六章二十二話 『通りすがり』
舌なめずりをして、男は歪な笑みで口元を満たす。今まで得体の知れない笑みを何度も見てきたが、男のそれはティアニーズの知っているどれにも当てはまらない。
純粋に、喜の感情を表に出しているだけなのに。
「俺が一番乗りだな。あら? もう一人黒髪の目付きの悪い男がいるって聞いてたが……」
ペラペラと舌を滑らせ、男は自問自答を繰り返す。話の内容は分からないにしても、男が自分とエリミアスを狙っている事だけは理解出来た。
魔元帥かどうか、そんなのは確かめる事すら無意味。
全身がサイレンを鳴り響かせている。
ーー逃げろ、と。
「まぁ良いや。とりあえず二人殺して残りを見つけて、あとは合流するんだっけか? あ、でもアイツの居場所知らねぇや。……って、おい!」
男の呼び止める声も聞かず、ティアニーズはエリミアスの手を引いて走り出した。
一人で挑んだところで勝ち目がないのは明白な上、エリミアスという存在がいる限り自由に戦う事すら出来ない。
となれば、今は逃げるのが最善。
しかしーー、
「おいおい、まだ質問してる途中だろ。ちゃんと話は聞こうぜ」
「なーー」
男の声が耳元で聞こえた瞬間、エリミアスを抱いて咄嗟に横へと飛んだ。なんの前触れもなく放たれた拳が頬を掠め、思わず冷や汗とともに全身の筋肉が硬直。崩れかけたバランスを気合いで立て直し、
「くッ……早い……!」
「大丈夫ですか!?」
「はい、少し掠っただけですから。それより……」
「こっちが優しく問い掛けてやってんだからよ、そっちもそれなりの態度で接するのが普通じゃないのか?」
拳についた血に舌を這わせ、男は悪びれた様子もなく唇を動かす。血液の味を楽しむようにくちゃくちゃと口を動かし、それから口角が半月型に変形した。
「良いねぇ、上手い血だ。こりゃさっさと食わねぇとウェロディエに先越されちまうなぁ」
「貴方……魔元帥ですよね……?」
「正解。んま、それなりに修羅場潜ってるだろうし、普通は気付くよな。それで、黒髪の男はどこだ?」
「知りません。知っていたとしても貴方には絶対に言わない」
恐らく、黒髪の目付きが悪い男とはルークの事だろう。ティアニーズ、エリミアス、二人の存在を狙って来ている以上、魔元帥にとって二人よりも危険度の高いルークを狙うのは当然の行動だ。
エリミアスを庇うように踏み出し、
「宿舎にいた皆は……どうしたんですか」
「さぁな、人数が多くなった頃合いを見て吹っ飛ばしたから、生死までは確認してねーよ。でもまぁ、全員死んでんじゃない」
「そんな筈ありません」
宿舎にはメレスとハーデルトがいる。いくら不意討ちとはいえ、あの程度で死ぬとはどうしても思えなかった。しかしながら、無傷という訳にはいかないだろう。
今すぐにでも増援がほしいところだが、望みは薄い。
ならば、
(私一人でどうにかするしかない。倒す事は出来なくても、せめて時間くらいは稼がないと……!)
後ろで震えるエリミアスに目を向け、ティアニーズは優しく微笑んだ。
今まで何度か魔元帥と対面した事はある。けれど、ティアニーズただ一人という経験はないのだ。怖くて足が震え、呼吸もまともに出来ない。唇が上手く動かせず、ちゃんと笑えているのかも分からない。
それでも、
「大丈夫です。姫様は私が必ず守りますから、安心してください」
「は、はい」
精一杯の笑みを浮かべ、不安を取り除けたら、という願いをこめて呟く。
腰の剣に手をかけ、
「貴方はここで倒す。どこにも行かせません……!」
「別にどっか行く気なんてねーよ、俺の担当は金髪とお前ら二人だし。黒髪は最優先だが、見つけた奴の早い者勝ちって事になってるしな」
「担当……? そんな、まさか……」
先ほどから出ていた名前と思われる単語。そして担当という言葉。その二つを合わせた時、ティアニーズの中で一番最悪な想定が頭に浮かんだ。
それに気付いたのか、男は手を叩きながら、
「俺を含め、このカムトピアには四人の魔元帥がいる。別に仲良くここを攻め落とそうって訳じゃねーがな」
「魔元帥は全部で八人……その半分がここに……!」
「相当珍しいぞ? 俺らそんなに仲良くねーし。親父がいれば喧嘩はしねーが、それでも喧嘩なんかしょっちゅうしてる」
男は簡単に言っているが、ティアニーズにとってその事実は絶望の一言だった。
たった一人ですら倒すのに苦労する存在が、今ここに四人もいる。しかもの口振りからして、最優先に狙われているのはルークだ。
だとすれば、絶対に行かせる訳にはいかない。
たとえ勝てないのだとしても、ここで逃げる事は絶対に許されない。
あの男の横に並ぶと決めたのだから。いつも守られてばかりで、なにも出来ていないのだから。
今度は、自分が守る番なのだ。
「ふぅ……覚悟を決めます。すみません姫様、出来るだけ離れて」
「ひ、一人で大丈夫なのですか!?」
「正直言って、不安しかありません。けど、あの人達の狙いはルークさんです。なにがなんでもここで食い止めなければ」
「…………分かり、ました」
なにかを言いたそうに口を開いたが、エリミアスはその言葉を飲み込むように頷いた。
一人で戦わせられない。そう言いたかったのだろう。
悔しさで瞳が揺れ、今にも泣き出しそうな表情をしている。
でも、だからこそ、
「貴方の相手は私がします。一対一の勝負です。だから、私が死ぬまでは姫様に手を出さないてください」
「良いねぇ、そういうの大好きだ。女のくせに中々肝が座ってるじゃねーか。お前、名前は?」
「ティアニーズ・アレイクドル。アスト王国騎士団第三部隊所属です」
「魔元帥ニューソスクス。別に覚えなくて良い、よく長くて忘れられるからな」
構え、そして前を向く。
今まで沢山の困難を乗り越えて来た。
ティアニーズ自身、それでほんの少しでもあの男に近付けたと、ほんの少しでも強くなれていたらと、そう願っている。
その全てを、培って来た経験を、あの男にぶつけても勝てるかは分からない。
けれど、立ち向かう。
きっと、これがティアニーズに与えられた最初の試練だから。
「さて、おっぱじめるか!」
「行きます!!」
直後、二人は激突した。
そして、それを合図にしたかのように、カムトピアで二つ大きな爆発が起きた。
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「走れ! ボサボサしてんな!」
「ちょ! いきなりなんだよ!」
ネルフリアの手を強引に引き、ビートは町を走っていた。なにが起きたのか理解しておらず、とぼけた様子のネルフリアだが、爆発の音を聞いて小さな手が震えているのだけは分かった。
「おいじじい! なにがあったんだよ!」
「良いから黙って走れ!」
張り上げた声に、ネルフリアは少し驚いた様子で目を見開いた。
ビートは、今自分がどんな顔をしているのは分かっていない。きっと、とてもじゃないが子供に見せられるような顔なんてしていない筈だ。
しかし、怒鳴る事になんの躊躇いもなかった。
(クソッタレが……! どう考えたって普通じゃねぇ、昔の嫌な傷が騒ぎやがる!)
もしかしたら、ただのボヤ騒ぎなのかもしれない。世間を知らない子供達が騒いでいるだけなのかもしれない。
そこまで考えて、ビートはその考えを切り捨てた。
分かっているのだ。一度、昔に経験しているから。
「とにかく騎士団の宿舎まで走るぞ! そこでお前だけでもかくまってもらえ」
「じじいはどうすんだよ!」
「俺の事はあとで良いんだよ! こんな老いぼれの命、放っといても朽ちるんだからな!」
「ふざけんな! うちに剣を教えるまで死ぬなんて許さねーぞ!」
叫び、走り回る人々をかき分けて前に進む。
大きな爆発の音は一回だけ。本来なら騎士団が動き出している筈なのだが、逃げ惑う人々を落ち着かせている気配はない。
遅れているだけなのか、それともなにかあったのか。
どちらにせよ、こんな状況じゃまとまに逃げる事すら出来やしない。
「クソ! ルークの奴どこでなにしてやがんだ!」
「勇者の兄ちゃんなら朝からどっか行ったって、姫様の姉ちゃんが言ってたぞ!」
「あの野郎……! 勇者ってのはどいつもこいつも遅れるのが流行ってんのかよ!」
怒りをぶちまけたところで事態は解決しない。
やっとの思い出人混みをかき分け、ビート達は大通りに飛び出した。馬車を使って逃げる人や、奇声を発している人がおり、異常な光景が広がっていた。
ネルフリアの握られた手が、僅かに強まる。
「なんだよこれ……意味分かんねぇよ」
「心配すんな、お前だけはなにがあっても守ってやる。これにこりたら、俺のあとをつけ回すのをやめろよ」
「それは出来ねぇよ! じじいに教えてもらうって決めてんだから!」
「聞き分けのねぇガキだな! この状況が分かっーー」
ベチャ、となにかが潰れた音が背後で響いた。
断末魔のような叫び、痛みを堪える声、聞こえて来るのは、どれもこの世の終わりのようだった。
「見るな!!」
「え?」
ネルフリアを無理矢理抱き上げ、背後の光景を見えないように視界を塞ぐ。それと同時に全力で走りだし、背後から迫るなにかから逃げ出した。
しかし、音は続く。そしゃく音、砕けた音、引っ掻いたような音。
音だけで、振り返る勇気を削ぎ落とす。
そして、
「待てよおっさん。アンタは逃がさねぇぞ」
「ーー!」
その声が聞こえた瞬間、ビートは振り返らずに全力で前方へと飛んだ。ドゴン!!と地面を抉る音が背後で鳴り響き、砕けたコンクリートが礫のように背中に突き刺さる。
ネルフリアを強く抱き締める事で苦悶の声を圧し殺し、倒れる直前で地面に足をつく。
「おいおい無視かよ。こっちは我慢してお前に会いに来てやったんだぜ?」
走り出そうとした足が止まった。否、止められたのだ。
背後から聞こえた筈の声が、目の前から聞こえた。
しかし、ビートはそれすらも振り切るように走り出した。
「俺は機嫌が悪いんだ。とっとと殺されてくれよ。どうしても殺さなきゃならねぇ奴がいるんだ」
頭上に大きな影が落ちた。
それは真っ直ぐにビートに向けて落下し、圧倒的な質量を持って地面を容易く砕く。
寸前のところで回避したビートは、その後も連続で振り下ろされるそれを一心不乱に避け続ける。
「じじいのくせに良く動くなァ。前に会った時となんも変わってねぇじゃんか」
楽しそうな音の声を拒否し、ただひたすらに避ける事だけに全ての神経を集中させた。
辺り一面に大きなクレーターのような跡が刻まれ、足場が段々と悪くなって行く。それでも、ビートは足を止めない。
「はぁ……止まらねぇか。せっかく三人連れて来てやったのに」
しかし、ビートはそこで足を止めてしまった。通り過ぎた筈の声が、再び前から聞こえて来たからだ。
逃げ切れないと、そこで諦めてしまった。
大きなため息をつき、
「久しぶりじゃねぇか。デストの敵打ちか?」
「俺がそんな事するように見えるか? 冗談でも止めろ、吐き気がする」
左耳のピアス、鋭く光る赤い瞳、口元から見える鋭利な牙。それを抜きにしても、男の腕は異常な形をしていた。まるで、ドラゴンのような腕だった。
口角から垂れる赤い液体を拭き取り、
「やっぱり女は旨いな。その腕の中のガキ、俺によこせ」
「バカな事言ってんじゃねぇぞーーウェロディエ」
ウェロディエ、かつてルークも戦った事のある魔元帥だ。
体の一部をドラゴンのものに変化させる事ができ、自由自在に振り回す事も出来る。それだけならば、そこまで厄介ではないだろう。
もっとも厄介なのは、
「デストが死んだのを知ってるって事は、お前とあの男が殺したんだな」
「あの男? あぁ、ルークの事か」
「俺の前でソイツな名前を出すな。殺すぞ」
背後から近付くもう一人のウェロディエが、苛立った様子で石を踏み砕く。さらに、その横にはまったく同じ顔、同じ声、同じ仕草をとるウェロディエが立っていた。
「テメェらの目的はルークか」
「いや違う。だが俺はアイツを殺すために来た。他の奴らの事なんざどうだって良い」
「他の奴ら? なるほど、さっきの爆発はそういう事か」
三人のウェロディエに挟まれ、完全に退路を失ってしまった。
これが魔元帥ウェロディエの力。自分とまったく同じ存在が八人おり、本体を倒さなければ死ぬ事のない魔元帥。
そのうちの三人が、こうして姿を現したのだ。
「言え、あのクソ勇者はどこにいる」
「知らねぇよ。知ってたら教えてやるが、本当に知らねぇんだ」
「随分と薄情な奴だな。伝説の鍛冶職人の名が泣くぜ?」
「ペラペラと喋るようになったじゃねぇか。それに勘違いしてるようだから言っておくぞ、アイツのところにお前を行かせたところで、お前が死ぬだけだ」
「ほざけ」
ウェロディエの赤い瞳が血走り、明らかな殺意を宿した。
ビートは前の戦争でウェロディエと会った事がある。厳密に言えば前の勇者と行動をしていた時に見かけた程度だが、それでも面識があるのは確かだ。
「勇者、あとはバンダナの男。あの二人は俺が必ず殺す。手足千切って磨り潰してな」
「バンダナ? そりゃ運が良いな、ソイツもこの町にいるぜ」
「そうだな、俺は運が良い。お前をいたぶってあのクソどもの居場所を聞けるんだからな!」
瞬間、ドラゴン化した腕が襲いかかる。
震えるネルフリアを離さないようにさらに力を込め、逃れるように横へと跳躍。
しかし、二人目のウェロディエが腕を振るった。
鋭利な五本の爪が光を反射し、肉を抉るべく迫る。
「ッ!! ルークの事がよっぽどムカつくみてぇだな」
「黙ってろ。お前こそ、そのガキを捨てた方がもうちょっと動けるんじゃねぇのか?」
「バカ言え、テメェには丁度良いハンデだ」
いくら歳をとっているとはいえ、ビートの歩んで来た道は並大抵ではない。攻めるのではなく、避ける事だけに集中すればこの程度ならばどうとでもなる。
悲鳴を上げる老体に鞭を打ち、指の間を器用にすり抜ける。
「じ、じじい、どうなってんだよ。なんでなにも見せてくれねぇんだよ!」
「お前は黙ってジッとしてろ! なにも言わずに目を瞑れ、俺の言う事だけ聞け!」
「ーーッ!」
ビクリ、とネルフリアの体が震えた。
真っ暗な視界の端から知らない男の声が聞こえ、さらには破壊音だけが耳に滑り込む。普通に考えれば恐怖でしかなく、不安が胸を締め付けているに違いない。
しかし、それでもビートは力を緩めなかった。
たとえ、そのせいで動きが鈍っているとしても。
「ぐッ……!」
「守るってのは大変だよなァ! 心配すんな、俺が味わって食ってやるからよ!」
「黙ってろクソドラゴンが! ルークに負けて苛立ってんだろ? テメェこそ動きが鈍いぞ!」
「調子に乗るなよクソじじ。お前はおまけだ、アイツの指示がなけりゃ殺す価値もねぇ」
三方向から迫る腕を潜り抜け、一気に走り出す。
一人でも手に余る相手が三人。普通に考えて勝てる訳がないし、逃げ続けていてもいずれは殺されてしまう。だから、ビートに出来る事はただ一つ。
なにがあっても、ネルフリアを守る事だけ。
しかし、
「そろそろ飽きたなァ。どのみち他にも殺す奴はいる、お前を殺してそのガキを食って、あのクソ勇者をぶっ殺してやる」
三人のウェロディエが同時に大きく息を吸い、口から真っ赤な炎が溢れ出る。
圧倒的な破壊力をもって、その炎が放たれた。
「チッ! 頭下げて息止めてろ!」
「は!? なんで!」
「良いから!!」
この瞬間、ビートは自分の死を悟った。
囲まれていてどう足掻いても逃げられない。その上、あの炎の広範囲からは走ったところで抜け出す事は出来ない。
だから、強くネルフリアを抱き締め、最大限に体を丸めてしゃがみこんだ。
こんな抵抗でどうにかなるとは思えないけれど、武器もないこの状況ではこれが精一杯だった。
守れる保証なんてないし、炎を受けたら消し炭になる事だって分かっている。
けれど、これが精一杯。
自分の命を投げ出し、せめて、ネルフリアだけでもーー、
「よう、ご老人。もしかしてピンチってやつか?」
男の声が聞こえた瞬間、その場に突風が吹いた。燃え盛るウェロディエの炎を凪ぎ払い、その声はビートの背後に下り立つ。
振り返り、最初に見えたのは身の丈ほどの大剣だった。それを片手で振り回し、男は炎を消し去ったのだろう。
身長は二メートルほど、そして、とくかくゴツい。
筋肉の塊のような男だった。
「朝の筋トレをさぼっちまったからランニングしてたが、まさかこんな状況に巡り会えるなんてな」
男の声は心底楽しそうだった。
大剣を軽々と素振りをするように振り回し、ウェロディエへと視線を送る。
ウェロディエはその視線を受け、僅かに目を細めると、
「誰だお前。殺すリストには乗ってねぇよな? 名前は?」
「アスト王国騎士団第一部隊隊長、アルブレイル・ゴルドル。なに、ただの通りすがりの筋肉だ」
喋る筋肉はそう言って、大剣を地面に突き刺した。