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第五話 街へ降りる

夜明け前の空は、まだ墨のように濃かった。

鳥の声が遠くで跳ね、城壁の上を冷たい風が走る。


ミツヨーナは外套のフードを目深にかぶり、小さく息を吐いた。


「大丈夫、顔なんて隠せば誰も気づかないわ。

アタシ、こう見えて夜の抜け道は得意なの」


扉の陰から現れたのは、塔付きの侍女リネ。

おずおずと包みを差し出す。


「お弁当です。市場のパン屋の胡桃パンと、干し果実。それと……お水」


「ありがと、リネ。帰ったら一緒に食べましょ。

ね、焦がさないように温めるコツ、あとで教えるわ」


二人は微笑み合い、ミツヨーナは中庭の影へ溶けた。


城門前では、背の高い男が待っている。

王子レオネルだ。

普段の威厳を脱ぎ捨て、質素な外套姿だった。


「護衛はつけない。本当は危険だが……君が望むなら」


「ありがとう。ねぇ王子、庶民の朝は早いの。

難しい顔は城に置いていきなさいな」


軽口に、レオネルの口元がかすかに緩む。

二人は荷馬車に紛れ、城の外へ出た。


石畳に露が残り、屋台の天幕がカサリと音を立てる。

市場の裏通りでは、眠そうな子どもたちが空になりかけの籠を抱え座り込んでいた。

パンの端切れを求めて並ぶ列だ。


「おはよう。寒いでしょう、指先こすって。

ほら、こうやって――あったまるでしょ」


ミツヨーナは子らの手を両手で包んだ。

指先に、昨夜の花の光がかすかに集まる。


眠気と不安の混じった瞳が、少しだけ笑った。


「お姉さん、歌えるの?」


「歌? 歌は風に乗せるものよ。

……でも今は腹ごしらえが先ね」


胡桃パンをちぎり、子らに配る。

レオネルも黙って手を貸した。

王子の手が小麦粉で白く汚れ、彼はそれに気づいて照れくさそうに笑う。


「王子、粉は偉さを隠してくれるの。似合ってるわ」


「君は相変わらず辛口だ」


市場の角を曲がると、小さな薬草店の前に人だかり。

幼子を抱いた母親が泣いている。


「熱が下がらないの。薬師さまは『銀の葉』が要るって……でも今は手に入らないって」


抱かれた子の額は焼けたように熱い。

呼吸は浅く、汗は冷え、うわ言に怯えが混じる。


「……銀の葉は森の奥。今は兵が立ち入りを禁じています」

レオネルが低く言う。


ミツヨーナは幼子の髪を撫で、耳元で囁いた。


「大丈夫。怖い夢はアタシの方へ歩いておいで――ね」


彼女は薬草店の棚から乾いたミント、蜂蜜、少量の酢を求め、小鍋を借りて湯を沸かした。


「これで熱が治るわけじゃない。

でも、体に『もう震えなくていい』って教えるの」


湯気に香りが立つ。

ミツヨーナは手をかざし、静かに目を閉じた。


光は出ない。ただ空気が柔らかくなる。

湯を布に含ませ、幼子の首筋とわきの下を丁寧に拭う。


呼吸が少し深くなった。


「……楽そうです、少し」


母親の声が震える。

ミツヨーナは微笑んだ。


「いい子。今は体が戦ってるところ。

あなたは『そばにいる』って言葉を何度も聞かせて。

声は薬より効くことがあるの」


薬師の老人が近づき、彼女を見つめる。


「“神の乙女”とやら、あんたの指先は――光らないのだな」


「光なんて、出ないわよ。

ねぇ爺さま、光らなくたって、人は救えるでしょう?」


老薬師は目を細め、笑った。

「まったくだ」


その時、王子が駆け戻ってきた。

腕には灰色の束――夜明け草。


「間に合った! 薬師殿!」


「うむ、すぐ煎じる。母親を呼べ」


湯気が立ち昇り、市場の朝が白く明けていく。

幼子はうとうとと眠り、額の熱がわずかに引いた。


母親がミツヨーナの手を握りしめる。


「あなたは……本当に乙女さま?」


「違うわ。ただの、夜の街上がりの女」


「でも、救ってくれた」


「救ったのは、あなたの声と、この人たちの手。

アタシは少し、背中を押しただけよ」


人々の間に、ゆっくりと笑いが広がる。

誰かが「ありがとう」と言い、別の誰かがそれを真似る。

言葉が波のように往復して、市場の天幕を震わせた。


「王子、見た? これが“街へ降りる”意味よ」


レオネルは眩しそうに人々を見渡した。


「あぁ。城の高さは、声を遠ざける。ここは、声が届く」


市場の真ん中にテーブルを置き、ミツヨーナが言う。


「ここに“花の机”を作りましょう。

午前中は子どもたちに『花の教室』を。

水のやり方、土の触り方、そして――心の扱い方もね」


「心の扱い方?」


「いちばん難しいやつ」


子どもたちは笑い、種を手に取った。

レオネルは袖をまくり、土をほぐす。


午前が終わる頃、花の机のまわりには小さな芽と、たくさんの笑顔が残った。

ミツヨーナは空を見上げた。


「ねぇ王子。アタシ、わかった気がするの。

奇跡は光る必要なんてない。

人が“やってみる”って決めるだけで、十分に奇跡なのよ」


レオネルは頷く。


「なら、僕たちは何度でも起こせるな」


「そういうこと」


だが、その平和な光景は長く続かなかった。


市場の外れで甲冑の音。

城の紋章をつけた騎士団が押し寄せ、隊長が巻物を突きつける。


「“神の乙女”ミツヨーナを王命により召喚する!

勝手な外出、庶民への扇動、王威を貶める行為! 直ちに塔へ戻れ!」


市場が凍りつく。

ミツヨーナは前へ出て、深く頭を下げた。


「皆さん、心配しないで。お店は続けて。

水を忘れずにね。芽は待ってくれないから」


「隊長さん、行きましょう。アタシは逃げない。

ただ一つだけ言わせて。

ここで起きたのは“扇動”じゃないの。

『助け合い』よ。

あなたの部下の中にも、きっと覚えてる人がいる。

誰かに助けられた朝を」


隊長の表情がわずかに揺れた。

だが命令は命令だ。


手首に冷たい鉄が触れる。

鎖の音だけが大きく響いた。


母親が震える声で言った。

「乙女さま、ありがとう……!」


ミツヨーナは笑った。

鎖の鳴る手で、そっと手を振る。


「また明日。水やり、忘れないで」


レオネルが隊長の前に立つ。


「彼女は僕の客だ。扱いには気をつけろ」


「殿下……申し訳ありませんが、王命にて」


視線がぶつかる。

短い沈黙ののち、レオネルは小さく頷いた。


「城で会おう、ミツヨーナ」


「えぇ。……王子、手を洗ってね。粉がついたままよ」


彼は笑い、真剣な瞳で「必ず」と返した。


鎖の音が石畳にこだました。

市場の人々が道を開け、花の机だけが真ん中に取り残される。

小さな芽が陽に透けていた。


ミツヨーナは背筋を伸ばし、胸を張って歩いた。

誰よりもゆっくり、誰よりも美しく。


鎖は飾りじゃない。けれど、彼女は飾りよりもずっと強い。


風が吹き、胡桃と蜂蜜の匂いが過ぎた。

遠く、塔の白い壁が光っている。


「泥が増えたら、咲く花も増えるのよ」


そして、城門が近づく。


――次の試練が、音を立てて開こうとしていた。

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