第7話: 悪魔の後継者、そして解放の春
かつてのクラス人気者だったヒロシは、理央を執拗に貶めることでしか自尊心を保てない惨めな存在へと凋落し、一方で理央はヒロシの陰湿ないじめと異常な美術教師・諏訪男の虐待によって、唯一の才能であった絵を描く情熱さえも失ってしまう。
理央がヒロシと距離を取ろうとすればするほど、ヒロシの嫌がらせは執拗さを増し、次第に露骨になっていった。
ある日の体育──剣道の授業では、理央の防具の紐が、きれいにほどけていた。
授業が終わった後、ヒロシは怒ったような顔で言い放った。
「理央が、サボりたくてわざと紐ほどきやがった!!」
理央には信じられなかった。
本気でそう思っているのか?
それとも、意図的に自分を貶めようとしているのか?
……どちらにせよ、ヒロシが一人で怒り狂っている姿は、理央にとって恐怖でしかなかった。
一体、自分が彼に何をしたというのか──。
さらに別の日の昼休み。
教室の隅から、ヒロシの声が響いた。
「おーい、理央がさ、国語辞典で“パン●ィ”って調べてたぞー!」
──たまたま、開いていたページに載っていただけかもしれない。
だが、それは“からかい”の範囲を明らかに超えていた。
誰がどう見ても、**「いじめ」**だった。
幸いにも、ヒロシの“情報工作”は、その場では空振りに終わった。
小学校の頃のように、誰も彼に同調する者はいなかった。
だが──それでも、ヒロシの「戦術」は、じわじわと効果を上げつつあった。
ある日の昼休み。漫画を貸すと約束していたクラスメイト、山田が、唐突に言った。
「……やっぱ、やめとくわ」
声はどこか、うしろめたそうで、目を合わせようとしなかった。
理央はすぐに察した。
……ヒロシの仕業だ。あいつが裏で、また何か……俺の悪評を流したんだ。
そうして理央の心は、静かに、確実に、壊されていった。
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【美術教師・長野諏訪男:理央を襲う新たな受難】
理央の苦しみにさらに追い打ちをかける人物がいた。
美術教師・長野諏訪男——後に生徒への心理的虐待、教育的権限の濫用、準強制わいせつ行為で新聞沙汰となる“伝説の教師”である。
彼の名は全校に知れ渡り、恐怖と嘲笑を込めて囁かれていた。
その異常な支配は、入学直後の最初の授業から始まった。「準備不足」という理不尽な理由で新入生全員を机の上に正座させ、恐怖で絶対服従を強要。
その後、美術の授業と称して体操着の着用を強制し、女子生徒を「モデル」に指名した。
「……この膨らみが……」と呟きながら、「人体の造形美を学ぶ」という名目で、ブルマ姿の女生徒の身体に執拗に触れる。
——その行為はやがて日常化し、モデルにされた女生徒のうち、涙を浮かべる者さえいた。
しかし、これほどの問題行為が公然と行われながら、他の教師たちは頑なに沈黙し、学校側も見て見ぬふりを決め込んでいた。
1980年代前半——管理教育の最盛期。日本の中でも、名古屋は特に厳しい地域として知られていた時代である。
ある日、理央は画材を忘れ、「取りに帰らせてほしい」と申し出た。
「帰る?……準備を怠ったうえに、授業の時間を“私物化”しようというのか!」
その声が、美術準備室の空気を一気に凍りつかせた。
あの時の判断は、恐怖から逃れようとしたがゆえの、浅はかな選択だった。だが理央にとって、それは「取り返しのつかない失敗」となった。
その日を境に、諏訪男は理央をあからさまに標的とした。
授業中、理央の作品をわざわざ取り上げ、クラス全員の前で罵倒する──そんな“公開処刑”が、繰り返されるようになったのだ。
理央にとって、美術は唯一の得意分野だった。絵を描くことは、自分自身の存在をかろうじてつなぎとめてくれる、最後の砦だった。
だからこそ、その砦を破壊するように罵声を浴びせられることは、彼にとって耐え難い苦痛だった。
普通の教師であれば、一人の生徒の作品を全体の前で貶めるようなことをするだろうか?
その異様な光景は、無抵抗な自分をいたぶり続けたヒロシの姿と、どこか重なって見えた。
──そして、その一方で。
ヒロシはというと、諏訪男に名指しで「石川……」と呼ばれ、作品を褒められていた。
ここでもまた、ヒロシは「完全勝利」を収めていたのだ。
理央は、公衆の面前で侮辱される一方、ヒロシは“優等生”として認められる。
その差が、どれほど彼を喜ばせたか──想像に難くない。
その光景は、理央の目には、まるで「悪魔が後継者に王冠を授ける儀式」のように映った。
ヒロシは選ばれたのだ。諏訪男というもうひとりの支配者に。
──そして理央は、またしても切り捨てられた。
中学一年の間、理央はヒロシからの執拗ないじめに耐え続けていた。
唯一の得意分野だった「絵」さえも、諏訪男――後に新聞沙汰となる“伝説の教師”によって、心ごと破壊されてしまった。
それ以降、理央はしだいに「絵」への情熱を失っていった。理由ははっきりとは分からなかった。ただ、絵を描こうとすると、どこかでヒロシや諏訪男の姿がちらつく気がした。
絵を描くことが、彼らとどこかでつながっているような気がしてならなかったのだ。
あの重苦しい日々を、理央がなんとか生き延びることができたのは――
二年生になればクラス替えがある、という、わずかな希望の灯が心の奥にともっていたからだった。
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そして迎えた、1982年の春。
掲示板に貼り出された新しいクラス名簿を、理央は震える指先でなぞった。
一文字ずつ、ゆっくりと──そして、確認するように。
……ヒロシの名前が、ない。
その瞬間、胸の奥にずっと刺さっていた棘が、音もなく抜け落ちた気がした。
それは、ようやく訪れた彼自身の「春」だった。
クラス替えによって、ようやくヒロシの呪縛から解き放たれた──はずだった。
けれど理央はその後も、ヒロシの「影」に怯え続けていた。
理央とヒロシは、同じ通学路を使っていた。
いつどこで鉢合わせするか分からない──その不安が、理央の背中に常に貼りついていた。
校門付近の人混み、曲がり角の死角……理央はいつも周囲に目を配り、ヒロシの姿を探しては避けた。
時おり、下校途中にヒロシの姿を見かけることがあった。
そのたびに理央は、物音を立てぬよう静かに歩みを逸らし、遠回りを選んだ。もうヒロシには関わりたくなかったのだ。
そんな時、ヒロシも、理央の存在に気づいていたのかもしれない。だがヒロシは、一瞥もくれずに歩き去った。ただの空気のように、無視する──そんな態度にも見えた。
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下校途中のヒロシは、いつも野田トシアキと一緒だった。
トシアキは、かつての理央と同じように、ヒロシの“グループ”の一員であり、忠実な下僕であったが、ヒロシに嫌気がさして離れていった理央とは違い、未だにヒロシと一緒だった。
一方の理央には、水泳部などを通じて、すでに新しい友人たちが何人もできていた。そのことに、理央はふと、浅ましい優越感を覚えた。
……ヒロシは未だにトシアキと一緒にいる。
あの自己中心的な性格では、新しい友人など簡単にできないのだろう。
けれど──その頃からだった。かつて唯一の情熱であり、唯一の自信でもあった「絵を描くこと」への熱意を、理央は失っていった。
その理由は、自分でもはっきりとは分からなかった。
ただ、ヒロシと諏訪男によって自己肯定感を根こそぎ奪われた時期と重なっていたことから──それが原因なのだろうと、理央はぼんやりと考えていた。
クラス替えで物理的にヒロシから離れられたとしても、理央の心に刻まれた深い傷は癒えることなく、未だにヒロシの影に怯え続けるという「解放」の虚しさだけが残されたのであった。