嘆きの王妃
王宮の警備を担当する王宮護衛騎士団から簡単な事情聴取などを受け、ノアがやっと開放された時にはもう日の光はなく、女神のいなくなった中庭には清かなる月の光が落ちていた。
昨日からずっと働き通しで、それに加えて中庭で起きた女神像の爆発で必要ない運動をしてしまった所為で、流石のノアも疲れがピークに達していた。
しかし休んでなどいられない。
陛下の身に何があったのか、それを近衛連隊長から聞かなければならないのだ。
重い体にむち打って、ノアは近衛連隊長の執務室がある中央宮殿の奥、国王陛下など王族の居城となっているセフィーレンス城に向かった。
そこにはもちろんノアの仕事場である近衛隊長執務室もあり、ノアが先ほど陛下と悲惨な再会を果たした陛下の執務室もある。
どうやら陛下は現在、自分の執務室とその側にある非常用の居間と寝室だけしか行き来することを許されていないらしい。
自分の居城なのに、ここまで行動が制限されているのもおかしな話だ。
だが、陛下自身が今の姿にショックを受け、そこに引き込まれてしまっているのだから仕方ない。
本来の陛下の寝室は別にあるのだが、今ではそちらに行くこともないらしい。
事情を知らない者の目に留まる訳にはいかないし、なにより王妃殿下にその姿を見られてはいけないと思っているようだ。
(むしろ王妃殿下にこそ、今の状況をお知らせすべきだと思うけどな)
そうは思いつつも、ノアはただの近衛隊員。
国政に深く関ることに意見など出来るわけがない。
何ヶ月も夫に会えない不遇の王妃殿下に同情しつつ、ノアはセフィーレンス城内に足を踏み入れた。
城内は常にもましてしんっと静まり返っている。
夜も遅いからだろうが、それでも常とは比べられないほど人気がない。
「びっくりするほど静かだな」
ノアの独り言がやけに大きく城内に響いた。
だが聞きとがめる人もここには存在しない。
ノアは凝り固まった筋肉をほぐそうと大きく伸びをした。
「それにしても……」
やるせなさがまた口をついて出たが、微かな人の声がそれを阻止した。
ノアは神経を張り巡らせ声の主を探すが、城内は先ほどと変わらず沈黙を続けている。
(気のせいか……。いや、しかし……)
素早く城内の各所に目を走らせたが、異常はない。
(あっ。まただ)
遠く、城の奥のほうから微かな音がもれ聞こえる。
確かに城内は無人ではないから、人の声がしても不思議はない。
ただ、ノアが気になったのはその声がまるで女性の悲鳴のように聞こえたからだ。
(――罠か?)
という考えが一瞬過ぎったのは、あの女神像爆発の件があったからだ。
しかし考えるよりも先にノアの体は動いていた。
長い廊下を駆ける。
その先にあるのは庭に面したサンルームで、ちょっとしたお茶会や宴会などに使用され、また普段の昼間は談話室のように公開されている。
昼間は人の談笑が絶え間なく響き渡る明るい空間だが、夜間は人の出入りがまったくない閉じられた部屋だ。
不穏な影の正体も分らぬまま、あっという間にノアの視線は広間の重厚な扉を捉える位置まで走りついた。
僅かに開いた扉から滲むように光が漏れていた。
闇雲に突入することほど危険なことはない。
息を潜め、ノアはそっと中の様子を窺がった。
(誰だ?何をしているんだ?)
うっすらと開いた隙間から、女性と思われる影が見えた。
一人ではない。
長いドレスに身を包んだ女性と少し離れたところにメイドらしき黒色のスカートも見える。
ノアは素早く状況を把握しようとアンテナを広げたが、次の瞬間、唖然として言葉を失った。
「っんの馬鹿野郎がっっ!!」
(えっ?)
「いい加減出てきやがれ~!」
絶叫に近い罵声と共に何かがうなり声をあげてぶっ飛ぶ音がした。
ふっ飛ぶと表現するにはいささか音が重た過ぎる。
クッションだろうか?
激しく壁にぶつかり、それでも勢い余って弾かれ、それは床を跳ねてくたりと倒れこんだ。
「何ヶ月も引きこもりやがって!どうせ若い女の子をひっぱりこんでるんだろ~が!この変態っ!!」
今度はぶちぶちぶちと何かが悲惨な音をたてて引き裂かれている。
衣を裂く、とかではなく、ベッドのマットレス級の分厚さを一気に引き裂いたような豪快さだ。
「年上だからって馬鹿にしやがって!アラフォーを舐めんなよ!!」
ガシャンッ!
花瓶らしき割れ物がクラッシュする。
「こっちから離婚してやるわよ!かかってきやがれ!アホ陛下~!!」
剛速球で投げ放たれたクッションがノアのいる扉にぶち当たり、扉がその衝撃に耐え切れずに震える。
微かに開いた扉が、ぶつかった振動で、もうこれ以上は我慢できないと言わんばかりにその口を開き始めた。
扉の向こうでは第二弾のクッションを天高く構えたドレス姿の貴婦人。
呆然と扉の前に立ちすくむノア。
彼女があっと息を飲んだ瞬間にはその凶器は彼女の手を離れ、音速を超えていた。
次の瞬間、隙のない完璧人間と噂のノア近衛隊長の顔面にクッションとは思えない威力のそれがぶち当たった。