第一話 純粋なる金剛石 ―Diamond― ......(1)
第一話の前編部分となります。
この小説は、基本的に一話を数部分に分割して投稿していきます。
では、本編スタートです。
“それ”は雪の白さでも、まして空の青さでもなかった。
純粋にして、潔白。
そこに邪念や悪意は一切存在せず、ただひたすら清らかに。
あえて色に喩えるとすれば、“それ”は透明。
神秘的に透き通ったその色には、一点の濁りすら見られない。
たが“それ”は、同時にとても儚く、そして脆い。
全てを受け入れ、全てと共存する。
そして、ゆっくりと消えていく。
そこにあって、そこにない。
確かに存在しているのに、目視することもできない。
決して、掴むことはできない。
どんなものよりも儚く。
どんなものよりも純粋で。
どんなものよりも清らかな“それ”は。
まるで水のように“透明”だった――
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昔から、都会暮らしが嫌いだった。
絶え間なく行き交う車のエンジン音は、耳障りで仕方がない。
高々と突き上げられた煙突から排出される煙には、吐き気すら覚えた。
こんな土地、人間が住むような場所じゃないとさえ思ったこともあった。
だから、父の仕事の都合で自分が地方に移り住むのだと知らされた時には、心の底から歓喜したのを覚えている。
ガタン、ガタン、ガタン。
駅を移るたび、段々とその様相を変えていく風景を楽しむため、僕は鈍行列車を利用して目的地を目指していた。
正面には、熟睡を続ける老人。電車の揺れに合わせ、その皺だらけの顔をカクリカクリと傾かせる。それでも全く起きる気配を感じさせない老人の睡眠欲は、僕に密かな敬意を抱かせた。
老人の隣には、妻と思われる老婆。そんな夫の様子を見て、呆れるような、それでいて嬉しそうな微笑を浮かべている。
ふと、正面の老婆と目があった。老婆は苦笑いを浮かべたまま、こちらに軽く会釈を寄越す。それに対し、僕も微笑みながら会釈を返した。
線路の上を電車が走る音を聞いていると、不思議と気分が落ち着いてくる。一定に思えるリズムも、耳を澄ましてみれば、案外不規則なものだった。
線路に刻まれた凹凸が電車を揺らし、視界をも揺さぶらせる。窓の外に視線を向けてみると、次々と過ぎ去っていく民家が目に映った。今、僕らの乗る列車が走っているこの地には、昨日まで住んでいた大都会の雰囲気など微塵も感じられない。木々は生い茂り、降り注ぐ日差しがそれらを照らしている。
――目的地は、すぐそこまで来ていた。
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PRISM ―プリズム― 第一話 純粋なる金剛石 ―Diamond―
その話が僕の耳に届けられたのは、一月半ほど前のことだった。
第2学年に進級してから、数日が経過したある日。
いつもと変わらぬ夕食風景。
ダイニングに設けられた巨大テーブルを、母、父、そして僕の家族3人で囲む。
兄や姉の独立で、少しだけ寂しくなった食卓。
母の料理の中でも特にお気に入りだった卵焼きを、自分の箸が掴んだのと同時に、父が突然こう切り出した。
「……純史、しばらくの間、都会を離れて地方で暮らしてくれないかい?」
その言葉は、まず僕に驚きを与えた。
掴んだはずの卵焼きは真っ二つに切断され、そのうちの一つを母の箸が素早く捕らえる。
何の前触れもなく、突然父の口から放たれた言葉を理解するのには、数秒の時間を必要とした。
“都会を離れて地方で暮らす”。
考えてみれば、確かに僕にとって嬉しい提案ではある。
だが、あまりに突然すぎる発言に、それも理由も聞かず手放しで喜べる筈などなかった。
「ず、ずいぶんと急な話だね? なんで?」
そう。まずは理由を聞かねば始まらない。
父が勤めている会社から左遷を命じられ、それが理由で地方に引越す……仮にそのような類の理由であるならば、当然それは喜ぶべきことではない。いくら都会を嫌っているからといって、さすがに家族の不幸を引き換えにしてまで地方に住みたいとまでは思わない。
「……まさか、左遷された……とか?」
考えている内に現実味を帯びてきてしまった疑問。確認する意味で、父に尋ねる。
「ははは! 残念ながら違うよ。むしろ、その逆だね」
父は、僕の不安を笑い声で一蹴し、言葉を続ける。
「実は、アメリカ支社から技術協力の依頼がきて、しばらく出張することになったんだ。何でも僕個人を指名してきたらしくて。いや、僕なんかが行ってもあまり意味は無いと思うんだけどさ。社長がどうしてもって言うから」
父の勤務する会社は、日本はもちろん、海外でも幅広くその名を知られているIT企業である。中でも、アメリカ支部の売り上げは他社に比べてもダントツで、本社に匹敵する程の売上高を記録しているとの事だ。
そのアメリカ支部からの協力依頼、それも個人指名となれば、左遷だなんてもっての外。父の技術が信用されている証拠だろう。
「何言ってるのよ、あなた。本社はあなたが支えているようなものじゃない」
照れたような表情を浮かべる父に、母の言葉が浴びせられる。
そうである。父は謙遜しているが、実際父の業績は、並の社員のそれとはまったく比べ物にならない。若くして本社の重役ポジションを任される程の業績をあげているのだ。
今や、父は社長が最も期待を寄せる人物であり、社内からは次期社長との呼び声も高い。
そんな父だからこそ、アメリカ支社は協力を依頼したのだろう。
「でも、あなたがいなくなったら本社は大丈夫なのかしら?」
「大丈夫さ。僕がいなくたって本社は成長していける。それに、これは単なる技術協力で、ずっと海外にいるわけじゃないからね。社長は、“本社の心配をするより先に、まず喜びなさい”って言ってくれたんだ。本当にあの社長らしいと思ったよ」
そう言って、父はにっこりと微笑む。
「で、せっかくだからその申し出を受けようと思って。……とは言っても、僕はこの通り、奥さんがいないと何も出来ない駄目人間だ。だから、沙希にも一緒に来てもらいたいと思う。だけど、純史は海外なんて行きたくないだろう?」
父の言葉に、僕は小さく頷いた。
アメリカ支社が設けられている土地と言えば、ヘタをすればここよりもさらに都会である。さすがに、これ以上劣悪な環境下へと移り住むのは避けたかった。
「そうだろ。かといって、純史にも一人暮らしはまだムリだと思う。だからさ、純史には、しばらくお祖母ちゃんの家で生活してもらおうと思っているんだ」
父は、依然として微笑みを浮かべながらそう告げた。
祖母の家――父の仕事の都合上、ここ数年は訪れていなかったが、小学校を卒業する以前までは、長期休暇に突入する都度遊びに行っていた記憶がある。
極端に田舎というわけでもなく、かと言ってこの街ほど都会というわけでもない。
ただ、多くの自然が残るその町は、とても穏やかで。
この街が失ってしまった多くの何かを、まだ持っているような気がした。
そんなあの町に、幼い僕は憧れていたのだ。
「もちろん、その時は今の高校とかも転校してもらっちゃうことになるけど。もし、どうしても転校が嫌なら、一人暮らしをしても構わないよ。幸い、出張までは後一ヶ月半ほどある。その間に、一人暮らしのノウハウを叩き込んでやるさ」
「……一人じゃご飯も作れないあなたじゃ無理でしょ」
意気込んで発言した父に、母の冷ややかなツッコミが炸裂する。
床ごと地面にめり込みそうな勢いで落ち込む父を慰めつつ、僕は考えた。
……この町の環境は兎も角、今の高校生活は悪くないし、離れるのは少しばかり惜しい。
だが、それ以上の魅力が、あの町にはあった。
記憶は曖昧だが、幼い頃にあの街で感じた“安心感”や“慰安感”は、まだ心に残り続けている。
ずっと憧れていた“地方”に。それも、自分が昔から大好きだった街への引越し。
……迷いは、既に無かった。
「……父さん。僕、ばあちゃんの家に行く」
父の目を見て、僕はきっぱりと言い切った。
結論を出すまでに一分と掛からなかったが、父は僕の答えをあらかじめ予想していたのか、特に動じる様子も無く、静かに頷いた。
「そうか。……迷惑を掛けてすまないね。都会を離れての生活は大変だと思うけど……頑張ってくれ」
「うん。分かってるよ。だから、父さんは安心してアメリカに行ってきて」
「……ああ。ありがとう。僕もしっかりやってくるよ」
父は再び嬉しそうに微笑み、決意の込められた声を上げる。
「純史……お母さんも行ってしまうけど、しっかりね」
「大丈夫だよ、母さん。一人暮らしをするわけでもないんだし。それに、僕は父さんほど生活力に乏しくないよ。だから、母さんは父さんの面倒をしっかり見ててあげて」
心配そうにこちらを見つめる母に向けて、僕は言った。
僕の言葉を受け、母は安堵したようにため息を一つ吐き出すと、コクリと大きく頷く。
「……」
……父や母と離れて、地方に移り住む。
不安が無いといえば嘘になるし、寂しさも感じないわけではない。
だが同時に、不安を上回るほどの期待と嬉しさが、僕の中にしっかりと根付いていた。
不安。
期待。
寂しさ。
嬉しさ。
これら全てを胸に抱え、僕は行く。
思い出の欠片が散らばる、あの町……“透水町”へと――
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「あづい……」
電車を降り、駅から出ると、そこには灼熱地獄が待ち構えていた。
太陽から降り注ぐ、ダイヤモンドのような光の線が、人々の肌をジリジリと焼いていく。
陽炎が、アスファルトの先の景色を滲ませた。
どうやら今年は近年稀に見る猛暑らしく、まだ五月の半ばを過ぎた辺りだと言うのに、気温は真夏のそれとさして変わらない。
この透水町と、昨日まで自分が住んでいた町、どちらが暑いか比べてみようとも思ったが、絶大な暑さの前には小さな競争など意味を持たないらしい。結局、“どちらも暑い”という結論に至る。
「んっと……ばあちゃんの家は……」
駅前のコンビニで購入した棒つきのチョコレートアイスを口に咥えながら、持参してきた地図を広げる。
アイスの表面に浮かぶ水分は、まるでアイスがかいた汗のようだ。溶けたアイスが地図の上に落ち、その部分を軽く湿らせた。
「ん。あった。……歩いていける距離だな」
“はずれ”と書かかれた棒をゴミ箱に放り込み、僕は再び灼熱地獄を歩み始めた。
次回予告
数年ぶりに訪れた、祖母の家――
「久しぶり……ばあちゃん」
再会する、二人の幼馴染――
「お、おばーちゃん! あっくんもう来た!?」
「ピンポーン。 大正解! 久しぶりだね、アツ」
催される歓迎会――
「では、改めて……おかえり、あっくん!」
「……ははっ。悪いけど、僕のノリは半端じゃないよ。若菜についてこれるかな?」
次回 PRISM―プリズム― 第一話 純粋なる金剛石 ―Diamond―......(2)