さよならサイレン
今はもう、何も聞こえないのです。
理性が、本能が、甲高い音をたてながら痛みを走らせていたのに。
今はもう、止んでしまったのです。
-さよならサイレン-
殺風景なワンルームの床の隅には物を引きずった傷が残っている。
そこには小さなタンスがあった。
先日運び出した際についたのだろう傷は、以前の部屋にあった生活感を思い出させる。
備え付けのベッドと、冷蔵庫とテレビ。
視界に映る最低限。
ない、現実感。
まるで空気と同化して漂っているような、ふわふわとした感覚を味わいながら頭に浮かぶ顔。
それだけが唯一、自分を現実に引き留めているのだとぼんやりと理解する。
なにせ、煩いのだ。
刃物がぶつかり合う時のような音が、その顔と一緒に聞こえてくる。
キィン、ギィィ、キキィンン。
耳を塞いでも響く音が痛い。
痛い、痛い、イタイ。
部屋が狭いから余計に響くのだろうか。
外に出れば、マシになるのか。
まだ寒い街中は赤とピンクで目に煩かった。
心にリボンを飾り付けるなんて、誰が考えたのか。
そんな簡単に送れやしないのに。
人通りを歩く自分が妙に落ち着いていることに違和感を抱き、また現実感を無くしていることに気付く。
目的なんてなかった。
だが、ごく自然にスーパーの中に足を運んだ。
入ってすぐ目についた、チョコレートの並ぶ棚。
買い物かごを左手に、伸ばした右手が掴む黒。黒。黒。
たくさんの、黒をかごに放り込む。
棚から黒だけが消えた。
色んな目が、多分、見ていた。
気にならないのは不思議だったが、その理由すら気にならなかった。
大きめの袋一つ持って来た道を戻る。
足が地についているのが信じられないくらい、袋も身体も軽かった。
見慣れた、見慣れない部屋に着いた。
まだ陽は高く、室内を照らしている。
その中央に座り、片側に袋を置く。
途中で買った自販機の缶コーヒーはまだ熱を保ち、上着のポケットを温めていた。
それは無機質な温かさでかじかむ手を犯して、熱くて冷たい。
知っているものとあまりにかけ離れていて、静かに床へと置いた。
また、音が聞こえる。
前より少し大きくなった気がした。
袋から黒を取り出す。
特有のガサガサとした音は掻き消されてしまったらしい。
表れた長方形の包装を破る。
少し色の濃いビターチョコレートが、誘っているように見えたから一口かじってみた。
きっと、甘くて苦いはずの味はしなかった。
それでも食べ続けた。
甘いだけのチョコは胸焼けがするだろう。
嫌いじゃないけど、好きでもないならビターが丁度いいと思う。
暫くして、すっかり冷めた缶コーヒーを開けた。
口内へ招き入れるも、やはり味はない。
飲んでも倒れない、不思議。
カフェインに敏感な自分は既にいなくなったのだろうか。
チョコとコーヒーを交互に飲み込んでいく。
機械的な作業を繰り返し、漂う。
天井が近い。玄関が遠い。泳ぐ、テレビ、冷蔵庫。
空の魚になった気分。
今呼吸したら、気泡が出るかもしれない。
大量の黒がなくなったのは、空も黒くなってからだった。
吐き気を催すことがなくて安心した。
出したくなかったから。
音は更に激しさを増し、まるで世界が不協和音を奏でているかのように苛んでくる。
知っているんだ、本当はね。
これは警告なんだって。
自分自身の理性が発する警告なんだって。
逆らう本能に丸め込まれないようにしているんだって。
けれど、悪魔の誘いはいつだって甘い。
毒と解っていても口にせずにはいられない。
もう戻れないところまでキテしまったのです。
―――止まる、サイレン。
「寒い!早く部屋に入りたいな」
「もう着くよ…ってアレ?」
「どうかした?」
「ドアの前に大きい箱が…」
「んー、何か頼んだとか?」
「いや…あ、自分の名前書いてある」
「……開けてみよう。置いといても邪魔だし」
「そうするかー、どれ………」
ねぇ、今日は想い人に愛を届ける日だそうだ。
あんなお菓子で想いがちゃんと伝わるなんて、どうしても思えないんだよ。
甘いだけが愛じゃない。
苦いも辛いも全部混ざってる複雑なものなんだよ。
だから全部あげる。
ハートはウェディングナイフの先に。
本物の愛を、どうか、残さず召し上がれ。
今、響いているのは狂気を知った愛しき人の叫び声。
それでも穏やかな静寂に、私は包まれていました。
人込みやカフェインのくだりはパニック障害の症状から。
症状が出なくなるくらい、キテた、という。
そんなことがあるのかはわかりませんが。
最後、箱の中にはウェディングナイフが心臓に刺さった主人公がいます。
チョコを大量に食べたのはつまりアレです、「私ががチョコよ!」みたいな←