五章二十一話 『金色』
デカイ、なんてものではなかった。
ドラゴンやクラーケンなど比べ物にならず、遥か数十メートル上がった今でさえ、その全長を目で捉える事が出来ていない。未だ、体の半分は海の中なのだ。
巨大な蛇はゆっくりと体を海の中へと戻して行く。高さで言えば一軒家二つ分くらいだろうか。なんにせよ、ルーク達がようやく顔を見れた瞬間だった。
ゴツゴツと敷き詰められた青い鱗に全身を覆われ、その鋭い赤眼が真っ直ぐにルーク達をうつしている。
今までルークは色々な存在に睨まれて来たが、その巨体も相まってかかる威圧はその非ではない。
これが、
「リヴァイアサン……」
「驚きだな、ここまでデカイとは」
いつの間にか人間の姿に戻ったソラ。
二人はリヴァイアサンの顔を見上げ、良く分からない笑みが勝手に飛び出した。それは他の人間も同じで、ただ見上げているだけだった。
しかし、ユラは波にのまれる事もなく、リヴァイアサンを前にして、
「うわぁ、思ってたより全然デカイわね。ま、私体のデカさとか全然関係ないけど」
ほんの少しだけ驚いた様子だが、特に先ほどとは変わっていない。
そして、リヴァイアサンはルーク達を瞳にうつし、その巨大な口をゆっくりと開くと、
「ジャァァァァァァァァァ!!」
鋭利な牙に恐怖する暇もなく、空気を揺らすほどの咆哮が上がった。花壇の花を根こそぎぶっ飛ばし、倒れていた街灯が宙に浮き、周囲の建物の屋根が一斉に剥がれる。
当然、地上にいるルーク達にもその被害は訪れた。
抵抗するもまったく抗えず、リヴァイアサンを中心にして広がる衝撃波によって後方へと大きく吹き飛ばされた。
後頭部を民間の壁に叩きつけ、ソラがルークの胸に飛び込んで来る。
「ゴフッーー!」
「ふぅ、助かった。私を受け止めるとは中々気が利くではないか」
「お前が勝手に飛んできただけだろ……」
「他の者も無事なようだな」
「ッたく、いきなり大声出しやがって。うるせぇんだよ」
ソラを無理矢理押し退け、他の面々へと目を向ける。当然、ルークと同じように咆哮によって吹き飛ばされてはいたが、全員生きてはいるらしい。
ティアニーズが這いつくばるようにして近付いて来ると、
「だ、大丈夫ですかっ」
「問題ねぇよ。ちょっと頭打っただけだ」
「良かったです。それにしても……あれがリヴァイアサン。同じ精霊なのに、ソラさんとはまったく違うんですね」
「当たり前だ。人間と同じように精霊にだって種類がある。まぁ、あれほど巨大な精霊は珍しいだろうがな」
正直に言って、ソラなんかよりもよっぽと精霊らしい。しかしその一方で、あれが味方とは思えなかった。
大きさや威圧も含め、魔元帥よりも化け物と言えるだろう。
なんとか立ち上がり、ルークはユラへと視線を向ける。あれがなんだろうが、倒すべき相手はたった一人。
向かって来ない以上、相手にする理由はない。
その筈なのだが、
「さぁて、こっからが本番ね。大きくて硬そうだけど、私には関係ない。だってーー」
ユラは踏み出し、恐れる様子もなくリヴァイアサンへと向かって行く。最後の方は聞き取れなかったが、明らかに異常な行動だという事は分かった。
ソラもそれに気付いたらしく、
「まずい、奴を止めろ!」
「アァ? おう!」
珍しく焦った様子のソラに、ルークはソラを抱えて理由も聞かずに飛び出した。即座に剣の姿へと変わり、一気に距離をつめようとするが、
「ーーはい、終わり」
その呟きだけが聞こえた。なにをしたのか分からない。
ただ、見えたのは、ユラがリヴァイアサンの鱗に爪を立て、そのまま手を横に払うようにして動かしただけだ。
たったそれだけ。それだけの筈なのに、
「グゥゥゥゥ……ジャァァァァァァァァァァァァァァ!!」
再びリヴァイアサンが咆哮を上げた。二度目という事もあり、ルークはすかさずに剣を地面へと突き刺して飛ばされないようにする。
剥がれて飛び交うガラスの破片を交わしながら、僅かに目を開けた。
「ッ! 今度はなんだってんだ!」
『クソ、やられたよ。全てが奴の思い通りに進んでいる』
「は? なに言ってーー」
ソラの諦めたような発言に、ルークは再びユラへと目を向ける。そして、目にした。
ユラが触れた箇所から、黒い紋様が勢い良くリヴァイアサンの体全体に広がって行くのを。
あの紋様がなにを意味するのか、ルークは良く知っている。
なにせ、自分の左腕にまったく同じものが刻まれているのだから。
ユラは両手で耳を塞ぎながら振り返り、ルークへと視線を移す。それから人差し指を向けると、
「さて、ここでまた問題です。この紋様が刻まれた者はどうなるでしょーか。あ、君は別ね」
「…………テメェ、まさかあの呪いを!」
「だいせーかい。精霊にだって呪いは効くのよ。それに、呪いにかかった人間はどうなったか……ま、答えは直ぐに分かるけどね」
ユラがニヤリと口角を上げた瞬間、リヴァイアサンが大きくて体をしならせた。
ヤバい、と理解した時には遅く、その巨大が横へ倒れる。ズザァァ!!と破壊音を炸裂させ、数十メートルほどの並ぶ民家を下敷きにして破壊した。
あの中に、いったいどれだけの人がいただろうか。
そんな事を考えている暇はなかった。
リヴァイアサンは体を起こし、苦痛に満ちた雄叫びを上げながら再び地面に体を叩きつける。地が揺れ、ルークの体がほんの少しだけ跳ね上がった。
「うおぉッ! あの野郎、この町ぶっ壊すつもりかよ!」
『理性なんてないだろうな。体の内で暴れる痛みに抵抗するので精一杯なんだ。やられたよ、これが奴の狙いだ』
「リヴァイアサンを暴れさせて、町をぶっ壊そうってのかよ!」
『あぁ、というか、今まさにそれが目の前で起きている』
仮にルークが今まで出会った魔元帥が本気で町を破壊するとして、ここまでの破壊力を出せただろうか。否、間違いなく無理だろう。
戦った本人だからこそ分かる。
純粋な破壊力だけで言えば、リヴァイアサンの方が上だ。
「私あんまり戦うの得意じゃないの。だから、手っ取り早く全部を壊しちゃうには、こうやっておっきいのにやってもらうのが早いでしょ?」
「テメェは高みの見物かよ。んな事俺がさせるとでも思ってんのか!」
「あ、やっぱり向かって来るか。でも……」
リヴァイアサンは一旦置いておくしかない。あれだけの巨体を相手にしたところで勝ち目はないだろうし、呪いを解くのならユラを殺した方が圧倒的に早い。
そう思い、ルークは剣を引き抜いて走り出す。
しかし、その前に一人の男が立ち塞がった。
「ッ! 邪魔だおっさん! 退け!」
「おぉ! リヴァイアサン! やっと、やっと私の祈りが届いたのだ! 言っただろ、必ず救いはやってくると!」
「バカ言ってんじゃねぇ! これのどこが救いなんだよ!」
「ハハハハハハ! 私の祈りは、私の行動は、私の人生は、なに一つ無駄ではなかったのだ!」
両手を広げるベルシアードの視界には、ルークはおろかユラすら入っていない。恍惚とした表情を浮かべ、奇妙な笑顔でリヴァイアサンを見上げているだけだ。
周りの光景なんて見ようとすらしていない。
ただ、目の前の精霊に興奮しているだけなのだ。
『ルーク! 今すぐそこから逃げろ!』
「アァ!? って、ヤベ……!」
ソラの声を聞き、ルークはベルシアードから視線を逸らした。いや、強制的に逸らされたと言って方が正しいだろう。
圧倒的な破壊をもたらしていたリヴァイアサンの顔が、真っ直ぐにこちらに向かって落ちて来たのだから。
ルークは直ぐ様体の向きを変えて走り出そうとするが、不意に背後のティアニーズが目に入った。
それだけではない、大勢の人間が。ルークは奇跡的に無傷だったけれど、あの風圧によって怪我をして動けない者もいる。
「こんの……!」
逃げてしまえば良い。ルーク・ガイトスとはそういう男なのだから。
向かったところで勝ち目はない。しかし、ルークが逃げてしまえばこの場の全員は間違いなく死んでしまうだろう。
当然、あの桃色の髪の少女も。
関係ない。そんなの、関係ないーー、
「あぁもうクソが!」
『おいルーク!』
逃げ出そうとした足を止め、ルークは走り出した。目の前に立つベルシアードの襟首を掴んで横へとぶん投げると、リヴァイアサンの頭の落下地点へと入る。
見上げ、そして腰を下ろし、全ての真剣を腕に集中する。
「ソラ!! 加護だ!!」
『分かっている! こんなところで死ぬなよ! 潰されて死ぬなど私はごめんだ!』
「うっせぇ、だったら全力を貸しやがれ!!」
奥歯を噛みしめ、覚悟を決めた瞬間、リヴァイアサンの歯と剣が激突した。
ルークを中心にして衝撃波が広がり、周囲の建物の窓ガラスが一斉に砕け散る。はえていた木をぶっ飛ばし、後ろで倒れている者はなんとか地面にへばりつく。
普通に考えれば一瞬で潰されて終わりだ。
質量なんて考えるだけバカらしい。
けれど、
「うォォォォォォォォォォォォォォ!」
ルークは堪えていた。
圧倒的な質量を己の身一つで支えて。
右手で柄を握り、左手は刀身に添え、あまりの重さに震える腕をなんとか黙らせ、腕がちぎれそうな激痛に耐えて。
上を見上げる余裕なんてない。
見てしまえば、多分諦めてしまうから。
「どんだけ重いんだよクソ!!」
『耐えろ! 奴が再び首を上げるまで耐えるんだ!』
「んなに待ってられっかよ!」
時間にして僅かに数秒。たった数秒なのに、ルークは戦う意思も体力も力も、全て削ぎ落とされているような感覚に襲われていた。
一瞬でも気を抜けば、次の瞬間には蟻のように潰される。
なんでこんな事しているのか、ルーク自身も分かっていない。
だから、こんな下らない事では死ねない。
この程度で諦めていたら、この男はとっくに死んでいただろう。
「舐めんじゃねぇぞ……このデカブツがぁぁぁぁぁ!」
叫び、そして抗う。
今までだってそうして来たから。
悲鳴を上げる筋肉に鞭を打ち、僅かだが確実に押し返していた。
そして、
「おォォォらァァァァァ!」
全てを絞り出すように叫び、それと同時に全力で剣を振り回した。
ガキン!と擦れる音とともにリヴァイアサンの顔面が跳ね上がり、ルーク達の横を通り過ぎて建物をぶち破って行った。舗装された地面を抉りながら進み、力が抜けたように止まる。
なんとか死に物狂いで防いだルークは、崩れ落ちるようにしてその場に尻餅をついた。腕に力が入らず、手から剣がこぼれ落ちた。
その瞬間、体を包んでいた加護の感覚が切れる。
「ハァハァハァ……見たかクソ野郎……。どんなもんじゃ……」
「まったく、どれだけの無茶をしたか分かっているのか」
「うるせ、生きてんだから問題ねぇだろ」
ぐったりとして動かないリヴァイアサンを横目に、ルークは肩を上下にして息を整える。
ソラは安心したように息を吐き、ルークの顔を見て僅かに頬を緩めた。
しかし、
「すごいすごい、流石に今のを止められるのは思ってなかったわ。勇者ってやっぱ変わっても強いのね。でも、油断しちゃった」
「なにが油断だ。……って、あれ」
ナイフを両手で遊ばせながらユラが微笑む。
ルークは立ち上がろうとするが、足腰が震えてまったく力が入らない。当然だ、限界以上の力を出しておきながら、なんの反動もない方がおかしい。
ソラがルークを守るように前に立ち、
「コイツは死なせんぞ」
「あら、仲間って奴かしら? 精霊なのに人間思いなのね」
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ。ムカつくって事」
ユラが首を傾けた瞬間、その手からナイフが離れた。
真っ直ぐに、ソラの元へと吸い込まれるようにナイフが飛ぶ。
しかし、
「させませんよ。この人達は絶対に死なせません」
「たりめーだ、これ以上借りを作ってたまるかよ」
意図も簡単にナイフが弾かれた。
そして、二人の少女がルークの前に立つ。
ティアニーズとリエル、それぞれが武器を構え、ルークを守るように。
その背中を見て、思わず笑みがこぼれ落ちた。
「ちぇっ、もうちょっとだったのに。君達、この状況が分かってないの? 仮に私を殺せたとしても、あの精霊は止まらないわよ。もう怒りで狂ってるから」
「分かってます。でも、このくらいの絶望はどうって事ありません」
「ふーん、強気なのね。まさか、勝てるなんて言わないわよね? 戦うのは苦手だけど、弱いとは言ってないわよ」
「勝ちますよ。負けるつもりなんてまったくありません。そのために、私達はここへ来たんですから」
「テメェだけは絶望に許さねぇ。地獄の底に叩き落としてやるよ」
不機嫌そうな顔をしながら新たなナイフを取り出すユラに、二人は一歩も引く事はしない。
いつだってそうだった。
勝てないかもなんて理由にならない。
この少女は、どんな時だって立ち向かう事を止めようとはしなのだ。
ルークがティアニーズの背中を見ていると突然振り返り、
「あの、凄く難しい事頼んでも良いですか? いえ、お願いしますね」
「まてまて、せめて内容を教えろや」
「私とリエルさんで魔元帥をどうにかします。なので、ルークさんはリヴァイアサンをお願いします」
特に表情を変えず、ティアニーズは当たり前のようにそう言った。
ルークは呆気にとられたように口を大きく開き、数秒間フリーズ。しばらくして活動を再開すると、
「勝てんのかよ」
「勝ちます。今、このサルマでリヴァイアサンを相手に出来るのはルークさんしかいません」
「だろうな、多分ぺちゃんこにされて終わりだ」
「なので、ルークさんがリヴァイアサンの相手をするのは必然的なのです。自分に出来る事をやるーーですよね?」
この状況で、なぜこんなにも曇りのない笑顔を浮かべていられるのだろうか。
なんて考えていたが、ルークはそこで気付く。
自分も笑っている事に。
なぜ笑っているのかは分からないけれど、案外悪い気分ではなかった。
震える足を殴り、無理矢理震えを止めるとルークは立ち上がる。
「いっちょまえに俺の真似しやがって」
「真似なんてしてませんよ。私のオリジナルです」
「どうだか。んじゃ、こっちは任せるぞ。俺はあのデカイのをどうにかする」
「はい、任されました」
尻についた汚れを払い、それだけ言うとルークは小さく微笑んだ。
ティアニーズは嬉しそうに笑みをこぼし、それからユラへと向き直る。決意、そして自信にみなぎる瞳で、
「貴女の相手は私達がします」
「これでも一応魔元帥なんだけどなぁ。ま、どーせ全員殺すし、順番が前後するだけか。二人で挑もうなんてバカな考え、直ぐに後悔させてあげるわ」
「二人じゃないよ」
不意に、男の声が聞こえた。
少し離れたところからこちらへ歩いて来るのは金髪の青年だ。
しかし、その横にもう一人金髪の青年がいた。
豪華な装飾の施された鞘を腰にぶら下げ、いけすかない表情の金髪だ。
ルークはその男を知っていた。
だって、ルークが勇者として歩むきっかけとなった男だから。
「お前……なんでここにいんだよ」
二人の金髪はティアニーズとリエルの横に立ち、嬉しそうに口元を歪めるユラへと目を向けた。
「久しぶりだね。まさか君が魔元帥だとは思わなかったよ」
「あら、隠してるつもりはなかったのよ? でも残念、そこにいるって事は勇者を殺すのを辞めたって事よね?」
「辞めた、って訳じゃないけどね。辞めさせられたって言うのが正しいよ。どっかの誰かさんに」
当たり前のように言葉を交わす二人に、ルークやティアニーズ達は首を傾げる事しか出来ない。
金髪の青年は一瞬だけルークに視線を向け、僅かに微笑むと、
「でも、後悔はしていない。むしろ良かったと思っているよ。僕は救われたから」
「変わったわね。純粋な君が好きだったのに」
「人間っていうのは成長するものなんだよ」
「なら、成長の方向を間違えたのよ君は。ね、イリート」
トワイルの横に立つ金髪の青年の名、それはイリート・ナルコット。
かつて、勇者殺しとしてルークと拳を交えた男だ。