嘆きの王妃 その4
その涙は優しく床に零れ落ちた。
それが王妃の本当の姿なのではないかとノアは感じた。
楚々とした貴婦人でも、アグレッシブな猛者でもない、ただの普通の女性。
優しくて、だからこそ期待に応えようと自分を偽っていた、どこにでもいる普通の。
ノアは王妃の側にしゃがみ込んだ。
王妃は後から後から涙を流しながら、救いを求めるようにノアを見つめる。
「妃殿下をずっと素晴しいお方だと思っておりました。だからその素晴しさ故、自分とはかけ離れた方だと遠慮していたかもしれません。私は元来女性が苦手で、それに軍隊という特殊な環境がそれを助長させていましたから。ずっと妃殿下の不評を買わないよう、近付かないように心掛けてきました。それが自分に出来る一番最良の方法だと信じていました。でも……」
「でも……」
「今なら、それが間違いだったと言えます。むしろもっと早く今のお姿に気付いていれば、もっとたくさんのお話が出来たのではと悔やまれるばかりです」
こう言っても信じてくれるだろうか。
また嘘をついていると激怒するだろうか。
でもこれがノアの本心で、こんなにハキハキと心情を語ってくれる女性なら、ノアも今までほど緊張せずに王妃と話せると思っていた。
女性特有の、何か裏の意味を含ませた甘い言葉より、今の王妃のような裏表ない実直な言葉の方がずっと清々しい。
それに懸命に王妃を演じようとする姿や不器用すぎる性格に親近感を感じていた。
「本当?」
すがりつくような瞳に、ノアは微笑んで見せた。
その不器用な微笑みにノアの本心を見たのか、王妃もたどたどしく口元を上げて見せた。
「陛下にもそのように本音でぶつかられたらよろしいのに」
「陛下には無理よ」
王妃は悲しげに目を伏せる。
それは10年という結婚生活の中で希望を失ったと言わんばかりに悲壮な影を帯びていた。
まだ結婚していないノアが知った顔で夫婦間に秘密など無用ですなどとは言えない。
「妃殿下、私は陛下と妃殿下の心を上手に橋渡しする器用なことはできません。でも、妃殿下のお言葉を聞き、少しでもその悩みを減らすお手伝いなら出来ると思います」
「ありがとう、ノア。貴方は本当に優しいのね。こんな私を見ても真摯に向き合ってくれる」
王妃はそっと涙を拭うと、悲しい影を追い払うように首を振った。
「また、私の話を聞いてくれるかしら?」
「もちろんでございます。ただ、クッションを投げ付けられのは勘弁していただきたい。ただの綿の塊とは思えない衝撃が走りました」
冗談半分、本気はそれ以上に含んだノアの言葉に王妃は顔を真っ赤にした。
「もう!大げさに言うんだから!ノア、貴方って意外と意地悪なのね。冗談を言う人だなんて思わなかったわ」
そう屈託なく微笑む王妃は恥ずかしさを隠すためか、ノアの肩を叩いた。
その力強さにノアはうめき声を上げそうになったが、やっとのところで息をかみ殺す。
(いやいや、本気で勘弁してください!)
これほどの豪腕なのに自覚がないとは、王妃の底知れない実力にノアは戦慄が走った。
「王妃はいつもここで、ストレス発散なさっておいでなのですか?」
ノアは叩かれた肩をそっと撫でながら、世間話のような気軽さで話しかけた。
しかしそれが一番知りたいことである。
王妃のこのストレス発散にダダリアの影があるかもしれない。
「今までは皆が寝静まってから、自分の部屋でこっそりとやっていたの。それこそメイドや侍女達にばれないように、布団の中でこっそりとね。でも、クッションを壊すと何かあったのかと聞かれるし、あまり無茶できないでしょ?いつもはクッションを殴るぐらい。後はどうしても我慢できない時はそっと庭園の奥にある森に分け入って、木に向かって当り散らしていたわ」
木に向かって当り散らす、というのはどういう行為なのか。
王妃は恥ずかしげにうじうじと指をつき合わせながら話す様子からは想像も出来ないが、きっとそれもぶっ飛んでアグレッシブなのだろう。
いっそ情けない部下達を王妃に預けてみてはどうだろうかとノアは真剣に考えた。
しかしそれは熟女好きなど公言してはばからないアンディー一人を喜ばす結果になるという答えに至ったので、そっと心の中で却下する。
「でも森にはそう簡単には行けないでしょ?どこに人の目があるか分らないし、至る所に警備がいてるし。本当に苦労したわ」
ノアには想像も出来なかったが、王妃という立場上色々考慮しなければいけないのだろう。
王妃の語りから想像するに、王妃のこの行き過ぎたストレス発散法はずっと前から行われていたようだ。
そこにダダリアの影はないと判断し、ノアはほっと胸を撫で下ろした。
夫婦揃って、あの女に弱みを握られているなど一家臣としては見過ごせない。
「でもね、もっと派手に暴れてもばれない場所があるって教えてもらったから。本当にここはちょうどいいわ。防音だし、あまり物も置かれていないから、気兼ねなく暴れられるし。それに元から割れてゴミになった花瓶や食器も用意してくれるから、思いっきり投げられるし!ノア、貴方も一度やってみてはいかがかしら?とってもスカッとするわよ!」
屈託なく微笑むと王妃はノアにクッションを手渡した。
ノアをストレス発散仲間だと勝手に認めているようだ。
それを途惑いつつもノアは受け取る。
「ありがとうございます。私のこともお気使い下さって。私は何かあれば部下に当たって発散してますが、これからは時々クッションも交えてみます」
などとアンディーたちが喜びそうなことを殊勝に言ってみたが、よくよく考えればノアのストレスの原因は大体部下だ。
ストレスを与えた本人らに返しているのだから、これ以上ないストレス発散方法だとノアは思っている。
話半分にどうやって投げれば王妃のように投げれますか、などと聞きながらも、ノアは王妃にこの部屋の存在を教えた者の情報を引き出そうとした。
「確かに防音なら誰にも気付かれませんね。今日のように扉が半開きでなければ」
「きっと激しく扉に当たり過ぎたのね。扉が勢いずり開いてしまうなんて。これからは気をつけないと!」
王妃は強く決意した目で大きく頷く。
この様子では近日中にまた、このサンルームが悲惨な状況に置かれるのは想像に難くない。
「よくここを思いつかれましたね。誰の思い付きですか?」
「王妃様、今日はこの辺りにされてはいかがですか?」
抑揚ない声が割って入った。
淡々としていて、それでいて有無を言わせない。
危うげな美しさを湛えたメイドが何時の間にか二人の側に立っていた。
「そうね。ノアに話を聞いてもらってスッとしたし、今日はもうお開きね」
立ち上がろうとする王妃にノアは手を貸す。
王妃の名に恥じない手つきでノアの手を取ると、ゆっくりと立ち上がる。
自分も立ち上がろうとしたノアは、不穏な視線を感じ眉を潜めた。
じっと自分を見つめているのは無表情のメイドだ。
「さあ、それでは私は先に引き上げますわ。ああ、部屋のことは気にしないで。この子がちゃんと片付けてくれるから」
王妃はにこりと微笑んで、メイドを振り返る。
「この子、若いけど気が利いて優秀なのよ。この場所だって彼女が教えてくれたの。今は彼女がいなければ私の生活はままならないの、ねえ、リリオン」
「勿体無いお言葉です、王妃様」
リリオンと呼ばれたメイドは慇懃に頭を下げた。
しかし刺すような視線をノアに向けたまま。