもう終わりだと分かっていながら、ビートはそれを受け入れるように。
笑っていた。辛い筈なのに、痛い筈なのに。心配をかけまいと、ビートは微笑んでいた。
「死ぬな……」
自分がここへ来なければ。自分が言う事を聞いていれば。自分がもっと早く逃げていれば。後悔なんて、上げ始めたらきりがない。
その一つ一つが、小さな少女の体を締め付ける。
「…………て」
分かっている。全て自分のせいなのだと。
自分でせいで、大事な人が今にも死にそうになっている。それは謝っても許されるようなものじゃないし、ネルフリアはビートの命よりも大事なものを奪った。
でも、
「お願い、だから……」
叶うのなら。届くのなら。まだ間に合うのなら。
こんな自分にでも、まだその資格があるのなら。いや、自分になくたって、目の前で苦しんでいる男にそれがあるのなら。
「助けて……」
誰もいない。こんな状況で逃げないなんて、ただのバカでしかない。声なんて届く筈がないし、ましてや危険に飛び込むような真似をする人間はいない。
でも、それでも。もし、届くのなら。
「助けて……!」
これが終わったら、何回だって謝る。
地面に頭を擦り付けて、声が枯れるまで何度だって謝る。それでも許されないかもしれないけれど、出来る事ならなんだってやる。
だから、
「誰か、助けてよ!!」
叫んだ。
小さな体で、少女は叫ぶ。
その叫びは、声はーー、
「分かった」
女性の声だった。短く、ただ一言だけを呟いた。
それなのに、その声で全てが吹き飛んだ。
不安も絶望も後悔も、なにもかもが問答無用にねじ伏せられた。凛としていて、透き通った声。
その声は、ドス黒い絶望を、たった一言で斬り裂いたのだ。
「あの時の、姉ちゃん……?」
「もう大丈夫だ。なにも心配はいらない」
蒼い髪の女性だった。確か、ティアニーズ達と一緒にいた。
女性は綺麗な蒼い瞳で真っ直ぐネルフリアの目を見据え、それから側で倒れているビートへと歩みよる。手を伸ばし、傷口に触れた。次の瞬間、暖かい光とともに傷口が塞がった。止まる事なく流れていた血も止まり、ビートの顔に生気が戻る。
「じ、じじい!」
「傷は塞いだ。あとは彼の生きる力に任せるしかない。どこか安全なところまで運んでおいてくれ」
「う、うん! ……待って! まだこの先でおっさんが戦ってるんだ! その人も……」
「あぁ、私が助けに行こう。君はゆっくり休んでいてくれ。君の小さな勇気は、立派だったぞ」
ネルフリアの頭に、女性の手が触れる。
もう大丈夫だと、ネルフリアは直感で悟った。この人に任せれば、全てが上手く行くと。
だから頷いた。涙をぬぐい、なにも言わず、全てを託すように。
「さて、久しぶりに働くとしようか」
そう言って、女性は足を踏み出した。
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「弱い、弱いなァ人間! さっきまでの威勢の良さはどうした!? 筋肉はどうした!?」
「ぐ……まだ、俺の筋肉は動いてる……」
侮っていた訳ではないが、アルブレイルは魔元帥の生命力の強さに驚きを隠せずにいた。確かにあの時倒した筈なのに、ウェロディエは立って向かって来ている。
ダメージはある。右腕は使い物にならないだろし、身体中は傷だらけだ。なのに、
「ゴフーーッ!!」
アルブレイルの大剣を弾き、巨大なドラゴンの拳が体を叩いた。全身に衝撃が伝わり、踏ん張っていた足が地面を離れる。そのまま数メートル吹っ飛んだかと思えば、次の瞬間には目の前にウェロディエが立っていた。
「おせぇ、おせぇおせぇ! 人間のくせに俺に向かって来るからそうなんだよ!」
「人間だから、向かって行くんだ!」
大剣を弾き飛ばされ、アルブレイルの元には立ち向かうための武器はない。しかし、引く事はしなかった。拳を強く握りしめ、緩みかけた己の筋肉に渇を入れる。
逃げず、真正面から自分の拳を相手の拳にぶつけた。
「ガァァァァ!」
「バカかお前、俺の鱗は鉄とは違うんだよ。そんな柔な拳で、どうにか出来る訳ねぇだろ!」
激突した瞬間、拳の骨がぐちゃぐちゃになるのが分かった。してはいけない音が響き、激痛が骨を伝って体の隅々まで駆け巡る。
そこへ、容赦なく拳が叩き込まれた。
アルブレイルを吹っ飛ばすには、重要な威力だった。
「ォォ……ガ、ブ……」
家の残骸へと突っ込み、体の至るところに小さな木片が突き刺さる。口元に手を当てると、大量の血が口から溢れていた。内臓も、どこからしらやられた。そんな事を冷静に考えていたが、
「そろそろしまいだ。お前のあとはビート、そのあとはあの女を食う」
「させると思うか……! 俺が生きている限り、筋肉が動く限り、お前をここから先には行かせねぇぞ!」
「そうかよ。それじゃ、殺してから通る事にするぜ!」
筋肉が動く以上、アルブレイルが諦めるという思考に達する事はない。
腕と足に全神経を集中し、次のショックに備える。まともな考えではないけれど、受けるしかないのだ。己の筋肉を信じる、それしかないのだ。
しかし無情にも、その拳はーー、
「まったく、よくもまぁ好き勝手暴れてくれたものだな」
アルブレイルのウェロディエの間に、一人の人影が割って入った。その人影の手にはアルブレイルの大剣が握られていた。振り上げ、人影は迫る拳に向けて大剣を叩き付ける。
ガギィィン!!と鈍い音が発生し、ウェロディエの拳が弾かれた。
「あ? 誰だお前」
「……だ、団長か?」
忘れる筈がなかった。その特徴的な髪と瞳の色もさることながら、立ち振舞いや雰囲気。騎士団の頂点に立つ存在ーーアテナという名の女性を。
突然の事で動揺丸出しのアルブレイルに、アテナは振り返りこう言った。
「久しぶりだな、アルブレイル。相変わらずゴリラみたいな体型をしているな。それにこの剣、良くこんな重いものを……」
「な、なんで団長がここにいるだ!? いつ帰って来たんだよ!」
「つい最近だ。ここにいる理由は……そうだな、成り行きといったところだ」
アルブレイルとは違い、アテナはとぼけた様子で答える。こうして会うのは約三年ぶりだというのに、この女はなに一つ変わっていなかった。
アテナは大剣を両手で握り、ブンブンと振り回しながら、
「つもる話はあとにしよう。今はあれをどうにかするのが先だ」
「……女。良いなァ、かなりうまそうだ……!」
アテナを前にした瞬間、ウェロディエの目の色が変わった。その瞳は、獲物を狩る獣のものだった。
しかし、アテナは態度を崩さない。魔元帥という驚異を前にして、驚くほどにいつも通りだった。
「なるほど、君が魔元帥か。見るのは初めてだが、これは中々の驚異だな」
「久しぶりの上玉だ。たっぷり味わって食ってやるよ」
「私にも一応立場というものがある。重荷でしかないのだが……部下を傷つけられて黙っている訳にはいかない」
会話がまったく噛み合っていない。
しかし、お互いにやるべき事は分かっているようだった。
向かい合い、そして、
「飯の時間だ……!!」
「殺させてもらうぞ」
一瞬だった。
アルブレイルは、かろうじてその瞬間を目にする事が出来た。
なにも難しい事はない。アテナの振り下ろした剣が、ウェロディエを斬り裂いたのだ。頭のてっぺんから股下まで、綺麗に真っ二つに。
「あ」
「悪いな、私はあまり美味しくないぞ」
それだけだった。たった一度の交戦で、全てに決着がついた。
最後の言葉を発する事も出来ず、ウェロディエの体は光の粒となって消滅した。
アテナは振り返り、静かにアルブレイルへと近付く。
「すまないな、勝手に剣を借りてしまって」
「あぁ、いや、別に構わない。それより、相変わらず化け物みてぇな強さだな」
「そんな事はないさ。アルブレイルがあそこまで追い込んでいたから出来た事だ。私だけの力では無理だったよ」
謙遜ではなく、本気でそう言っているようだった。だが、恐らくアルブレイルの奮闘がなくとも、アテナはあの魔元帥に勝てていただろう。
剣を地面に突き刺し、
「私はまだやらねばならない事がある。傷の手当てくらいなら出来るが、どうする?」
「いや、大丈夫だ。俺も一緒に行く」
「そうか、お前が強い男で助かったよ」
「それより、どこに行くんだ?」
首を回し、アテナはとある方向を見た。
落ち着いた口調、されど闘志に満ちた瞳で、
「この事態を終わらせる」
役者は一つの場所へと集まる。
その準備は、着々と進んでいた。