五章二十七話 『自分を信じて』
ぼやけた視界で空を見る。
どこまでも真っ青で、雲ひとつない青空が広がっていた。
町中には耐える事なく破壊音が鳴り響いているのに、なぜだが心は酷く落ち着いていた。
理由は分からない。
分からないけれど、一つだけ上げるとすれば、そんな事はどうだって良いからだろう。
「うぐ……私は、私はなに一つ間違ってはいなかった……」
どうやら気絶していたらしい。
そう気付いた時には、横たわる体の上に長方形の木の板がのし掛かっていた。
男は苦痛の表情を浮かべながらも手足が動く事を確認すると、体の上に乗っていた木の板を力強くで退ける。
「アハハハ……どうだ、見たか。私の人生は間違ってなどいない。リヴァイアサンは存在した、そしてこの町に、私の前に現れた……!」
フラフラと立ち上がり、足を滑らせながらも舗装された道へと歩みを進める。開けた道に出ると、思わず自分の目を疑った。
恐らく、これは道だ。道だった筈なのに、その面影は一切見られない。
崩れた建物、砕けた地面。あちこちにその残骸が広がり、圧倒的な破壊がもたらされたあとだった。
「アハハハ……私は、私は間違っていない……」
ベルシアード・グレイハルト。
歳は五十なかばで、これといった特徴は見られないただのおっさんだ。強いて言えば、海の子という宗教団体をまとめているけれど、世間から見ればそんなのは評価する一端にはならない。
海の子を作った理由。それはただすがるものが欲しかったからだ。
幼い頃に経験した戦争により家族を失い、たった一人で今日という日まで生きてきた。ただ、ずっと寂しくて辛かった。
「…………」
だから、同じような境遇の人間を集め、リヴァイアサンという存在すらあやふやな精霊の名を使い、お互いに支えあえるような場所を作ったのだ。
傷の舐めあいだという事は分かっている。
それでも、もう二度とあんな思いはしたくなかった。
五十年前の戦争を終結させた始まりの勇者。
その男は精霊の力を使ったと聞く。
だとすれば、きっと精霊は存在する。そして、いつか必ず再び現れ、この町を、この世界を救ってくれるに違いない。
そんな、根拠のない願いが始まりだった。
「……間違ってなどいない。私の人生は、正しい」
道なき道を進み、木の屑に足を引っかけて倒れそうになる。必死に体勢を戻すが、結局はそのまま倒れこんでしまった。
擦りむいた掌からは血が流れ、膝から流れる血液が服に滲む。
「……どうして、どうしてこうなったんだ。ただ信じただけなのに、ただ助けてほしかっただけなのに、どうして私ばかりがこんな目にあわなくてはならないのだ……!」
別に、初めから精霊の存在を信じていた訳ではない。
もしかしたら、いてくれれば良い。なんて軽い考えだった。海の子だって、お互いがお互いを支え、ほんの少しでも傷が癒えれば良いと思っていただけだ。
しかし、次第に人数は増え、ただのおっさんに扱えるような組織ではなくなっていた。
そんな時に現れたのは、あの女だ。
名前はユラ、憎むべき存在である魔元帥だ。
「……なにもかも、おの女のせいだ。私は悪くない……私は正しい……」
ユラは言った。『精霊は存在する』と。
そんなあやふやなな考えでは組織はまとまらないと。そんな軽い気持ちではなにも変わらないと。なにも信じていない人間には、絶対に救いなどはやって来ないと。
だから信じた。
自分でも自分が分からなくなるくらいに言い聞かせ、毎日毎日祈りを捧げた。
いつからだろうか、それが心地良い……いや、楽だと感じ始めたのは。
全てを投げ捨て、自分ではなにも考えないのが楽だと気付いてしまった。
いつか来るから大丈夫。自分はなにも間違ってはいない。きっと、自分には出来ない事が出来る存在が、いつか現れてくれる。
「……あぁ、分かっていたさ。結局、救いなんていうのは努力した人間にしか訪れない。私は、努力している振りをしていただけだ。祈る事で、甘える事で、他人任せにする事で、私の行動には意味があると信じたかっただけなのだ……」
どうすれば良いのかなんて分からない。
力もなくて、知恵もなくて、人望もなくて、やれる事と言えば祈る事だけだった。
自分を疑う事を止め、全てが正しいと信じる事で、ただなにもしない理由を作っていただけだ。
全部、全部分かっていた。
分かっていて、気付いていて、それでも止まる事は出来なかった。
だって、それが一番簡単だから。
なにもかも投げ出して、考える事も見る事も放棄して、殻にとじ込もって他人任せにするのが一番簡単だから。
けど、
「……そうだ、そうだよ。私は酷い男だ。私を信じていた仲間を裏切っていたのだ。リヴァイアサンなんてどうでも良かった、寂しさが紛れればなんでも良かった。精霊を信じる気持ちを、皆の信じる気持ちを、私は初めから利用していただけにすぎん」
結局、自分がなによりも大事だった。
家族を失った悲しみさえ癒えてしまえば、精霊の存在なんていてもいなくてもどうでも良かった。
けれど、きっとそれだけじゃ仲間に捨てられてしまう。また一人になってしまう。
だから演じた。目を逸らした。考える事を止めた。
皆と同じ方向を向いている振りをして、ずっと違う方向を向いていたのだ。
「終わり、か。ここで私の人生は終わる。私を信じていた人間を裏切ったのだ……そんな人間にふさわしい最後だな。裏切られ、死ぬ」
ドン、と寝ていた地面が跳ね上がった。
同時に残骸が崩れ落ち、ベルシアードこ真横に落下する。恐怖はない。それどころか、今ので死ねていれば楽だろうと考えている。
どこまでも、どこまでも逃げているのだ。
死という逃げ道を選ぼうとしている。
「……まったく、これのどこが救いだというのだ。なにも、なにも助けてはくれないのだな」
うつ伏せに倒れていると、視界の先に蠢く巨大ななにかが見えた。
リヴァイアサン。
ずっとベルシアードが信じてきた存在だ。
しかし、救いなんて言葉とはほど遠く、家を凪ぎ払いながらこちらへ進んで来る。
その姿は、ただの化け物だ。
「……皆の者、すまなかった。私の下らない家族ごっこに付き合わせてしまい。もし、叶うのなら、幸せに生きてくれると良い」
言葉にして、ベルシアードは嫌というほど理解してしまった。
「まったく、最後の最後まで他人任せか。皆を誰が助けてくれれば良い……本当に、私は……間違いだらけの男だな」
瞳を閉じ、激しくなる揺れと音に体を任せる。
食われるのか、それとも潰されるのか。
いや、リヴァイアサンはベルシアードに気付きすらしないだろう。ただ歩いた先にあるゴミのように潰され、きっとその生涯を閉じる事になる。
「哀れだな。だから見抜かれるのだ、あの男に」
救いなんてやって来ない。
信じて、信じて、信じてきた結果がこれだ。
無様にみっともなく、誰に看取られる事もなく、知られる事もなく死んでいく。
これが現実だ。人を騙し、自分を騙してきた人間の末路だ。
だから、
「殺してくれ、終わらせてくれ」
逃げる事はしない。
ただ、やって来る終わりを受け入れる。
それが、ベルシアード・グレイハルトという男の最期なのだ。
しかし、そんな時、音がした。
リヴァイアサンが残骸を踏みつける音ではなく、ザッという軽い音だ。
閉じた瞳を開け、顔を上げる。
背中があった。男の背中だ。
青年は振り返る事はせず、
「そうやって目を逸らすのか? なにも出来ねぇって、無力だって、最後まで逃げんのかよ」
「おま、え……なぜここにいる」
「あのデケェの探してたらここについたんだよ。んで、お前はなにしてんだ」
「終わりを待っているのだ。私にふさわしい最後だろう? 周りの人間を騙し続けてきた男には」
「あぁ、くだらねぇもんに人生預けた奴にはふさわしいな。言っただろ、甘えて他人任せにしたってなんも変わらねぇって」
ベルシアードの自虐的な言葉に、青年は鼻で笑いながら同意する。
ここへ来た理由は分からないが、恐らく助けに来た訳ではないだろう。
ベルシアードは自分の底を見抜かれて逆上し、この青年を殴ったのだから。
「俺はテメェがどうなろうと知ったこっちゃねぇ。そこでの垂れ死んでもな」
「……わざわざそんな事を言いに来たのか? もう良いだろう、私が間違っていた。信じる事になど意味はない……お前の言う通りだったよ」
「なんか勘違いしてねぇか? 確かにテメェのやって来た事は全部意味なんかねぇよ。けどな、俺が気にくわねぇのはそこじゃねぇ」
剣を構え、青年は向かって来るリヴァイアサンに一切怯む様子はない。表情こそ見えないものの、笑っているのではないだろうか。
こんか窮地に立たされても、なぜこの男は逃げないのだろう。
そんな事を考えていると、
「お前は一番信じなくちゃいけない奴を信じてなかった。だからそうなったんだろ」
「一番信じなくちゃいけない奴、だと?」
「自分自身だよ。なにも出来ねぇ、意味なんかねぇ、そうやって言い訳して、自分を信じねぇ奴は見ててムカつくんだよ」
「ーーーー」
ベルシアードは、誰よりも自分を信用していなかった。
自分は正しいと口にする事で目を逸らし、一番楽な道を選んでいる事を誤魔化していた。
だって、自分にはなにも出来ないから、他人に任せた方が間違いがないから。
けれど、青年はそれを見抜いていた。
殴った事はムカついているのだろうけど、きっとそんなのは些細な事でしかないのだろう。
「立て、まだなにも終わっちゃいねぇだろ」
「もう終わりだ。リヴァイアサンは止められない」
「逃げんな、向き合え。逃げたってなんも変わらねぇ、そのツケがいつか回って来るだけだ」
「無理だ……私にはなにもーー」
「お前には出来ねぇかもしれない。けど、俺達なら出来る」
ベルシアードの言葉を遮り、青年はそう断言した。放たれた言葉には一切の迷いはなく、本当にそう信じているようだった。
「テメェの部下集めて俺の指示する通りに動け」
「…………」
「断るなら今すぐここから消えろ。見てるだけでムカつくんだよ」
「…………」
「テメェだって分かってる筈だ。お前には戦う責任があるって事を」
ずっと、自分を信じる人間を騙してきた。
祈れば救われると、少しも思っていない事を口にしてきた。
その言葉で救われた人間がどれだけいるのかは知らない。けれど、少なくともベルシアードの周りに集まった人間は救われた筈だ。
本人がどう思っているかは関係ない。
ベルシアードの作った海の子という組織は、確かに誰かの心の拠り所になっていた筈なのだ。
だから、ベルシアードには戦う義務がある。
今まで散々逃げて来て、目を逸らして来て、その最後が『お前らの信じて来たものは無意味でした』、なんてふざけた結末では許されない。
だから、
「本当に、この状況を覆せるのか……」
「たりめーだろ、必ずどうにかする」
「こんな私にでもか。無力でくだらなく醜い私にでもか……!」
「それを決めんのはお前だ。やれるかどうじゃねぇ、やるかどうかだろ。どのみちお前はここで終わる、部下からは見捨てられて終わりだ。だから、最後くらい自分で選べ」
「……そう、だな」
全てを話した時、自分を慕ってくれていた人間はどうなるだろうか。
きっと、また一人になってしまうだろう。
それだけの事をこの男はやって来たのだ。
でも、だからこそ、他の人間には一人になってほしくない。
孤独と偽物から始まった組織かもしれないけれど、そこで出来たものは本物の筈だから。
拳を握り、持てる力の全てを振り絞る。
身体中が止めろと、痛みを響かせてサイレンを鳴らす。これに身を委ねてしまえばきっと楽だ。
今までそうして来たのだから。
けど、
「言え、私はなにをすればいい」
「逃げんのは辞めたのか?」
「あぁ、私は間違っている。しかし、他の者は関係ない。必ず、必ず救われる時がくる筈なのだ。だから、その邪魔をあんな化け物にされてたまるか……!」
「そうかよ、一度しか言わねぇから良く聞け」
微笑みながら、青年はそう言葉を吐いた。
それからリヴァイアサンを止める方法を聞き出し、ベルシアードは呆れたように口を開く。
「正気のさたではないな。一方間違えば死んでしまうぞ」
「死なねぇよ、俺には大事な大事な目的がある。それまではなにがあっても死なねぇ」
「そうか、私はお前を気遣う器はない。……だが、本当にやれるのか? 信じて良いのか?」
「勝手にしろ。信じるってのは失敗した時の責任を全部押し付けるって事だ。でもな、俺は一切責任をおわねぇ。失敗したらお前らのせいだ」
「ふん、言ってくれる。ならば、私が成功すればお前は必ず止めるという事だ。これが最後、私は私を信じる、絶対にミスはしない」
出来るかどうかなんて分からない。
海の子のメンバーに声をかけたとして、力を貸してくれるかどうかも分からない。
けど、多分、これが信じるという事なのだろう。
ベルシアードの仲間は、きっと力を貸してくれる。
「ここは任せたぞ……勇者」
「さっさと行け。巻き込まれても知らねぇぞ」
「あぁ…………ありがとう」
背を向け、ベルシアードは走り出す。
その直後、勇者の剣とリヴァイアサンと牙が激突した。