第9話: 「ロードマン」に乗り続けた男
理央は高校卒業を間近に控えたある日、友人テツヤからヒロシの近況を聞かされた。驚くべきことに、ヒロシは未だに小学生時代と同じ「ロードマン」という自転車に乗り続けているという。その話を聞いた理央は、ヒロシが過去の栄光にしがみついている姿を強く想像せずにはいられなかった。
■ 結「過去に囚われた者、未来を掴んだ者」
【高校生になった理央】
1987年、早春──
数年が過ぎ、理央は高校卒業を間近に控えていた。
春の気配が漂い始めたある午後、彼は喫茶店の丸テーブルに肘をつき、友人・藤原テツヤと談笑していた。
話題はもっぱら、中型二輪免許の取得と、その先に待つ“バイクのある日々”。
ヤマハTZR250、ホンダNSR250、スズキRGΓ(ガンマ)──
その名を口にするたびに、ふたりの目は、少年のようにきらめいた。
未来を夢見るというより、それらは“まだ見ぬ自由”そのものの象徴のように思えた。
テツヤは、名古屋市立の公立高校に通っていた。
ある日、校則で禁じられていた原付免許を取得していたことが、何者かの密告によって学校に知られた。
その結果、彼は丸刈りにされ、一週間の停学処分を受けることになる──当時の管理教育下では、ごく当然のようにまかり通っていた理不尽な裁きだった。
理央もまた、中学時代にゲームセンターへ立ち寄っていたところを教師に見つかり、「反省」とは何かもわからぬまま、ただ「形ばかりの反省文」を書かされた。
その出来事をきっかけに、彼は「内申点」という──時に人生さえ左右しかねない不条理なシステムに翻弄されることになる。
そしてそれ以降、理央のなかで「教師」という存在への信頼は、決定的に崩れ去った。
いま、卒業を目前にした彼らにとって、バイクのある生活は、そうした管理と抑圧に終止符を打つ――自由の象徴そのものだった。
そんな中、テツヤがふと思い出したように言った。
「おお、そういや──石川ヒロシ、この前見かけたわ」
理央の背筋に、かすかな緊張が走る。
テツヤはアイスコーヒーのグラスを手にしながら、どこか懐かしそうに笑った。
「……あいつ、まだ“ロードマン”乗っとった(笑)」
──石川ヒロシ。ロードマン。
その響きに、理央の記憶は一気に数年前へと巻き戻る。
あの頃、男の子たちは身体が大きくなるにつれ、子ども用の自転車から26インチの「大人用」へと乗り換えていった。
1970年代末から80年代初頭にかけて流行したのは、角型ライトが二つ、スピードメーター、ウインカー、メッキパーツに変速ギア──
まるで小さなバイクのような派手な自転車たちだった。
「フラッシャー付き」や「サイクリング車」と呼ばれ、少年たちの羨望の的だった。
だが、小学四年生の理央は、その流行に乗らなかった。
彼の家に届いたのは、ひときわスマートなドロップハンドルの自転車。
──その代名詞とも言えるモデルが、「ブリヂストン・ロードマン」だった。
父親の選択だったが、理央はどこか淡い優越感を覚えていた。
ギラギラとした装飾に目を奪われる周囲の中で、自分だけが未来のスタイルを先取りしているように感じていたのだ。
やがて、周囲の少年たちも次々と「ロードマン」に乗り換えていった。
ヒロシもまた、その一人だった。
高校生となった理央は、さらにマニアックな競輪用ロードレーサーにまたがっていた。
そして今、その関心はオートバイへと移っていた。
中型二輪免許の取得を目前に控え、公道を風のように駆け抜ける日を心待ちにしていた。
──しかし、ヒロシだけは違った。
まるで時間の流れから取り残されたかのように、いまだ小学生の頃の「ロードマン」に乗り続けているという。
そういえば、ヒロシの家は貧しかった。
狭いアパートで、三人の家族が肩を寄せ合うように暮らしていた。
ピアノも、スイミングも、理央のように習わせてもらえるような家庭ではなかったのだろう。
けれど──
ヒロシがいまだに「ロードマン」に乗り続けているという事実は、単なる経済的な事情だけではないように思えた。
それは、ヒロシの精神的な成長が停滞していること、そして彼の本質的な部分がまったく変わっていないことを象徴していた。
思えば、小学生の頃のヒロシは、複数の取り巻きを抱え、神のように崇められ、クラスでは「勉強もできて面白い子」として人気者だった。
ところが中学生になると、理央からは距離をおかれ、小学生の頃のような下品なギャグは級友から受けなくなり、女子からはドン引きされ、かつてのような人気者ではなくなっていった。
この「人気者の座」を失ったことは、ヒロシの異様なまでに肥大したプライドにとって、大きな打撃だったはずだ。
だからこそ、彼は自分が最も輝いていた小学生の頃の自己像、つまり「ロードマン」が象徴する過去の成功体験に、強く執着し続けているのかもしれない。
理央にはそう思えて仕方がなかった。
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そんなことを考えているうちに、理央はふと気づいた。
テツヤにとってのヒロシのイメージは、小学生の頃のままだ──貧しいながらも、面白くて頭のいい、クラスのムードメーカー。
しかし当然ながら、テツヤは理央のようにヒロシの“裏の顔”など知る由もない。
だが、それはテツヤに限ったことではなかった。
理央のように、実際に標的にされたごく一部の者を除けば、クラスの誰もが、ヒロシを善良で魅力的な人物だと信じて疑わなかったはずだ。
まさか──ヒロシが影で人を操り、誰かを標的にしては間接的ないじめを仕掛け、その反応を冷静に観察して楽しんでいたなどという一面を、誰が想像できただろう。
自分のイメージを巧みに保ちつつ、他人を欺き、利用し、残酷な快楽を満たすために頭脳を使う。
それこそが──ヒロシの最も恐ろしい本性だった。
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【ストックホルム症候群】
──小学生だった自分は、なぜあれほど怯れながらも、ヒロシから離れられなかったのか。
理央はその問いを、長いあいだ胸の奥で反芻し続けてきた。
やがて彼が出会ったのが、「ストックホルム症候群」という概念だった。
誘拐や監禁といった極限状況のなかで、被害者が加害者に好意や信頼を抱いてしまうという、逆説的な心理状態。
思い返せば、あの八事南小学校には学年に2クラスしかなく、生徒数も限られていた。
閉ざされた人間関係のなかで、「彼」のグループから外れることは、幼い理央にとってほとんど“社会的な死”に等しかった。
ヒロシは、相手を痛めつけた後、決まって「許す」という儀式を行った。
「悪いのはお前だ」という前提のもと、自らを“裁く者”に位置づけ、そして理央は──
「自分が悪かった」「許してもらえてよかった」と錯覚していったのだ。
なぜ、あのとき気づけなかったのか。
無知は悪だったのか…… 幼さは……悪だったのか──
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【反社会性パーソナリティ障害】
ある日、理央は一冊の本の中で「反社会性パーソナリティ障害(ASPD)」という言葉に出会った。
──「目的のためなら平気で嘘をつき、他人を道具のように扱う。それをやり遂げたときに感じるのは、支配の快感。」
そんな心の構造が、医学的に存在すると知ったとき、言葉にならなかった長年の違和感が、ひとつ、静かに腑に落ちた。
さらに理央は、「ミラーニューロン」という神経細胞の存在を知る。
人が他者の悲しみに共感し、涙するのは、この細胞の働きによるという。
ふつう、人は誰かの痛みに触れたとき、脳内のミラーニューロンが反応し、
まるでそれを自分の苦しみのように感じてしまう。
だからこそ、他人に寄り添い、助けたいと願う。
だが、ASPDの人間には、その共感装置が欠けている。
ミラーニューロンが反応しないのだ。
だから、他人の痛みを「感じない」──
いや、それどころか、その苦しみすら「利用できるか」と考える。
理央は思った。
──もしかしたら、それこそが「彼」の本質だったのかもしれない。
中学卒業の頃、最後にヒロシと再会したとき──
あれほど人を傷つけてきた過去について、彼の表情に、後悔の影は一切なかった。
その冷たさの理由も、今ならわかる。
彼には、他人の痛みを理解するための「回路」そのものが、はじめからなかったのだ。
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【自己愛性パーソナリティ障害】
そして、もうひとつ──
ずっと胸の奥に、刺さったまま抜けなかった根深い疑問があった。
小学生の頃、ヒロシはクラスの中心にいた。
要領がよく、誰よりも目立ち、周囲から一目置かれていた。
なのに、なぜか彼の心の奥には、いつも「憎悪」[*1]*のようなものが巣くっていた。
理央が彼との距離を取り始めたとたん、その感情は牙をむき、攻撃性を増していった。
──何が彼を、そうさせたのか。
それは、心理学でいう「自己愛性パーソナリティ障害(NPD)」の特徴に、驚くほど一致していた。
幼い頃に過剰な賞賛を浴び、「自分は特別な存在だ」と信じて育った人間は、称賛されなくなった瞬間、激しい不安や怒りを抱えるという。
ヒロシの“自己像”は、「他者の上に立つ自分」「一目置かれる自分」という、虚構の上に成り立っていた。
その像を守るために、彼は他人を貶め、自分の優位を確認しようとした。
それが崩れかけたとき、彼の内に芽生えたのは、「見捨てられ不安」[*2]*だった。
やがてその不安は、「ナルシシスティック・レイジ」[*3]へと姿を変える。
──あれは、怒りというより、恐れだったのかもしれない。
──恐れを、攻撃に変えることでしか、生き延びられなかったのかもしれない。
……もう、十分だった。
ずっと疼いていた「なぜ?」という問いに、ようやく、自分なりの答えを見つけることができた。
そしていま、静かに思える。
──あの名前に、もう終止符を打ってもいいのだ、と
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注釈:
[*1] 脱価値化(Devaluation)
自分の不安や劣等感を他者に投影し、その相手を「価値のない存在」「劣った存在」として扱うことで、自らの優越性を保とうとする心理作用。
他者が自分より評価されると、無意識にその人物を攻撃・軽蔑することで、「自分のほうが上」という幻想を維持しようとする。
[*2] 見捨てられ不安(Fear of Abandonment)
対人関係において、拒絶や離反を極度に恐れ、相手に過剰に依存したり、逆に攻撃的になる心理傾向。
自己愛性や境界性パーソナリティ障害に共通してみられる特徴。
[*3] ナルシシスティック・レイジ(Narcissistic Rage)
自分の評価や尊厳が少しでも傷つけられたと感じたときに生じる、強い怒りや報復欲求。
他者の成功や称賛に激しい嫉妬を抱き、冷静さを失って過剰な攻撃に及ぶ場合がある。
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【なぜトシアキは、ヒロシに従い続けたのか】
理央はヒロシだけでなく、トシアキの存在にも、どこか釈然としない疑問を感じていた。
ヒロシが得意とする“矮小化ギャグ”──他人を冗談めかして貶め、笑いを取るその手口。
もっとも頻繁に“ネタ”にされていたのは、他ならぬトシアキ自身だった。
「野田トラマン」「野田自殺のメロディ」──あからさまに名前をもじった悪意あるギャグにも、トシアキは怒りの表情ひとつ見せなかった。ただ、笑って受け流すだけだった。
その姿は、かつて姉たちに絵を描かされ、「トシ君は才能ないね」と笑われても、ニコニコと愛想笑いを浮かべていた彼の姿と重なる。
年の離れた姉たちにからかわれても、トシアキは決して怒らず、反論もしなかった。
理央は一度も、彼が姉たちを悪く言うのを聞いたことがなかった。
むしろ、心から彼女たちを慕っていたように見えた。
もしかすると、誰かに従い、からかわれながらも逆らわずにいることが、トシアキにとっての“愛され方”だったのかもしれない。
その無抵抗な性格は、ヒロシにとって理想的な“従者”だったのだろう。
──だが、だからといってトシアキが「心優しい博愛主義者」だったわけではない。
彼は、ヒロシと共に理央を見下していた。ヒロシの残酷な言動に異を唱えることもなく、加害の側に立ち続けた。理央は思った。
トシアキは、ヒロシのように倫理観が壊れていたのだろうか?
そうは思えなかった。
むしろ彼は理央より勉強ができ、とくに数学が得意だった。たしかトシアキは、以前こんなことを言っていた。
「数学は答えがひとつしかないから好きなんだ」
その一言に、彼の思考の癖があらわれていた。トシアキは、曖昧さを嫌っていたのだ。おそらく彼の中には、極めて単純な価値観が根づいていたのだろう。
「強い者が正義で、弱い者が悪」──
人間関係という不確かで複雑な世界の中で、ヒロシの“絶対的な強さ”は、トシアキにとって安心できる“ただひとつの答え”に見えていたのかもしれない。だからこそ、迷わず従った。
さらに、絵の才能に恵まれなかった彼が、ヒロシの「漫画クラブ」で“最側近”として特別扱いされていたことも大きい。
その「選ばれた者」としての立場は、劣等感を抱える彼の自己肯定感を支えていた。
ヒロシからの承認と優越感──それこそが、トシアキの心の支柱だったのだ。
ヒロシとトシアキ。
彼らは、互いの弱さを補い合う、いびつな共依存関係にあった。
支配する者と、支配されることで安定を得る者──その関係の上に成り立っていたのは、薄氷のような均衡だった。
一方、理央はまったく逆の立場にあった。ヒロシが理央に“矮小化ギャグ”を向けても、理央は明確な嫌悪感を示し、決して笑って受け入れなかった。
その反応のせいか、ヒロシは理央を面白半分に“いじる”ことは滅多になかった。
また、理央はヒロシのカリスマ性を認めつつも、絵の才能については明確なライバル心を抱いていた。
──反抗的だった理央と、従順だったトシアキ。
同じ「取り巻き」でありながら、その違いこそが、やがて「呪縛から解き放たれた者」と、「呪縛に安住した者」──その決定的な分かれ道となっていったのだ。
理央は心理学の本を読むうちに、ヒロシの行動が「反社会性パーソナリティ障害(ASPD)」と「自己愛性パーソナリティ障害(NPD)」の特徴に当てはまることに気づいた。ヒロシが他人の痛みを理解できないのは、ASPDによる共感能力の欠如が原因だった。また、特別視されたいという執着や、傷つけられると爆発する怒り(ナルシシスティックレイジ)はNPDの典型的な症状だった。
一方、トシアキがヒロシに従い続けた理由は、幼い頃から「強い者に従うのが正しい」という単純な思考パターンに縛られていたからだ。姉たちにからかわれても逆らわなかった過去と同じように、ヒロシの「漫画クラブ」で特別扱いされることで自己肯定感を得ており、理央のように支配から抜け出すことができなかったのだ。こうして理央は、長年の疑問に心理学を通じて答えを見出した。