第二話 少女と影とパンドラの箱
赤い扉の先にある光に勢いよく踏み込む。地面はしっかりと感じられるが、全ての方向が光っていて、立っている実感があまり無かった。やがて後ろの方でドアの閉まる音が聞こえた。
…これでもう、少なくともしばらくは戻れない。今更になって、好奇心よりも不安が勝ち始める。その未練を断ち切るかのように、周囲の様子が変わり始めた。周囲の煌々とした光が弱まり始め、次第に周りの状況が見え始める。
そこは、石壁で囲まれた部屋だった。松明が壁中に設置されて、黄色っぽい明かりが充満している。天井に小さく開いた明り取り窓からは、夜空が見えていた。
「ここが…異世界」
学校の教室ほどのその空間で唯一目立つのは、目の前にある『祭壇』のようなものだった。そして、祭壇前にある五段くらいの低い階段に、髪の長い人が居た。その人は僕の声に気づいたのだろう。透き通るような髪を揺らして、彼女は振り返った。
「…誰? 」
その声の主は、とても白い肌をした女の子だった。テレビからしか聴いたことの無いようなきれいな声。芸術品のような美しい目がこちらを観察している。顔立ちや背格好から、おそらく同世代だろうか…恥ずかしい話、僕は彼女に見とれてしまっていた。
「あっ、いや…怪しい者じゃ…ないです」
やっと搾り出した、うわずったような声。きっと僕は今、めちゃくちゃ赤面しているに違いない。もっと人と喋っておけば良かった。目線をそらして後ろを見ると、あの赤い扉がそびえていた。
「あの、ここから来たんだ。これで話通じたりするかな…? 」
バカ正直に「異世界からきました」なんて言って、変人扱いされたらたまらない。特にこんな美人に嫌われたら、立ち直れない気がする。
「ほ…本当ですか!? 」
女の子の表情が一気に明るくなる。彼女は軽やかに僕に近づいて、僕の手を握った。
「ようこそ、きっと私の祈りが通じたんですね! 神様! 」
…とても嬉しそうな顔で、盛大な勘違いをしている様子だ。こんな顔を見たら、思わず「ハイ」と答えてしまいそう。
「えっと…神様って? 」
「ですから、村をお救いになって下さるのでしょう? 私は生贄として、なにをすればよろしいでしょうか?」
その言葉を聞いて、表情が凍った。
「生贄…? 」
無垢な笑顔を崩さずにそう言ってのけた少女に、僕は確認するように質問した。
「その通りです。こちらの願いを聞き入れて下さるならば、私の命と引き換えに『影』を退けて欲しいのです」
沈黙。何か返事をした方がいいのだろうが、あまりのことに声が出なかった。つまり目の前の少女は、自分の死を了承した上で笑っているのだろうか?
「…詳しく話してくれ。把握しなければなんともしがたい。神でもね」
散々迷って、僕は神を騙ることにした。村一つ危機にしてしまうような『影』とやらを、僕何かがどうこうできるはずもないのだが。
「では…二度目の『パンドラの箱』の開放で、各地に『影』がまた出てしまったのはご存知ですね? 」
パンドラの箱…これなら聞いたことがある。確か神話の、ヤバイものが詰まった箱だったような気がする。
「その影って、倒したりは出来ないの?」
ゲームみたいな考え方だが仕方がない。今のところゲームみたいな展開だし、二度目と言うのならば一度目をどうにか出来たのだろう。
「『駆動兵器』はもう残っていないようです。大きい国が優先だとか言って、こんな小さな村の安否なんて…」
彼女の表情が少し曇る。段々読めてきたぞ。つまりバケモノの封印が解かれて、専用の武器みたいなのがあれば倒せるけどそれがここには無いってことか。
…詰んでるじゃないか。
「で、お嬢さんはどうしようもないから、神への生贄に選ばれたと」
「ルシアとお呼びください、神様。…いえ、神様に祈っていたのは、実は私だけなんです」
ルシアか、いい名前だ。ではどういうことなのだろう。ルシアは少し目を伏せて、続けた。
「『影』は明るい場所を嫌います。ここの松明がじきに消えたら、私が格好の囮になるというわけです。でも私は、神様がいるって信じてましたから、お祈りしていたんです」
日常では感じられないような重い感情が、僕の胸にのしかかる。聞いただけで涙目になってしまいそうなことを、ルシアは表情を崩さずに言っている。
「君は…死ぬのが怖くないの? 」
その言葉に、ルシアの顔から微笑が消え、目にはうっすらと涙が浮かんだ。
「…分かりません」
こんなに何かをしたいと思ったのは、きっと生まれて初めてだ。
僕はルシアを何とかしてあげたいと、そう思った。
間も無く、松明の光が弱まり、消えた。明り取り窓からうっすらと入ってくる月の光が、室内をかろうじて照らしている状況。
その窓から、黒い『何か』が垂れてくる。黒い液体のようなそれは、ぐねぐねと不定形に動き回り、やがて人型のような形で落ち着いた。
『 ギチギチギチギチギチギチ!!!!!! 』
不快な「鳴き声」が部屋中に響き渡る。僕はその場から動けず、ただただそいつの行動を見ていた。ルシアに目をやると、同じように恐怖に凍った顔をしていた。
純粋な「死」という恐怖に、僕は包まれた。あれはヤバイと本能が悟っているようだ。思考は正常に回らず、後ずさろうにも筋肉が言うことをきかない。
黒い怪物はやがて、滴るようにルシアに近づき始めた。どうするのかはだいたい予想がつくが、いずれの結果にしてもきっとルシアの命は無いだろう。自分にできることを考えるが、ルシアより先に死ぬくらいしかできないのではないだろうか?持ち物といえば…
そう、赤い鍵だ。僕は急いで、鍵がかかっていそうなものを探した。室内に目立ったものは一つしかなかった。祭壇だ。よく見てみると、階段の上には棺のような、装飾の施された箱が見えた。しかしあそこまで行くには、怪物の横を通らねばならない。
「やる…やるんだ! 」
ここで行動せずとも、きっと死んでしまうだろう。それに僕は、さっき出会ったばかりの女の子を、衝動的に助けたいと思っているんだから。
僕は走り出した。怪物がルシアにたどり着くまでには、まだだいぶ時間がかかると見える。後ろを通って祭壇まで行けば、何かあるかもしれない。
怪物の横を通り過ぎてすぐ、僕は数十分前に感じたような衝撃を味わった。ちょうどトラックにはねられたような格好で宙に舞っている。
「うわぁああああああああああああ!!!!! 」
僕はそのままどこかに突っ込んだ。前と違うのは、今回は身体がバラバラになりそうなほどの痛みがちゃんと伴っているところか。戻してしまいそうな激痛を押し殺し、何とか状況を把握しようと頭を上げた。どうやらあの棺のようなものに突っ込んだらしい。バケモノの方を見ると、背中に見える場所からもう一本の腕が生えている。あれにやられたのか…
「神様!! 」
ルシアが心配そうにこちらを見ている。僕は神でも何でもない…だが、彼女に頼られると不思議と力が湧いた。
「何も…無い? 」
僕の予想に反し、棺の中身は空っぽだった。深い絶望が僕の汗腺を開き、汗がにじみ出る。対抗手段が無ければ、あのバケモノに勝てる気がしない。激痛も相まって、僕は横向きに寝転んでしまった。
このとき、僕は箱の内側を見る体勢をとっていることになる。その目の前には、鍵穴があった。おそらく中に入ってこういう体勢を取らなければ気づかないであろう仕掛け。気づけば僕は、ポケットの赤い鍵を鍵穴に突っ込んでいた。鍵は待っていたかのようにすんなりと開き、小さな引き出しのような戸が開いた。
「何だ…これ」
出てきたのは、ダンベルのようなものだった。武器の持ち手と言われればそう思えなくもないが、このままでは鈍器にすらならないだろう。
『鍵だ』
「わっ!!! 」
直接耳に口をつけて話されたような声が聞こえ、小さく身を震わせてしまう。赤い鍵を見てみると、また先端の形状が変わっていた。
『駆動兵器は鍵でエンジンを作動させないと使えん。さあ早く! 』
そうか、これが駆動兵器…! ダンベルのようなものを細かく観察すると、握りの底にあたる部分に鍵穴があった。
ルシアの方に目をやると、もういつ襲い掛かられてもおかしくない距離にバケモノが迫っていた。
「ムリだ! もう間に合わないよ! 」
『とにかくやれ! 私ならここからでも影を斬れる!』
こいつが喋ってたのか…僕は半分やけになって、鍵を刺し込み、回した。