表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

裏野ハイツの住人(夏のホラー2016)

鏡の中、家族の仮面

作者: 青木森羅

「おはようございます、片切さん」


 声をかけてきたのは、201号室に住む白鳥さんだった。


「お仕事ですか?」


「ええ」


「気をつけて行ってらっしゃい」


 白鳥しらとりのお婆さんとは、ここ裏野ハイツに越してきてから毎朝の様に挨拶を交わしている。それというのも出社時間の七時が、お婆さんのアパートの前の掃除の時間と被っているようだ。101号室の佐竹さん(さたけ)によると、彼が越して来た八年前にはもうすでに掃除を日課としていたそうだ。それと、文字通りの日課の様で晴れの日も雨の日も曇りの日も、それに台風や大雪でも掃除しているそうだ。白鳥しらとりのお婆さんは、本当にいい人だと思う。

 私なんかとは違って。



 満員のバスに揺られながら会社に向かう、ここ三日位は何故か車内が混雑しているせいで立ち乗りになっている、そんな状態に少しイライラしていた。

 そんな不快感を引きずったまま会社の部署に着くと、すぐ上司に呼び出された。


「おい、片切かたぎり! 片切誠一かたぎりせいいち! ちょっと」


 俺は机に荷物を置いて小走りで、手招きをしている上司の元に急ぐ。


「まったく君は何度同じミスをすれば気が済むんだ! そんなんだから入社十年近くたってもヒラのままなんだよ!ほら、直せ」


 何の事かと書類を受け取るとと自分の作った記憶のない物だった、しかしその文章の特徴には見覚えがった。この書き方は、後藤ごとうだろうと考察した。

 後藤は三年程前に入社してきたひょろ長く顔がキツネに似ている男で、ちょこちょことミスをする。ただ人当たりが良く、そのうえ口が上手いので上からの心証はいい、だが同僚や下からは全く良く思われていない。それというのも自分のミスは全て他人のせいにするのだ。

 

「申し訳ありませんでした」


 彼がやったのだという事は分かってはいたがそれを指摘した所でこの上司、本橋もとはしは一切聞く耳を持たないだろうというのは分かっていた、なにせ後藤は、本橋のお気に入りだからだ。昔一度だけ後藤のミスだと橋本に指摘した、その時本橋は「いいから直せ」と聞く耳も持たず一蹴した。それからは諦める事にしていた。


「全く、そんな事だから同期に抜かれるんだぞ。これからは気をつけろよ」


 確かに同期の奴らはもう課長になっている。同期の中で平社員なのは自分だけなのは気にはなっていた。

 ただその理由も分かってはいるのだ。簡単に言ってしまうと、あまり人におべっかを使えないのだ、そのせいで上司から好意の目を向けられる事はない。それと何度か昇進の話もあったのだが、その度に運悪く上司の不祥事や部署の失態で立ち消えた。


「以後気をつけます」


 重い足取りで机に戻ると背後から、


「あれ、片切さんのじゃないですよね?」


 と後輩の橘望たちばなのぞみが指摘してきた。


「なんでそう思う?」


 橘は少し顔を近づけて小声で、


「今朝来た時に、後藤くんがなんかしてたんですよ。本橋さんの席で」


 橘望はそういう人の機微に気づくのが上手い女性だった。


「え? そうなんですか?」


 私の隣の席に座る新入社員の野田が話を聞いていたらしい。


「あなた、見てなかったの!? 一緒に居たじゃない」


 野田はうーんと唸りながら、


「覚えてないですねぇ」


 と言った。


「まったく、野田くんは抜けてるんだから」


 呆れている橘を気にせず野田は、


「けど、それならなんで片切さんは本橋さんに言わなかったんですか?」


 野田はぼーっとはしているが正義感は強いらしくそういう事に熱くなりやすい、若さがなせる事だろう。


「いや、いいんだよ」


「けど」


「こら、野田くん。片切さんには片切さんの考えがあるんだからいいの」


 橘との付き合いは長くそのお陰というか、俺の性格もすこし理解してくれていた。それがこの部署での唯一の救いだ。


「さ、この話はここまでにしてそろそろ仕事をしよう」


「はい」


 と橘は元気に、野田は締まりのない返事をした。





「お疲れさん、じゃあ先に帰るわ」


 と本橋が告げて席を立ち、部屋を出て行った。もうそんな時間かと妻から貰った時計を見たら、終業時間を十分程だが過ぎていた。

 

「橘、野田。終わったか?」


 俺は二人に仕事の進み具合を聞いた。


「こちらは終わりましたよ」


 橘が言う。


「こっちもです」


 と野田。


「そうか、なら今日は上がるか。」


 自分もちょうど終わった所だった。資料の修正といつもの業務が重なってしまったが、そんなに量が無かった事が幸いして比較的早めに片付いた。


「なら、三人で何処かに飲みに行きます?」


 野田が提案してくる。


「すまん、今日は帰るよ」


「何か用があるんですか?」


「ああ、息子の迎えに行かないといけないからさ」


 息子の送り迎えは普段、妻の一美かずみがしてくれている。ただ今日は少し遅くなると、少し前にメールが来ていた。


「本当に仲良いですよね、片切さんのウチって」


 と寿がニコニコしながら話す。


「じゃあ、また来週な」


「ええ、お疲れ様です」


 明日、明後日は休みだった。





「おとーさん!」


 アパートの近くの保育所に来るとじゅんが走ってきた。


「純、元気だったか?」


「うん」


 満面の笑みを向けてくる純。


「今日、純はどうでしたか?」


 純の後を追って来た保母さんに聞く。


「ええ、いつもの様に元気でしたよ」


「今日はね、けいたくんと積み木で遊んでたんだ。一緒にロボットを作ってたんだよ」


「そうか、それは良かったな」


「うん!」


 保母さんが純に、


「じゃあ、純くん。明日と明後日はお休みだからまた来週ね」


「うん!」


「じゃあね、純くん。ばいばい」


「ばいばーい、せんせー」


 保母さんに会釈をしながら、家に帰る道に進んだ。





「ただいまー」


 純がアパートの扉を開け、無人の部屋に帰宅を伝える。


「おかえり、ほら手洗いうがいして」


 はーいと言いながら、純は洗面所に向かった。

 私は純の鞄を開け、そこから空っぽになった弁当箱と保育所からのお知らせを書いたプリントを出す。なんでも来月の中頃にお泊り会があるそうで、その時に使うパジャマやタオル等を準備していおいて下さいという事だった。

 弁当箱を洗おうと台所に立つと、ガチャガチャと鍵を弄る音が聞こえ、ガチャとドアノブが動き扉が開いた。


「ただいま」


 と妻の一美かずみが入ってくる。


「おかえり」


 彼女はふぅと息を吐き、ハンドバッグを机に置きながらキョロキョロと部屋を見渡し、


「純は?」


 と聞いてきた。


「うがいしてるよ」


 ガラガラと元気な音が洗面所から聞こえてくる。


「じゃあ、私も」


 と洗面台に向かう。

 私はキッチンで手洗いとうがいをし、特撮ヒーローの書かれた弁当箱を洗う。洗面台からは、純と一美の笑い声が響いてきた。

 この何でもない時間が一番好きだった。仕事でのストレスを発散する様な趣味は無いしタバコやお酒、ギャンブルなどに興味の無い私としては、一美や純と一緒に居るごく普通の時間は癒しだった。

 そんな幸せな時間を堪能していると二人が洗面所から出てきた。純はリビングの椅子に座ると、テレビをつけ録画したアニメを見ていた。一美は保育所のプリントを眺めながら、


「ねぇ、お父さん。明日からの連休はどうするの」


 と尋ねてきた、明日と明後日は一美も含め一家揃って休みだった。


「そうだね、何処かに泊まりに行こうか?」


 純の顔がパァっと明るくなり、


「お泊り? やったー!」


 と大喜びする。しかし一美は不安そうな顔をしながら、


「けど、予約とかどうするの? 今からじゃ、間に合わないんじゃない?」


 そういう一美に私は自信満々に、


「実は昼間に電話しといたんだよ。ほら、隣の県の海水浴場あるだろ? あそこの近くに偶然開いてる宿があってさ」


 この夏の時期に海水浴場の近くの宿泊施設は飽きがほとんど無かった。だが昼間にインターネットで調べた所、偶然一部屋だけ空いている所を見つけ、なんとか予約する事が出来ていた。

 

「えっ!? 海に行けるの?」


 純が目を大きくする。

 

「ああ、明日はいっぱい泳ごうな」


「わーい!」


 この夏は休みの日も忙しく純を海どころか近くのプールに連れていく事すら出来ていなかった。純は毎日の様に、泳ぎに行きたいと言っていたのだけれど、その都度仕事なんだと言って悲しい顔をさせ続けていた。

そんな純を連れて行ける事は自分の喜びでもあった。はしゃぐ純を見て、一美も喜んでいる。

 その日、私達は明日の為に早めに寝る事にした。




「楽しかったねー」


 レンタカーの中、純が嬉しそうに喋る。海水浴場は混んでいたが、それでも純は元気よく泳いでいた。


「そうだね」


 と一美も嬉しそうに笑う。

 海水浴場での感想を喋りながら車を走らせていると、今日の宿「陽栄館ようえいかん」に着いた。

 陽栄館は小高い丘の上にある壁が白く二階建ての昔ながらの宿泊施設といった外観をしていた。その建物の雰囲気は明るく客をもてなそうという雰囲気を感じるれるが、建物の裏手にある竹林のサラサラと言う音と木々が作る陰影でなんとなくだが陰鬱な印象もある。


「いらっしゃいませ」


 玄関を抜けると腰程の高さのカウンターがあり、そこには和服の女性が立っていた。


「ようこそ、御出で下さいました」


 その女性は五十を越しているのだと思う皺が顔に刻まれていたが、非常に綺麗な人だった。

 

「ご予約のお客様でしょうか?」


「はい、片切で予約したのですが」


 女性は手元のファイルを眺めている様だった。何枚かページを捲った後その手が止まる、少し表情が曇った気がした。


「片切様ですね、お部屋は灯篭の間なります」


 しかし自分の見間違えだったのか女性は微笑のまま説明した。


「では、御案内させて頂きます」


 女性はパンパンと手を叩き、男性の従業員を呼ぶ。その男性は荷物を持ってくれた。

 

「こちらです」


 女性が案内する為にカウンターから出て先頭を歩く、その次に男性の従業員、そしてその後ろについて進む。


「こちらの部屋になります」


 そこは二階の角部屋だった。

 荷物を持ってくれた男性は荷物を置き、会釈をして部屋を出て行った。そして女性は、部屋の入口に膝をつき、


「申し遅れました。この旅館の女将、みどりと申します。もし何かありましたらお申し付け下さい」


 そういうと頭を下げた。


「分かりました、ありがとうございます」


 一美が言う。


「では失礼いたします」


 そういうと女将は音を立てずに戸を閉めた。

 

「さて、疲れたしお風呂に行こうかな」


 一美が言う。


「僕も」

 

 いつの間にか備え付けの椅子に座っていた純が立ち上がる。


「お父さんは?」


 一美の言葉に、


「少し休んでから行くよ」


「分かりました、それなら純と先に行ってきますね」


 二人は着がえを持って部屋を出る。


 私は部屋のテレビを付けた。その画面に映ったのはニュース番組で、現代社会に蔓延するブラック企業の現実と不安煽る様に書かれた大きな見出しが目を引く。顔を隠し声を変えた男性はこう話していた。


「私は上司からいじめを受けていました。必死になり血反吐を吐く程に会社に貢献していた自分の態度が気に入らなかったらしく、ある日突然仕事をさせて貰えなくなったのです。ただ会社に行ってただ帰ってくる、そんな事は家族にも相談出来ませんし辛かったです」


 そんな何処の誰とも知らない彼に私の未来を見た気がした。陰鬱な気持ちを変えるためにチャンネルを変えたが面白そうな番組は無く、テレビを消し部屋の中をなんとなく眺めた。何かの絵画や、なんと書いてあるのか分からない程に達筆な掛け軸が掛かっている。

 ただそれよりも部屋に入った時から気になっていたのだが、踏込みより部屋の中が狭い気がした。長方形型の部屋なのだが踏込みの広さに比べると、畳一枚分程の幅が足りない。確認のために踏込みを調べると、やはり部屋の中より余裕があった。

 部屋に戻り土壁に触れるとヒンヤリとしていた、まるで中に氷か何かが詰められているかの様に。

 少し気になったが今年の猛暑にはちょうどいいか思い、壁を触れるのを止め横になった。



「お父さん、起きて」


 誰かに肩を叩かれ目を開けると、一美と純が目の前に立っていた。


「凄い汗だけど、大丈夫?」


 いつの間にか寝ていたらしい、それと体中が汗でべたついていた、まるで毛穴という毛穴の全てから汗が出たみたいに。


「うん、寝てただけだから」


 そう、汗を拭いながら言う。


「なら良かった、お風呂気持ちよかったわよ」


 急に体を寒気が走り、身を震わせる。


「どうしたの?」


 一美は身震いした私を心配そうに見て、


「あぁ、汗をかいたした、畳の上に寝てたから冷えたんだと思う」


「なら、お風呂に行ってくればいいわ。ポカポカして温まるわよ」


 顔が赤くなっている一美と純を見て、


「そうだね、行ってくるよ」


 と立ち上がり着替えを持って部屋を出た。


「いってらっしゃーい」


 と純が手を振っていた。


 扉を閉め、客室の並ぶ通路を進む。ふと廊下に仲居さんが二人立っているのが見えた。二人はこちらを見ると会釈をする。

 会釈を返しながら、横を通ると仲居さん同士が何かを呟く。はっきりとは聞こえなかったが、何か言っていた方をもう一人が諫めている様な雰囲気だった。特には気にせず一階に降り浴場に進む、ただその道すがらも従業員の視線が気になった、すれ違う従業員の全員がこちらを見ている気がした。

 日々の疲れが溜まっているからそう感じるのだろうと思ったが、何か引っかかる物を感じてもいた。



「ただいま、本当に良かったよ」


 浴場から戻り、一美に感想を伝えた。


「帰るまでにもう一回入ろうかな」


「それはいいわね」


「僕もはいるー」


 そんな事を言っていると扉の方から、


「失礼します」


 と声がした。


「はい」と答えると仲居さん達が料理を持って入って来た。


 忙しそうに仲居さん達は料理を並べていく、その料理は彩り豊かで美味しそうだった。

 その料理を見て一美も純も嬉しそうに笑っていた。


「では一時間後にお皿を下げに来させて頂きます、どうぞごゆっくり」


 と仲居さん達は帰って行った。

 

純や一美はその料理を美味しいを連呼しながら食べ進め完食する。私も食べ終え一休みしていた所に部屋の外から、


「食器をお下げしてもよろしいでしょうか?」


 と声が聞こえたのでお願いしますと声をかけ、食器を下げてもらう。

 

「うぅん」


 ふと見ると純が眠そうに目を擦っている、そんな純を見た仲居さん達が気をまわしてくれて布団を敷いていった。


「純も眠そうだし、今日はもう寝るか?」


 一美は頷く。

 明日早く起きて朝風呂をしようと約束して、布団に入った。


 

 頬に当たるヒンヤリとした感触で目が覚めた。


「ここは?」

 

 辺りを見回すとそこは見覚えがある、旅館の入口だ。


「なんでこんな所で寝っていたんだろう?」


 無意識に声が漏れていた。昨日の夜軽く飲んだビールで酔っぱらったんだろうか? 確かに自分はそこまで酒に強くないとはいえ、ここまで酷い酔い方をした事は無かった。

 けれど酔ったにしては頭が重い感覚も無く、意識もハッキリとしている。

 それに周りの風景にも違和感があった。


「なんで誰も居ないんだ」


 夜とはいえ誰か居るはずであろう受付には誰も居ず、風呂に入りに一階に下りた時よりも全体的に照明が薄暗い、あと靄がかかっている様に視界がぼんやりしていた。それと冷房が壊れたのか少し肌寒い。

 とりあえず部屋に戻ろうと階段の方に進むと、視界の端に何かを見た。


「純?」


 その小さな背丈は後ろを向いてはいたが、その背中を見間違うはずは無かった。その背中は通路を真っ直ぐに進む。


「待つんだ、純!」


 純が走っていた通路の先には厨房と書かれたプレートがついている。


「純、ここに入っちゃ駄目じゃないか」


 そう言いながら暖簾をくぐる、しかしそこに純の姿は無かった。その代わりに女性が包丁で何かを切っていた。

 

「すみません、ウチの子供が入ってしまったのですが何処に行ってか分かりませんか?」


 女性に尋ねてみる。


「お帰りなさい」


 女性は問いには答えずにそう言った。僕は何の事なのか分からなかった。


「ずっと待っていました、そうずっと。けどあなたには失望しました」


「あの……」


「ずっと、ずっと待っていたんですよ。なのにどうしてあなたはそうなんですか?」


 女性の声には怒りが滲み出ていた。

 その女性の後ろ姿には見覚えがある気がした。


「あの、何の事を言っているのか……」


「私は待ちました、あなたならどんな逆境でも越えられるって、けどあなたは駄目でした」


 ザクッと何かを切る。


「いくら待っても私は幸せにはなりません。私だけならいいんです」


 ザクッいう音が耳に残る、そしてその女性は続ける。


「けどあの子は、あの子の将来を考えるとあなたでは駄目かもしれません。私の日々はもう終わっているのかも知れません」


 その女性の服装を改めて見ると旅館には場違いなことに気づく、シャツにジーンズ、そして見覚えのあるエプロン。


「あなたにはあなたの矜持があるのかも知れません。いくら上から怒鳴られようと、同期に蔑まれようと、ただただその日々を安寧に過ごせればいいのでしょう。けど私からするとそれはただの逃げでしかないのです」


 ザクッ。

 今まで感じたことの無い寒さが襲う。


「私はもう疲れました、あなたと居るのはもう」


 ザクッ。

 一歩ずつ踏み出し女性に近づく。


 ザクッ。

 唾を飲む、体は冷えているのにやけに暑い。


 ザクッ。

 意を決して女性の名を呼んだ。


「一美、なのか……」


 彼女の動きが止まる。


「さようなら、甲斐性の無いあなた」


 クルッとこちらを振り向いた。

 エプロンは確かに誕生日にプレゼントした物だったが、彼女が一美なのかは分からなかった。


「う、うわぁぁ!」


 その顔は見えない。その顔には真っ白な目も口も無い仮面がはまってるだけだった。

 女性は包丁をこちらに向け、


「さようなら」


 とずっと呟いている。


「さようなら愛しいあなた、さようなら甲斐性なしのあなた、さようなら不甲斐ないあなた、さようなら、さようなら、さようなら」


 ゆっくりと彼女が歩く。

 ゆっくりと私は下がる。


「さようなら、早く消えて頂戴!」


 僕は走った。その横を包丁が滑り抜け、壁に刺さる。


「なんで消えてくれないの!」


 そんな声が背後から聞こえる。

 僕は走り厨房を抜け玄関に戻った。


「はぁはぁはぁ」


 なんで一美はあんな事を言ったのかと思ったが、そんな事は考える必要も無く分かっている。出世できない僕に愛想を尽かしていたのだろう、それが爆発したんだ。

 ただそれだけ。


 息を整え顔を上げると、そこには純が立っていた。


「純! さっきはどうして逃げたんだ!」


 そう言った瞬間、また走って逃げた。


「待ちなさい!」


 純を追う、今度は浴場の方に向かって走り出した。


「待て、待つんだ純!」


 いくら呼んでも止まらない純は浴場の暖簾をくぐる、それに私も続いた。


「純、さすがに怒るぞ!」


 そう言いながら入ると三人の仲居さんが立っていた、彼女たちは何かを話しているらしい。


「あの……、そう……」


 ここからは何を言っているのか聞こえない、私は純を見なかったか聞くために彼女たちに歩み寄る。


「ええ、……」


 そろそろ話が聞こえてもいいはずなのに、私の耳には鮮明には聞こえない。


「すみません、息子を見ませんでしたか?」


 私は声をかけたが、彼女達は気づかなかった様で話し続けている。


「あの、すみません」


 だいぶ近づいた時にある話が聞こえた。


「あの親子、あそこの部屋に泊まるんだって」


「本当に? あんな所によく泊まれるわね」


「可哀想に」


 話し続ける彼女たちに再度声をかけるがお構いなしに話し続ける。


「あの部屋っていわゆるいわくつきっていうのですよね?」


「ええ、この旅館が出来た当時にあの部屋に泊まった親子が亡くなったのよ」


 その話に私は何故か背筋が冷える。


「自殺だったんですか?」


「それが分からないのよ、自殺だったりらしいんだけどおかしな所があったのよ」


「なんです?」


 ゴクリと私は唾を飲む。


「……全員仮面を縫い付けられていたんだそうよ」


 瞬間、彼女達がこちらを振り向く。その顔には一美に貼りついていたものと同じ、顔も口も無い白い仮面がついていた。

 

「あなたもどうぞ?」


 その手には、白い仮面が握られていた。

 私はその場を直ぐ離れた。暖簾を掻き分け、一直線に走りまた玄関まで戻って来た。

 

「なんなんだ?」


 肩で息をしていると、


「おとうさん……」


 その弱々しい声は頭の上から聞こえてきた。なんとか頭を上げ、階段の上を見ると純が立っていた。


「純!」


 純と目が合う。


「そこで待つんだ。いいね? 純」


 そう言ったが、純は泣きそうな顔をして走って行ってしまった。


「なんで逃げるんだ、純!」


 自分でも驚くほどの声で叫んでいた。けど、純は止まらず、足音が廊下に響く。


「クソッ!」


 逃げた純の後を急いで追いかける。ずっと走っている事と常に感じている寒さで体から噴き出した汗は出ては消えを繰り返す。その感覚は不快でしか無い。


「待て、待つんだ純!」


 通路を駆けある部屋の前で純が止まる。


「そこで止まるんだ!」


 その私の制止を無視して純は部屋の中に入って行った。


「くそっ!なんで言う事を聞かないんだ」


 純を追いかけ、扉に手をかけた。その時初めてそこが灯篭の間だと気づいた。

 さっきの仲居が話していたのはここの事なんじゃないかと一瞬扉を開く事を躊躇った。しかし、純がここに居るなら迷っている暇は無い。

 

「純!」


 意を決して開けた扉の先には誰も居なかった。


「純、どこだ!?」


 踏込みから室内を見たがは純の姿は見えなかった。中に入り四隅に隠れているのかと思い確認したが、やはり純の姿は無い。


「どこに行ったんだ……」


 ここまで走ってきた事による疲労と、常に感じる空気の寒さ、それと異様な仲居と妻の一美に心身ともに疲労しきっていた。もう歩くのも辛い。

 

「ぉ…う……さん」


 声が聞こえる。


「おと……ん」


 どこだ?

 どこから聞こえてくるんだ?


 私は辺りを見回す。けど私の目に映るのは部屋の壁だけで人の姿は見えない。

 居ても立っても居れなくなった私は、


「純、どこなんだ、純!」


 叫んだ、喉がつぶれるんじゃないかと思うほど。


「お……ん」


 静かな部屋の中、その声が響いてくる方向がようやく分かった。それは、あの冷たい壁の方だった。隣の部屋に居るのかとその壁に向かって声をかける。


「純、そこか?」


 その声に返事は無い。


「純?」


 私は恐る恐るその壁に触れる。


「ん?」


 今度は冷たく感じなかった、ただの土壁。

 瞬間、カランと乾いた音が部屋に響いた。


「なんだ?」


 足元に先ほどまでは無かった外側に湾曲した木の板の様な物が落ちていた。それを手に取り持ち上げる。裏返した時それがなんなのか理解でき、投げ捨てる。


「仮面だ」


 それは一美や仲居さん達がつけていた仮面。白い表面に目も口も無い仮面。誰が何のためにこんな物を作ったんだろうか。


 カラン。

 また足元で音がする。


 カラン。

 もうひとつ。


 カラン。

 さらにひとつ。


 カランカランカランカラン。

 次から次へと足元に増える仮面。


 カランカランカランカラン、カランカランカランカラン。

 次々と現れる顔の無い仮面。


 それは、壁の向こうから次々と溢れ出て来ていた。その仮面はどんどんと溢れてきて、部屋の床が見えなくなり始めていた。


「なんなんだこれは!?」


 そう呟いた時、後ろ現れた誰かの気配を感じ振り向く。そこには、背中を向けた純の姿があった。


「純! どこに行っていたんだ。早くこんな所から出よう」


 純の背中に声をかけたが、反応は無い。そんな態度に業を煮やした私は、


「純!」


 強く肩を掴みこちらを振り向かせる。カランカランと音が鳴り続ける部屋の中で振り返った純の顔には、白い仮面が張り付いていた。


「なんでそんなものをつけているんだ!? 早く外しなさい」


 言い知れぬ恐怖を感じた私は純の仮面に手を伸ばす、しかしその手は純の手に払われ届かなかった。


「おい、純!」


 純が肩を振るわせる。


「どうしたんだ、純? いや、お前は本当に純、なのか?」


 少年の肩の震えが激しくなっていく。その振動に呼応する様に部屋が振動し始めた。


「純、じゃないのか? それならお前は、誰なんだ!?」


 そう言った瞬間、少年の震えも部屋の振動も止まる。そして少年は跳ねだした、回転しながら。部屋の中にどんどん仮面が増えていく、その量は腰まで達していてもう足が動かせなくなっていた。それにどこからか血の匂いが漂ってくる。


「や、やめてくれ」


 俺の言葉を少年は聞かない。


「あはははは、あは、あははは」


 少年は笑い始める。少年の動きは勢いを増す。


「た、の、む……」


 仮面が胸まで到達し、胸が圧迫されうまく息が吸えない。


「アハハハ」


 その声は少年というより、男の声に聞こえた。


「たす、け、て……」

 

 口まで到達し、息が出来ない。


「アハッ、アハッ、アハッ」


 もうここからは少年の姿は見えないのに、跳ねているのが何故か分かった。私は音の無い声で助けを求めた、誰でもいい、助けてくれと。だが、誰にも届かない。


「アッハハハハハハハハー」


 目の前が暗くなる、まるで何かに視界を塞がれた様に。



「お父さん……」


 私は耳元で呼ぶその声で目が覚めた。


「純」


 私も声を上げる。そこは旅館の部屋だった。


「どうしたの……?」

 

 一美が聞いてくる。


「今、純が」


「純なら、今トイレに入ってるわよ……」


 そうなのか、なら俺が聞いたあの声は誰の声だったのだろうか。

 時計を見るとすでに十時をまわり、そろそろチェックアウトしなければいけない時間になっていた。


「早くここから出ましょう……」


 一美が急かす。その言葉に頷き、急いで荷物を整理した。


 部屋を出る前に土壁に触れてみたが冷たくなかった、その中にあったなにかが移動したように。


 私は夢を見ていたのだけなのだろうか?





「どうでしたか?」


 受付にいた女将がそう尋ねてきた。私はその言葉に、


「良かったですよ」


 と短く答えた。


「そうですか」


 女将はそう短く告げる。


 出口に立ちなんとなく振り返る、受付に居た女将がこちらに手を合わせていた。





「ただいま……」


 裏野ハイツ、その103号室に戻って来た一美は誰も居ない部屋にそう告げていた。そのまま、椅子に腰を下ろす。

 帰りの自動車の中は、お通夜の帰りかと思う程静かだった。


「ほら、手を洗いなさい」


 私は純に洗面所を指し示し、促す。


「ふぅ」


 なんとなく体全体が重い。それは一美も同じらしく、頭を押さえて目を閉じていた。

 

 コンコン。

 洗面所を内側から叩く音がする、なんだろうか。重い足をあげ洗面所に向かう。ガチャリとノブを回すと目の前には純が立っていた。私の手を引っ張ってきた。


「どうした」


 ガチャンと洗面台の扉が閉じる。鏡の中に私と純の姿が写っていた。


 その顔は、白い目も口も無い仮面をつけていた。




 設定を見た時に103号室の子供の大人しい子という設定が気になり、そうなった原因を考えた時、こういったものに行き当たりました。

 初めは、旅館に行った事により子供の霊視が目覚め親には見えないで帰ってきたら鏡に写ってたってのを考えていたのですが、なんとなく姿を見せずに奇妙な方がいいんじゃないかと思い仮面にしました。


 本編上では特に書いてませんが、妻の一美は旦那の出世が遅いため仕事に出ていてそれにストレスを感じている。

 そこにつけこまれ誠一と同じ様に憑りつかれています。


 それと、あの夢のような世界で見た一美は誠一の潜在意識の中の一美で本人ではありません。

 その後に現れた仲居達は殺された家族の残留思念の様なものです。


 何故仮面をモチーフにしたのかというと、仮面夫婦という言葉からのインスピレーション、自分の本心を隠している、それならば仮面を付けた中身の違う人でもいいんじゃないかという所から仮面になりました。


 ちなみに白鳥さんはもう何かに憑りつかれているという感じで書いてます。


 良かったら、感想、評価、お気に入り等よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 旅館ひどいなwそんないわくつきな部屋に、客とめるんじゃないYO! しかも泊めといて現実の方でもヒソヒソ噂話して、挙句手をあわせるなんて酷い所だ(笑 そしてひっそり取り憑かれてる、お話と関係な…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ