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第8話: 虚像の崩壊

理央は中学校を卒業し、家族と共に街を離れることになった。荷物整理中、ヒロシが昔忘れていった青いプラスチックのバギーカーを見つけた時、ふと「最後のお別れ」を言いたいという衝動に駆られた。かつての親友でありながら、いじめの加害者となったヒロシとの思い出は複雑だったが、それでも理央は「ひょっとしたらヒロシも変わったかもしれない」という淡い期待を胸に、最後の再会を決意したのであった。

■ 転「最後の再会で見えた真実」


【中学卒業、そして最後の再会へ】


1984年、早春――

理央は中学校を卒業した。


その頃、父が郊外の丘に分譲住宅を購入し、一家は引っ越すことになった。


色を失ったままのこの街を離れる。 “絵を描く少年”でいられなくなった自分も、ここへ置き去りにして。


荷造りの途中、押し入れの隅から小さな玩具が転がり出た。青いプラスチックのバギーカー。


かつてヒロシが遊びに来たときに忘れていった、数百円ほどの安物だ。その瞬間、理央の胸に、やり残した何かが疼いた。


……最後にヒロシへ「お別れ」を言うべきではないか。


理不尽ないじめを受け、ようやく距離を置けた相手に、いまさらなぜ会おうとするのか。だが、心に刻まれた日々の光までは否定できなかった。


小学五年の冬、父の車で出かけた「名古屋外車ショー」と、高田みづえのステージ。

理央の家での“お泊まり会”――『鶴光のオールナイトニッポン』に腹を抱えて笑った夜。


ヒロシの狭いアパートで観た、大人びたドラマに目を丸くした夜。


将来は二人で「藤子不二雄」みたいな漫画家になろう、と無邪気に語り合ったあの日――。


あれは全部、嘘だったのか。


二年前、クラスが分かれて以来、ヒロシとは一言も言葉を交わしていない。


けれど──ヒロシだって、もう昔のままじゃないはずだ。


もしかしたら、あの頃のことを悔いていて、少しは懐かしんでもいるのかもしれない。今なら、きっと普通に話せる。


そんな淡い希望が、理央の胸にふと灯った。


**************************************************************

かつての加害者であるヒロシに “最後に会いたい” という衝動。


理央の心には、暴力と友情の記憶が結び付き、情緒的な混乱が生じていた。


理央にとって、「ヒロシの物語」は未完成であった。そしてそれを彼の中で終わらせる必要があった。


……あれから、もう二年が経ったんだ。

俺も成長した。ヒロシも、きっと成長したことだろう。


俺を虐めたことを少しは反省しているのではないか。


今なら普通に話せるのではないか。

別に、謝ってほしいわけじゃない。ただ普通に話せればそれでいい。


理央は「ヒロシは変わったはずだ」と信じることで、自らを守ろうとしていた。


ヒロシが危険な存在だと理解しながらも、心のどこかでなお「特別な関係」でありたいと願っていた。そ


れは、まるでストックホルム症候群のような、歪んだ情愛の残響だった。


**************************************************************

理央は震える指先で、ヒロシの家に電話をかけた。


受話器の向こうから聞こえてきたのは、どこか懐かしく、けれどもう他人のようにも思える声だった。


「……俺、引っ越すんだ。返したいものがあって……今から渡しに行ってもいい?」


それは、数百円ほどの安っぽいプラスチックのオモチャにすぎなかった。


普通なら捨ててしまっても不思議ではない。


だが、返すというのはただの口実だった。理央にはそれがわかっていたし、ヒロシほどの頭の切れる人間なら、その意図くらいは察しているだろう——そう思った。


もしかしたら、自分の律儀な行動を、ヒロシは少しは喜んでくれるのではないか。

そんな淡い期待が、理央の胸をかすめた。


ヒロシの住む、陽の当たらない古いアパートを訪ねるのは、約三年ぶりだった。


あの六畳一間に、かつては親子三人が肩を寄せ合って暮らしていた。


今、その軒先には、小さなプレハブが増築されていた。


ヒロシの成長に合わせて造られたのだろう。


そのささやかな変化が、理央に否応なく、時間の流れを突きつけてきた。


ヒロシは、玄関の外に立っていた。


だがそこにいたのは、かつてのヒロシとはまるで別人のようだった。


顔つきも、背丈も、声の調子さえも変わっていた。背は伸び、声は太く低くなり、顔には思春期特有のニキビが浮かんでいた。


そしてそのすぐ隣には、もうひとつの影――トシアキがいた。


ヒロシの取り巻きの中で、最後まで彼のそばに残っていた男。


何を言えばいいのか、理央にはわからなかった。けれど手にしていた“あの”おもちゃが、口を開かせた。


「俺、引っ越すから ....」


その手には、ただのプラスチックのバギーカー。


だが、それは理央にとって“整理されない何か”だった。


ヒロシはそのおもちゃを一瞥し、無言で受け取ると、ぼそりと呟いた

「……ああ、すいません。やっぱり……」


それだけだった。


彼は理央がこの玩具を返しに来ることすら、あらかじめ知っていたとでも言いたげな口ぶりだった。


「すいません」という言葉は丁寧だったが、どこか他人行儀で、理央を遠ざけるような響きを持っていた。


その視線も、感情を削ぎ落としたように冷たかった。


だが、理央の心を鋭く刺したのは、傍らに立つトシアキの視線だった。


あからさまに、見下すような目で、理央を睨みつけていた。


再会の喜びも、かつての友情の名残も、ヒロシの中にはなかった。


まるで、“過去の処理”に現れた異物を、拒絶するような態度だった。


ヒロシもトシアキも、そのまま部屋の奥へと引き返していった。


ほんの十数秒の出来事だった。


それが──最後に突きつけられた、“答え”だった。


**************************************************************

三月の曇り空が、灰色のベールのように理央の頭上に垂れ込めていた。


自転車のペダルを漕ぎながら、理央の脳裏には数分前の光景──ヒロシとトシアキとの再会──が、繰り返し巻き戻されるビデオテープのように何度も再生されていた。


……ヒロシは、俺をいじめたことを、微塵も気にかけていなかった。


理央は、不思議と冷静だった。


それは、自分の中に芽生えた新しい「人間理解」だった。中学を卒業し、二年間の時を経て、自分は確かに変わった。成長したのだ。


けれど、どうしても理解できないことが一つだけあった。


なぜヒロシは、あれほど他人の痛みに無関心でいられるのか。


理央は、もう十分「人の痛み」を理解していた。そしてふと、思い出す。自分もまた、誰かを傷つけてしまったことがあるという事実を。


ヒロシにそそのかされ、マサヒロに喧嘩を売ってしまったあの時のこと。その記憶に後悔を重ね、何度も心の中で謝罪を繰り返した。


けれど──ヒロシには、その「悔い」がなかった。


それが、理央には衝撃だった。あの聡明で、どこか達観していたヒロシが、こんなにも未熟なままであるということが。


理央の胸の奥で、静かな確信が芽吹いていた。


もう二度と、ヒロシに会うことはない。そして、今の自分の方が確実に成長している。


**************************************************************

理央は、小学生時代、ヒロシが自分に苛立ちをぶつけてきた場面を思い出した。


──イジイジ……イジイジしやがって!


理央の生まれつきの女性的な性格。


それさえも、ヒロシにとって憎悪の対象だった。


もっとも、ヒロシの怒りの矛先は、そのときどきの気分次第で変わった。


だが決定的だったのは、彼の心が、歪んだプライドと他者への憎しみで埋め尽くされていたということだった。


理央には、その心理がどうしても理解できなかった。


そして今、再びヒロシの「心の声」が、頭の中で再生される——。


……理央のやつ、やっぱり来たな。

こういうときは、律儀に現れると思ってたよ。

「引っ越すから、忘れたオモチャを返したい」?

笑わせる。そんなもん、郵送でも捨てるでもできるだろ。

要は、おまえの中で、なにかにケリをつけたかったんだ。

それともまた、俺たちの“仲間”に戻りたかったのか?

きれいに終わらせたい? いい思い出にしたい? 仲直りしたい?

……勝手に去っておいて、どれだけ都合がいいんだよ。

でも──悪くない。


昔のガラクタを握りしめて現れたおまえを見てると、自然とこっちが“上”に立ってる気がする。

おまえは、まだ俺を「特別」だと思ってる。悪くない感覚だ。

理央、おまえの存在は、正直ムカつく。

ピアノもスイミングもやってて、顔も女みたいで……

性格まで女みたいに“イジイジ”しやがって……

そういうのが、昔から、ほんとにムカつくんだよ。

だったら、俺にもやり方がある。

俺は“ひとり”では来ない。

あの頃と同じだ。俺の隣には、今もトシアキがいる。

見せてやるよ。

俺はまだ“勝ってる”。

おまえが失ったものを、俺はまだ持ってる。

おまえを仲間に入れる気なんて、最初からない。

トシアキにも、そう言ってある。

あの頃の“力関係”を、そのまま再現してやる。

なあ、理央。

最後に“選ぶ側”は、いつだって──俺だ。

おまえじゃない。


──それは、「最後の再会」を終えた理央が分析した、ヒロシの「心の声」だった。


**************************************************************

ヒロシは、無表情のまま「……ああ、すみません」と、極めて他人行儀な口調で応じた。


その冷ややかな態度こそが、彼の本心──理央を明確に拒絶している意志──を雄弁に物語っていた。


そして、決定的だったのはその隣にいたトシアキの存在だった。


まるで“忠実な従者”のように、ヒロシの一歩うしろをついてくるトシアキ。


だが、理央に対して向けられたその目は、あからさまに軽蔑と優越感に満ちていた。

その瞬間、理央は悟った。


──ヒロシは、再会の前からトシアキを“洗脳”していたのだ。


それは、理央が小学生の頃──嫌というほど見せつけられてきた、ヒロシにしかできない「恐ろしい才能」だった。


それは、まるで「自分はいまだに影響力を持っている」と示すための儀式のようだった。


アドラー心理学で言うなら──劣等感から来る「優越性の誇示」。


一対一の対話では崩れてしまう自尊心を、「味方の存在」という外付けの自我で補い、かろうじて保とうとしていたのだ。それが、ヒロシなりの“最後の勝ち方”だったのだろう。


だが、本当に重要なのは、ただひとつのことだった。


──ヒロシは、まったく変わっていなかった。


頭のいい彼が、この二年という歳月を経てもなお、人間として一歩も前に進んでいなかった。


そのことに、理央はようやく気づいたのだ。


ヒロシという人間には、おそらく最初から、どこか決定的に「欠けていた」ものがあったのか.....


根本的な、精神構造の歪みか何かが.....


ヒロシの隣にいたのは、結局、あの頃と同じ“トシアキ”だけだった。


新しい誰かと繋がることもなく、ただ、手慣れた“最後の駒”にしがみついていただけだった。


それは理央にとって、「ヒロシという虚像」が音もなく崩れ落ちる瞬間だった。

再会を通じて理央は決定的な事実に気づいた - ヒロシは他人の痛みを理解できないまま、未熟な存在で留まっている。一方で自分は確かに成長している。曇り空の下を自転車で走りながら、理央は「今の自分の方が確実に成長している」と確信し、もう二度と会う必要がないと悟った。

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