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バウンドレス・アイズ  作者: フィーネ・ラグサズ
第2章 トランスレート
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第12話 発症

 マイクはいつものように目を覚ました。テントでの睡眠に最初は不安もあったが、案外快適だった。生活で変わったと言えば、ややいかついマスクをつけることだけだ。相手に表情が見せられないのは彼の信条に反するが、誰かの命の方がずっと重要だ。

 ワンダーの長老であるレグルスと話すのが朝の日課だった。いつもならこの時間には起きて、広場で軽い運動をしているのだが見当たらない。

 嫌な気がしてマイクはレグルスのテントに急いで向かった。かすかにアラートが鳴っていることに気づき、幕を上げて中を覗き込む。発信源はレグルスの端末だ。続いて、マイクの端末もけたたましく鳴り始めた。マイクは即座に端末を操作し、医療チームとスノードロップに通報する。


「マイクか。……やかましくてかなわないな」


 ベッドからゆっくりと身体を起こして、レグルスは言った。声はいつもよりぼんやりとしている。


「レグルス、しっかりしろ」

「マイク、離れろ……うつるぞ」


 コロニー住人への感染は確認されていないが、可能性は否定できない。マイクがリスクは承知の上なのに一歩が踏み出せなかったところに医療チームのリーダーであるドクが全身防護服姿でやってきた。


「立てますか?」

「当たり前だ」


 ドクの言葉にレグルスはベッドから立ち上がり、歩き出すが足元がおぼつかない。すかさずマイクが駆け寄り、肩を貸した。リスクより友人を助けたい気持ちが勝ったのだ。


「……大げさだな」


 マイクはレグルスの身体の細さと軽さに不安を覚えた。


「ドク、病院でいいんだな?」

「お願いします」


 テントの外に出ると、医療チームのほかのメンバーもいたがドクが持ち場に戻って、と言うと即座に走っていった。

 病院の扉をくぐり、廊下を歩いていると、レグルスは咳混じりに語り始めた。


「獲物によって狩りの道具は変わる」

「こんな時に何を」

「君たちの腕と道具を信じている」


 その言葉には確かに意思の力が感じられた。

 ドクの案内で医療ポッドのある治療室にたどり着いた。医療ポッドのある部屋とスタッフが操作・待機する部屋にわかれている。大きな窓ガラスの向こうで機材や薬品のチェックをしている様子が見えた。


「ここに入ればいいんだな?」

「はい」


 レグルスはマイクの肩から腕を離すと、ポッドの背もたれに身体を預けた。ドクがポッドの閉鎖ボタンを押すと、強化ガラス製の扉が静かに閉じた。


「狩りの後は宴なんだろ? 忘れるなよ」

「ああ、お主も忘れてくれるなよ」


 その言葉を合図にレグルスは眠るように意識を失った。


「死ぬなよ、じいさん」

「……死なせませんよ」


 ドクの呟きにマイクは頷いて、


「頼んだぞ」

『マイクさん』


 スピーカーから聞こえてきたのはスノードロップの声だ。


「わかっている。隔離だろ」

『はい』


 マイクはスノードロップの指示に従って、隔離用のテントに向かう。白い幕をくぐる時に空気がテントの中に流れ込むのを感じて、アスチルベ製の特別仕様だとマイクは理解した。


『安全が確認できるまでここで過ごしてもらいます』


 マイクはベッドに腰を下ろす。簡易ベッドだが座り心地は良かった。寝心地も申し分なさそうだ。

 ふいに消毒液と新品の機材の匂いを嗅ぎ取った。どこでも嗅いだことのない人工的な匂いだ。はやく消えてくれればいい、とマイクは願った。


「ああ、覚悟はできてる。アトラスには連絡したのか?」

『レグルさんが感染したと伝えると、彼が先陣を切ったか、後は任せる、とだけ』


 マイクはカメラのレンズを見ながら、


「あのじいさん、狩りのときはいつも先頭にいたんだとよ。仲間がやばくなったら、自分の身を盾にしたともな」

『結構、話されていたんですね』

「ああ。だから、俺の身体も徹底的に調べてくれ」

『はい』


 その後、スノードロップによる検査が行われ、彼の身体にアルカディア菌群は存在しないことがわかった。

 スノードロップは使われた物資や食料、人間の移動までログを再確認したが、どれも適切に管理されている。どこかに見落としがあるのか、未知の感染経路があるのか。


『マイクさん』

「なんだよ」

『感染経路の特定を手伝ってくれませんか?』

「あいよ」



 医療ポッドのレグルスの腕と足の静脈に繋がれた管から、人工酸素運搬システムが酸素化パーフルオロカーボンを注入し、酸素を補給しながら彼の身体に戻していく。


「血中酸素濃度の上昇を確認、組織への酸素供給も安定」


 検査技師のインスペクターが報告する。続けて、ポッドの管理をしている医療エンジニアのエムイーが額の汗を拭きながら、


「ポッドのモニタリング頻度は現状を維持。稼働状態も正常」


 二人の報告を聞いて、リーダーのドクは頷いた。


「意識を失うのは、急性肺炎のせい。でも、聞いていた話よりも進行がはやい。シミュレーションでもなかった」

「個人差があるにしても、嫌な予感がしますね」


 看護師のリコが呟く。


「すでに未知の領域に私たちはいるの。何が起きても冷静に」


 ドクの言葉をインスペクターが遮った。


「ドク、血中サイトカイン濃度がどれも上昇している。炎症性サイトカインのIL-1とIL-6の数値は危険域だ」


 インスペクターの報告にドクは治療方針を決定した。まずサイトカイン抑制剤で炎症の連鎖反応を断ち切り、その効果を確認してからアルテミス・ファージでアルカディア菌群を除去する。二段構えの慎重な戦略だった。


「まずはIL-1抑制剤スノーベル-1から投与開始。効果を2時間ごとに評価して、次の手を考えるわ」


 薬剤師のメディスが用意した抑制剤をエムイーがポッドに接続、静脈からレグルスの体内に薬が浸透していく。効果が出るまでには時間がかかるが、待つだけにはいかない。あらゆる変化を記録し分析する義務がドクをはじめとした医療チームにはあった。それがワンダーたちとの条件だからだ。

 ドクたちは様々な可能性や対応を考えながら2時間を過ごした。


「2時間経過、IL-1は低下中、IL-6は上昇中」


 インスペクターに続けてメディスが報告する。


「O2キャリアの投与量が増えてます」

「肺の機能が落ちているんだわ。スノーベル-6の投与を急いで」

「アルテミス・ファージではないんですか?」


 メディスの問いにドクは逡巡した。今すぐにアルテミス・ファージを使うべきだ、と感情が叫んでいる。彼女の理性がそれを制した。


「……どんな反応が起きるかわからないものを同時に投与できない。リスクが高すぎるわ」


 リコは医療ポッドのガラス越しにレグルスの様子を見て、


「わたしはドクの案に賛成します。レグルスさんの体力を信じましょう」


 インスペクターは天井を仰ぎ見てから、メディスを見て首を横に振った。


「シミュレーションでもいい結果は得られなかったんだ」


 その場を制するようにエムイーは、


「モニタリング頻度を最大にする。IL-6濃度が低下すれば、次の判断がしやすい」


 彼の言葉を合図に場の空気が変わる。

 そして、スノーベル-6の投与から2時間が経った。ドクはインスペクターの報告を待つ。


「血中のIL-6濃度はアルテミス・ファージの投与可能域まで低下」


 インスペクターの言葉に間髪入れずにドクは、


「アルテミス・ファージの点滴投与をはじめて」


 メディスがファージの入った銀色のカートリッジを取り出し、リコとエムイーの二人が確認しながら、医療ポッドに接続する。

 透明な液体に乗って小さな狩人たちがレグルスという狩場に飛び込んでいく。その様子を見てドクはうまく効いてくれ、と願う。


「アルテミス・ファージ投与から30分経過。IL-6濃度と体温が上昇中、好中球数も跳ね上がっている」

「メディス、意見をちょうだい」

「インスペクターさんの報告内容から、細菌溶解によるエンドトキシン放出の影響と推測します」


 メディスは静かに、だが、はっきりと告げた。


「ありがとう。事前のシミュレーション通りね。ショック症状には気を付けて」


 ドクの言葉にチームの面々は頷き、それぞれのやるべきことをはじめた。



 アルテミス・ファージ投与から4時間、レグルスが運び込まれてから8時間半が経過した。

 異常値を示していた数値たちはゆっくりと下がりはじめたが、まだ予断を許さない。肺の像は白いまま、酸素運搬システムの稼働率も高止まりしている。


「最初の山は越えられたようね」


 ドクは手のひらに汗をかいているのを感じた。防護服を脱いで拭うわけにはいかず、代わりに拳を作ってグローブに汗を吸わせる。


『ドクさん、聞こえますか?』


 部屋のスピーカーからスノードロップの声が聞こえた。操作室にいるメディスやインスペクターにも聞こえているはずだ。


「どうしました?」

『感染経路が特定できました。コロニー『フラワー』から放出されたエアロゾルです』


 最初に反応したのはエムイーだった。


「こことフラワーは2㎞も離れているんだぞ」

『ちょうど、一週間前の朝、強い風が吹いた日があったんだよ。レグルスが普段と違う匂いがする、と言っていた』


 定住エリアでワンダーと過ごしていたマイクの証言なら間違いない。


『その日の気象条件でシミュレーション結果と一致しています。フラワーは内部循環モードに切り替えましたが、集団感染した可能性があります』


 誰もが聞きたくない言葉だった。緊張が走り、皆が動きを止めた。医療ポッドの駆動音だけが静かに室内に響いている。

 静寂を破ったのはドクだ。


「インスペクター、シミュレーションの精緻化に必要なデータは揃ってる?」

「もちろんだ。いつでも研究チームに共有できる」

「いいわ。共有して」


 インスペクターは即座に研究チームへの共有操作を行った。フラワーにいる研究チームはデータを受け取ると、すぐに作業に取り掛かる。必要な計算機資源はあらかじめ確保してあった。精緻化が終われば、それをもとにファージの改良だ。それでも完成品の量産に48時間はかかる。

 今でも最悪を想定して全員分の在庫はある。ただ、より効果の高いものを使いたいのがドクの本音だった。


「リコ、ほかの医療ポッドの状態を確認してきて」

「わかりました。杞憂に終わることを願います」


 宇宙船のエアロックにも似た消毒室にリコは姿を消す。

 ドクも同じことを願いながら、医療ポッドの中にいるレグルスを見た。今も彼の身体の中ではアルカディア菌群とアルテミス・ファージの壮絶な戦いが繰り広げられている。どちらが勝つかは誰にもわからなかった。



 レグルスは目を開いた。身体のあちこちに何か貼り付けられ、一部の管は針を通して身体の中に入っている。痛みはないが、闇雲に動かないほうがいいだろう。棘のある植物の茂みに飛び込んでしまったようだった。

 視線を前に向けるとガラス越しに室内の様子がよく見える。白い照明、白い壁、白い防護服に身を包んだ二人組。そのうちの一人が気が付いたのか、急いで駆け寄ってきた。


「レグルスさん、聞こえますか?」


 感動と心配が入り混じった声。命を食らう病に勝ったのなら、感動するのも当たり前か、とレグルスはどこか他人事のように思った。


「よく聞こえているよ」

「良かった、もうしばらくだけ辛抱してください」


 そう言い残すと駆け足で去って、リーダーらしき人物に報告をしているようだった。遠いので声ははっきりと聞き取れないが、自分のことで間違いないだろう。考えているうちに現実感が戻ってきた。

 そして、息を止めても苦しくないという衝撃にレグルスの意識は覚醒した。

 リーダーらしき人物がゆっくりと歩み寄ってきて、


「今、機械の力で呼吸をしているからです」


 深く息を吸おうとすると、胸の奥に鋭い痛みが走った。しばらく、呼吸は忘れておくべきだ。


「……肺はどうなっている?」

「肺炎でダメージを受けていますが、治療すれば完治する見込みです」


 短い言葉で必要なことをすべて伝えている。狩りの仲間としては最高だとレグルスは思う。


「そうか。しばらく世話になる」


 防護服の人物が何か言いそうになったのを制してレグルスは言葉を続ける。


「自らを囮にすることもある。これは、そういう狩りだ」


 数秒の間をおいて、正面にいた人物は頷く。


「今、意味を知りました。生きることそのものですね」


 言葉と意味にどれだけの距離があるのか、レグルスは思う。だからこそ、経験を通じて伝える長老が必要だ。アトラス達には十分に理解したようだが、どうやら、アスチルベでも長老の役割はいるのかもしれない。


「改良型のアルテミス・ファージが届きました」

「ドク、定住エリアで発熱の報告が多数」


 ほかの者も罠の役割を果たし始めたようだ。ドクと呼ばれた人物は、動じることなく、宣言した。


「対応は手筈通りに。――狩りの時間よ!」

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