疑惑のメイド様 その2
ずんっと腹の底に響くような振動が、麗らかな中庭に走った。
遅れて弾けるような音が響く。
ノアが駆け出したのと、女神像の腹の部分が破裂するのは同時だった。
強い衝撃と共に細かな破片が勢いよく飛ぶ。
突然のことに事態を飲み込めていない庭師は咄嗟に顔を手で覆ったが、一番の脅威は彼の頭上すぐに差し迫っていた。
白亜の女神はノアの目の前で、ひたむきに仕事をする庭師を抱擁せんと近付いていく。
ゆったりと屈みこむ女神――。
スライドショーのようにコマ送りにノアの網膜に焼き付く。
こんなにも緩やかに女神は傾いているのに、どうしてだろう。
いくら走っても、もどかしいほど距離は縮まらない。
倒れゆく女神はまるで死の鉄槌のように庭師に襲い掛かった。
(くっ…間に合うか)
駆け出したノアの足元で綺麗に刈られた芝生が弾け飛ぶ。
丹精込めて庭を育てた庭師には悪いが、今はそんなことに構っている余裕はない。
その庭師自体に危険が迫っているのだ。
あと少し――庭師の頭上すぐにまで麗しい笑みが迫っている。
一か八か、ノアは芝生を強く蹴り上げると庭師目掛けて飛び込んだ。
庭師にタックルをかまし突き飛ばす。
だが、猛威を奮う女神はその手を緩めない。
宙に浮いたノア目掛け、勢いを増し突っ込んでくる。
ズッ……ドォーン。
鼓膜はおろか、体の奥にまで響く轟音を上げ女神像が地面で弾ける。
鋭い破片が四方に霧散し、白煙がもうもうと上がった。
白い塊が弾丸のように襲い掛かる。
その間をかいくぐるようにノアは地面に転がり込んだ。
勢いは治まらずノアは地面を激しく滑ったが、素早く身を起こすと体勢を立て直す。
そのままの状態で、手早く状況確認をする。
破片で制服が破れ、血が滲んでいるが大したことはない。
側で呆然と視線をさ迷わせている庭師にも怪我はないようで、ノアはほっと胸をなでおろした。
後、0’1秒でも動き出すのが遅ければ庭師は女神像に押しつぶされていただろう。
そしてその視線をもっと先に向ける。
夕焼けに染まる中庭は先ほどよりも朱を強くしていた。
全てを包む朱色は見る影もなく粉々に崩れた女神像も、未だに木々の間をうごめく白煙も優しく包み込んでいる。
穏やかな風が吹きぬけ、何事もなかったように白煙を押し流していった。
「大丈夫か?」
ノアは庭師に手を貸してやったが、彼はまだショックから抜け出ていないらしく、焦点が定まらないまま、ノアに言われるがまま立ち上がった。
流石にあの音に気付かない訳がない。
慌しい足音が響いたと思うとあっという間に人だかりが出来、崩れた女神像とノア達を興味深げに取り囲む。
「誰か、彼の手当てを」
あっという間にできた人だかりの中から城の警備を担当している王宮護衛騎士団の者を見つけると、ノアは庭師を医務室に連れて行くよう指示し、他の者に現場を保存するように依頼した。
いきなり庭に置かれた彫刻が爆発するなど考えられない。
国家を狙ったテロ行為か――。
国王の入る王宮でここまで出来るんだぞ、との意思表示にもとれる。
が、いかんせん場所が閑散とした中庭。
そこに一体置いてある彫刻が壊れてもそこまで国家に戦慄は走らない。
こんなことがありましたから、気をつけましょうね、程度だ。
どこの反政治団体でも、やるならもっと派手に意思表示するのがセオリーだろう。
(じゃあこれは?)
ノアが壊れた女神像を見下ろし、一つの可能性に思いあった時、遠くからノアを呼ぶ声がした。
振り返ると、こんもり出来た人だかりで懸命に手を振っている男がいた。
人にもまれ、あっぷあっぷと溺れながらもこちらに近付いてくる。
一度沈んだらもう浮き上がってこないんじゃないかとノアは心配したが、ノアの予想に反してその男はやりきった笑顔で人ごみを抜けてきた。
小さな体はちょっとばかり腹がせりでていて、彼の着ている近衛隊の制服の上着は弾け飛びそうだった。
その年の男性なら、その体型は恰幅があり威厳があるように見えるが、彼の場合どこか愛らしく、親しみやすさしか感じられない。
少し薄くなった髪が気になるのか、慎重かつ丁寧に撫で付けると彼はノアに駆け寄った。
「ノア隊長、これはどういうことだね?君は大丈夫かい?」
「近衛連隊長!」
彼が髪を直すまでじっと待っていたノアは彼の関心が自分に向いたところで、ようやっと事の顛末を彼に説明することが出来た。
小柄な彼に対してノアは出来る限り失礼にならないように、彼に視線を向けた。
若干腰を落としてもまだ身長の差があるので、頭を下げた状態になる。
この体勢が意外と首にくるのだが、ずっと上を見上げている彼はもっとしんどいはずだ。
彼はそんな体勢の不満など一つも漏らさずに、真剣な表情でノアの説明を聞いていた。
女神像が壊れたところでは大きな目を更に大きくして驚愕している。
「でもお会いできてよかった!先ほどお伺いしたのですがお留守でいらっしゃったようだったので……。連隊長には色々お聞きしたいことが……」
「ああ、色々周りから聞いたのかい。君はお役目大事の人間だからね、驚かさないように帰還すればすぐ話をしようと思っていたのだけれど。まさか君がこんなに早く帰ってくるなど思わなかったからね。ちょうどこの廊下を通ってよかったよ。君に会えて」
ノアを励ますように励ますように連隊長はにこりと微笑み、ノアの肩を叩いた。
「君に怪我がなくてよかった。陛下は君を大いに信頼しておられるからな。一の側近に何かあれば、もっとお心を病まれるかもしれない」
「連隊長、ありがたいお言葉で……」
上司の労いの言葉にノアは畏まって敬礼をしようとした。
ふっとあげた視線が近衛連隊長の先にいる野次馬達の群れを捉えた。
視界の片隅に引っかかりを覚え、ノアは言葉を切った。
「どうしたね?ノア隊長」
連隊長は不思議そうにノアの見ている方に視線を向けたが、何一つ心当たりがないらしく首を傾げた。
その連隊長の言葉もノアには届かない。
その瞬間、ノアの耳には一切の音も届かず、だた見つめる先にいる人物だけをその目に捉えていた。
夕暮れの日を受けて愛らしく染まった頬に不敵な笑みを浮かべ、その人物は野次馬の中に埋もれていた。
輝く金髪に、涼しげな薄紫の瞳を持つ、砕け散った女神も足元に及ばぬほどの美貌を宿した際どいメイド服の女。
こんな目立つ人物は全国を探しても他に二人といない。
だが際立った姿をしているのも関らず、誰一人彼女の存在に気付いていないのかすんなりと人々の中に溶け込んでいる。
「…ダ!……」
ノアが叫ぼうとした瞬間、その美女はゆったりと自分の唇に人差し指をあて、軽くウインクして返してきた。
まるで二人だけの秘密だとでも言うように。
そしてノアに背を向けると野次馬に紛れ込むように消えていった。
「ダダリア……。あいつの仕業なのか?」
追う事もできず、ノアはただダダリアが消えていった空間をじっと睨みつけていた。