プロローグ
「陛下……」
焦る気持ちを抑えながら、近衛隊長のノアは長い廊下を足早に進んだ。
目指すは敬愛する国王陛下の執務室。
カンナリオ王国の第15代国王、エマシュオン国王陛下は温厚で誠実な人柄で、国民から絶大な人気を誇っている。
普段は気さくな陛下だが、ここぞという時は威厳に満ち、その決断力や判断力に家臣は敬服せざるを得ない。
もちろんノアも近衛隊の一員として陛下の側で仕える上で、陛下の人柄に心から感服させられ、陛下に命を捧げる所存であった。
その全てを捧げ、お仕えしてきた陛下の身に何があったのか――。
きっかけは一ヶ月前に届いた手紙。
いや、もしかしたら事は数ヶ月前から始まっていたのかもしれない。
近衛隊、そう古めかしく呼ばれているが、いわゆるシークレット・サービスというものだ。
もしくはセキュリティーポリス。
特別編成の国王直属の部隊だ。
もちろん各部署の選りすぐりのエリートのみで構成され、国王の護衛や秘書的な役割を担っている。
そんな特別な組織に属しているが、ノアは元々陸軍将校、少佐である。
近衛隊長であっても軍部の一員として、時に特命に従事しなければならない。
近衛隊に特別派遣されている隊員に特命が下されるなど、滅多なことではありえない。
しかし、国境での内紛が国境を接する他国との関係悪化を招く恐れがあり、3ヶ月ほど前に急遽派遣が決定されたのだ。
正式な軍隊とは行動を別にし、内紛を計画したレジスタンスの指導者達の動向監視や銃器の闇取引等の情報を掴むために尽力していたのだが、その最中陛下から件の手紙が届いた。
『助けてくれ』
ただ、それのみが書かれた手紙に、ノアはどれほど特命を忘れ、陛下のいる王都に戻りたいと思ったことか。
しかし緊迫した戦情がそれを許さず、内紛を治めて戻ってくるのに1ヶ月もかかってしまった。
やっと戦場から帰還し、一にも二にも大事な陛下に会うために、ノアは戦場からその足で王宮にやって来た。
陛下のお心を曇らせる問題とはなんだろう。
道中、ノアの不安は増すばかりだったが、王宮に着き、肩透かしを食らわされた。
想像ばかりが膨らみすぎたのかもしれないが、それにしても政治の中心である中央の王宮は異様なほど落ち着いていた。
ただ、その中心にいるべき国王陛下の姿が見えないだけ。
それ以外は日々と変わらず、全てが動いている。
(手紙の意図は政治とは無関係なのか?)
そう思い、せかせか働く役人達に声をかけ陛下のことを聞くと、何故だか皆一様に目線を反らして一言呟く。
「お元気でいらっしゃいます」と。
その異様なほど同じ返答ばかりを受け、ノアは奇妙な気分にさせられた。
(もしや御身になにか……)
不安に胸が締め付けられるが、ノアはいやいや、そんなことはないと自分に言い聞かせて被りを振った。
(陛下に何かあればもっと城が騒然としているはず。皆、何も変わらなかったじゃないか)
と考えるも、一様に目線を反らすあの態度が気にならない訳ではない。
だが、ノアは自分に言い聞かせるように呟いた。
「あれはちょっとばかり困られた陛下の気の迷い。もう1ヶ月も経つのだ。きっと解決されているはず」
現にあれ以降手紙は一通も届いていない。
だから、皆の異様な態度も虫の知らせのように高鳴る鼓動も全て杞憂だ。
ノアは大きく頷くと、目の前にある重厚な国王の執務室の扉をノックし、丁重に押し開けた。
「失礼致します、陛下。ノアでございます。帰還のご挨拶に参りま……」
軍人らしく恭しく敬礼をしたノアはその光景に目を見張り、硬直した。
扉の向こう、広い執務室の真ん中、そこに置かれた大きな執務机の前にいたのは人外魔境な美しいメイド服の女とまるまる太った子豚のような男。
しかもメイドは子豚を足蹴にしている。
ノアの被っていた帽子がパサリと毛長の絨毯に落ちた。
「へ、へぇか?」
見るも無残な体型に変化し、精悍な時の面影など微塵にも残っていないが、忠臣のノアだからこそ直感で気付いたのかもしれない。
(もしかしなくともあれは、カンナリオ王国の第15代国王、エマシュオン国王陛下……。温厚で、誠実で、ついでに体格はすらっとした八頭身だった、あの……)
ノアの頭はホワイトアウト状態。
何も頭に入ってこない。
そんな彼を他所に目の前の二人は独自の世界を広げている。
ぶっくりと膨らんだ顔を嬉しそうに崩し、たぶん陛下だと思われる子豚の男は自分を足蹴にしている女を恍惚とした表情で見上げた。
「もっと僕を蔑んでください、女王様」
「じょ、女王様~?」
ノアは絶叫が執務室にこだました。