嘆きの王妃 その2
国王の妻、王妃殿下といえば、国家の顔である。
発言はもちろんのことファッションや趣味に至るまで全てが注目の的だ。
その一挙一動に国民の期待がかかっている。
もちろんカンナリオ国王エマシュオンの妃、アデリィーも常にその期待に応え、国王のよきパートナーとして国家を支えている。
楚々とした奥ゆかしい淑女は、けして絶世の美女ではないが、儚げな上品さや常に一歩引いて国王を立てる謙虚さ、それに慈愛に満ちた微笑で国民の心を掴んでいる。
もちろんノアも敬愛の念を抱く方なのだが……。
1秒前までの自分の中での国王妃のイメージがガラガラと音をたてて崩れていくのをノアは感じた。
常に微笑を浮かべた唇は一定の範囲内から動くことはなく、白魚のようなか細い手はフォーク以上に重たい物など持ったことなど見たことがなかった。
それが今はどうだろう。
雄たけびを上げながらバンバン物に当たるアグレッシブさは驚嘆せずにはいられないほどの迫力だ。
目も当てられないほどに散乱したサンルームの真ん中で、肩を怒らせ仁王立ちする姿は眩しいほどに凛々しい。
そこからは儚げなどという言葉は微塵も感じられない。
虫も殺せない淑女が、熊殺しの猛者としてそこに君臨していた。
「……」
「……」
お互いあまりのことにショックが大きすぎて言葉にならなかった。
ノアの顔面に炸裂したクッションがずりずりと滑り落ちていく。
ぽさっと、情けない音が響く以外サンルームは沈黙を守っていた。
クッションをノアの顔面に投げ付けた格好のまま凍りついたように動かない王妃アデリィー。
その王妃を呆然と見つめるしかできないノア。
どう声をかければいいのか。
お互いにきっかけを掴みそこね、ただただ相手の出方を待つ。
しかし、時間だけが流れ緊張感は増すばかり。
(これもダダリアの仕業か?いや、それよりもどうやって声をかければいいんだ?妃殿下が傷つかないようにするには…)
頭をフル回転するも答えは出ない。
今更ドアを閉めて、見なかったことになど出来ない。
ノアは意を決して口を開いたその時、それを制するように鋭い声が割っていった。
「そのみっともないツラをなんとかして、部屋に入ったら?隊長さん」
王妃の側にいたメイドがいつの間にかノアの側にいた。
面倒くさげにノアを押しやるとサンルームの扉を閉める。
一人緊迫感の輪から離れたように淡々としたメイドは途惑うノアを一瞥し、興味なさげに足元に落ちたクッションを拾い上げた。
「気の利いた言葉も浮かばないなら、せめて気を利かせて立ち去ればいいのに」
ぽそっと呟いた一言がぐさりとノアの心に突き刺さった。
そのメイドは一切ノアには目もくれず、王妃の側に歩み寄る。
まだ固まったままの王妃の腕を引くと近くにあった椅子に座るよう無言で促した。
緊張の糸が切れたのか、王妃は強張った表情のまま椅子の上に崩れるように座り込んだ。
ノアは黙ってその一部始終を見つめていた。
国王陛下の近衛隊の一員として王妃や王妃に仕えるメイドとはよく顔を合わせる。
しかし、メイドにしてはあまりに年若いこのメイドは今まで見たことがなかった。
年は15,6だろうか。
その熟し切れていない年齢の所為かどこか中性的で、人の目を奪うほどに整った顔立ちと相まって耽美な魅力を醸し出している。
良くも悪くも、ダダリアのように一度見れば嫌でも脳裏に焼きつくほど印象的な姿だ。
ノアと初対面ということは、ノアのいないこの3ヶ月の間に王妃付のメイドになったのだろうか。
俄かにそのメイドに対して疑惑が湧き上がったが、今はそれを追求する時ではない。
ノアは顔を上げると一歩王妃の側に近寄った。
優美なデザインの猫足の椅子の上で王妃は肩をびくりと震わせる。
先ほどまでの獰猛さは息を潜め、自分を守る術を全て失ったかのように痛々しく、その体は小さく見えた。
彼女は儚げな王妃ではなく、ただの哀れな女性だった。
王妃の嘆きようはいかほどだろう。
どんな場でも努めて穏やかで慎み深い王妃を演じてきた彼女が、まさか一衛兵にこのような醜態を見られるとは。
ただの謝罪だけでその心に負った傷が癒えるなど、考える方が浅はかだ。
しかし、ノアにはそれ以上彼女を救える行為など思いつかない。
ただただその心情を慮り、ノアは自分に考えうる最上の敬意を持って彼女の足元に跪いた。
「王宮を守護する者として不審な物音がすれば確認するのは当たり前。よもや妃殿下がいらっしゃるとは思いもしませんでした。けして妃殿下を陥れようなどとは考えておりません。今見たことは全て私の心の内に秘める所存でございます」
真摯に頭を垂れ、ノアは王妃の言葉を待った。
「あ、あの、ノア隊長……」
どれだけの時間が経ったか。
か細い声が、途惑うようにノアの上に降ってきた。
ノアは頭を下げたまま、抑揚なく応じる。
変に感情を出しては、逆に王妃を傷つけるような気がしたのだ。
「はい、妃殿下」
「驚いたでしょう。王妃の立場にある者が、このような……奇行を行っていて、貴方は失望したかしら?」
ノアは心を推し量ろうと王妃は一つ一つ言葉を選ぶように慎重に口を開いた。
ノアを見つめる瞳は猜疑心に揺れ、自分が傷つくと分っていながらも一番の核心に迫った。
「…驚きはしました」
「でしょうね」
「しかし、失望はしておりません」
「私に気を使わなくていいのよ。私は貴方の本音が知りたいわ」
王妃の声は震えていた。
それはずっと自分の心の中に秘めていた、もう一人の自分に対する負い目をノアの言葉で聞くことを恐れているようだった。
「私、本当は王妃の器ではないのよ。気品もないし、陛下を支えられるほど強くもない。ただ貴族に生まれたから、ただ運が良かったから陛下の妻になることができただけ。本当はどうしようもなく脆くって、物に当たるぐらいしかできない……」
溢れる言葉はいつの間にか嗚咽になり、痛々しい啜り泣きが殺伐としたサンルームに響いた。
「陛下は本当に素晴しい人。私も陛下につり合いの取れる王妃であると努力したけれど、でもダメだった。陛下よりも年上だからこそしっかりしなければと思えば思うほど、すれ違ってばかり。そして今は陛下に会うこともできない……」
(それには深い訳が……)
と、ノアは心の中で叫んだが、陛下がひた隠しにしている衝撃事実をノアが勝手に口にする訳にはいかない。
痛々しい王妃の独白は留まることを知らない。
ノアは一か八かと意を決して顔を上げた。
「妃殿下、私は失望などしておりません。それに陛下は誰よりも妃殿下を大事にされております。私は近衛隊隊長として陛下のお側でお仕えし、そのことを身を持って感じております。だから、そのようなことはけして口に出してはいけません。陛下も悲しまれ…て…」
自分の感じることを本気でぶつけてみた。
が、その全てを口にすることは出来なかった。
ノアは目の前に立つその存在感に次の句が告げられなかった。
「あ、あの、妃殿下……」
恐る恐る呼びかけるノアをキッと見下ろすと王妃の右手が火を噴いた。
「そんな慰めなんか、聞きたくな~いっ!!!」
王妃の激情をまともに身に受けたノアは言葉通り、宙を飛んだ。