第6話: 支配者の黄昏
かつて「親友」と呼ばれたヒロシは、今や理央にとって「恐怖の化身」と化していた。理央はヒロシの理不尽な支配から身を守るため、まるで仮面のように「偽りの笑顔」を貼り付けていた。
しかし思春期を迎え、かつてクラスの人気を独占していたヒロシの下品なギャグは、クラスメイトたちから次第に敬遠されていく。一方、理央の持つ中性的な特徴が一部から注目を集めていた。この逆転現象が、ヒロシの歪んだ自尊心をさらに刺激していた。
理央にとって、ヒロシはもはや「親友」ではなかった。
その姿は、すでに「恐怖の対象」へと変わり果てていた。
本来ならば、理不尽な力には立ち向かうべきだった。
だが理央には、その気力も勇気もなかった。
せめて波風を立てないようにと、彼はいつも「偽りの笑顔」をまとい、ヒロシに接していた。
そんな日々のなか、理央のすぐ背後に座るのが、副委員長の桃子だった。
バレーボール部に所属し、明るく快活な性格。
まるで校庭に降り注ぐ陽射しのような笑顔を持つ少女だった。
だが、不思議なことに──桃子は、理央にだけ特別に優しかった。
……どうして、俺なんかに?
絵を描くこと以外に何の取り柄もない。
体育も苦手で、いつも教室の隅にいるような、自他ともに認める“陰キャ”。
そんな自分に、桃子が優しくする理由など、あるはずがない。
──ただ、一つだけ、心当たりがあった。
あれは、ある放課後のこと。
水泳部が校庭で陸上トレーニングをしているその傍らで、バレーボール部の三年生たちが、ふと立ち止まった。
「正木くん〜、かわいい!」
黄色い声が響いた。
理央にとっては、ただただ気恥ずかしく、戸惑うばかりの出来事だった。
当時、理央はなぜか、上級生の女子たちに人気があった。
彼女たちは、理央のことを“陰キャ”とは知らなかったのだろう。
むしろ、その中性的な顔立ちや繊細な雰囲気が、一部の女子たちの「母性本能」を刺激したようだった。
……あのとき、桃子もあの場にいたのだろうか?
もし、あの声を聞いていたのだとしたら……
まさか、先輩たちの影響を受けた……?
でなければ、俺なんかに……。
理央は、いつものように、悲観的な「分析」に逃げ込もうとした。
無理やり、自分を矮小化するほうが、気持ちは楽だった。
けれど──もう、分かっていた。
自分は、桃子に惹かれている。 その気持ちを否定することなど、とうにできなくなっていた。
理央は、単純な少年だった。 自己肯定感の低い彼には、優等生タイプの子に対する憧れがどこかにあった。
なにより──自分を肯定的な目で見てくれる人への想いは、彼にとって抗えないほど大きなものだった。
だからこそ、桃子の優しさが、心に刺さるように沁みていた。
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ある日、クラスメイトのひとりが、にやにやと笑いながら言った。
「おい理央、お前……三年の女子の間でファンクラブできとるらしいぞ」
冗談めかしたその一言に、理央は戸惑いながらも、ほんの少し、嬉しさを覚えてしまう。
頬の奥がくすぐったくなるような、そんな気持ちだった。
だが──気づけば、隣に座るヒロシの背中に、視線が吸い寄せられていた。
俯いたまま、微動だにしないヒロシ。
その沈黙が、理央には何よりも恐ろしかった。
──面白くない、という気配が、言葉よりもはっきりと伝わってきた。
理央は知っていた。
自分への賞賛や注目は、ヒロシの怒りの“導火線”となる。
「合唱コンクール」以来、それは理央の中に深く刻まれた教訓だった。
褒められるたびに感じる不安。
浮かび上がった自分を見て、ヒロシが引き起こす無言の圧。
──また、逆恨みされるのではないか。
心に、そんな暗い予感がよぎる。
だがこの頃、ふたりの関係には、ある**“逆転現象”**が起きつつあった。
かつて理央は、「女みたい」と嘲笑される存在だった。
色白で、華奢で、おとなしく──野球もプロレスも苦手な“女々しいやつ”。
そうやって笑われ続けた小学生時代。
けれど中学に上がる頃、その「中性的な容姿」は、皮肉なことに“武器”となりはじめていた。
「女みたい」が「可愛い」へと変わり、ごく一部の女子たちの視線が、理央に向けられるようになった。
…….一方で、ヒロシはどうだったか。
かつてクラスの人気者だった彼のギャグや替え歌は、下ネタや汚物ネタで彩られていた。
「悲惨な最期を迎える主人公」が定番の彼の漫画は、無邪気な笑いを誘っていた。
しかし、思春期に差しかかる頃には、それらは次第にウケなくなり、むしろ“ドン引き”されるようになっていった。
──そして、皮肉なタイミングで、起きた。
かつてヒロシの“引き立て役”だった理央が、「可愛い」と言われる存在へと変わりはじめた。
その現実は、ヒロシにとって耐えがたいものだった。
理央は、自分の優越感を支える“土台”だった。
その「劣った者」が、今や女子の注目を集めている──。
それは、ヒロシのなかに築かれていた世界の“秩序”を、根底から揺るがした。
それはまさに、**自己愛損傷(Narcissistic injury)**だった。
かつては自分の虚栄心を照らす“背景”だった理央が、今では、自分の劣等感を映し返す“鏡”となって立ちはだかる。
この転倒は、ヒロシの自己像に、深く、静かにヒビを入れていった。
そして──ある日。
ヒロシのその苛立ちを、象徴するような出来事が、ついに起こる。
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ある日、回覧中のクラス日誌の一ページに、理央はふと目を留めた。
そこには、桃子に向けた呪詛のような言葉が、ページを埋め尽くすようにびっしりと書き連ねられていた。
「バ@ア#ブ%サ&%&!?◇■○%ブ%サ&ク&!▲◇?※カ@!△%!く△ソが*◆%◎!」
意味をなさぬ罵詈雑言の奔流──けれど、そこには明確な悪意があった。
言葉はまるで、正気を失った誰かが呪詛を撒き散らすように、熱をもって塗りこめられていた。
書いたのは、ヒロシだった。
きっかけは、あまりにも些細なことだった。
この日誌は、「クラスメイトの様子を観察して記す」という課題のもと、生徒が順番に書き継いでいるものだった。
──まるで、生徒同士に監視と密告を強いるような、当時の管理教育を象徴するような課題。
理央は、ヒロシが自分のことをどう書くかが気になっていた。
だから、日誌が自分のもとへ回ってくるまでのあいだ、無意識に背筋を伸ばし、キリッとした表情を作っていた。
──だが、ヒロシが記したのは、たった一行。
「理央は、ぼーっとしている。」
それだけだった。だがその短い一言のなかに、ヒロシ特有の冷笑と、じんわりと滲む侮蔑が、はっきりと宿っていた。他人を評価することにおいて、ヒロシの鋭さと意地の悪さは、ある種の才能と呼ぶべきものだった。
しかし──今回の問題は、理央ではなく、桃子だった。
桃子は、こう書いていた。
「(理央くんは)いつもくしゃみをしている。性格かな?」
理央は鼻炎持ちで、確かによくくしゃみをしていた。
それはただの観察に過ぎない。けれど、そこには悪意はなく、むしろどこか微笑ましさすら感じられた。
それだけのことなのに──理央は、心のどこかで温かさを感じていた。
自分の存在を、否定せず、そのままの姿として受け止めてくれる目線が、そこにあったからだ。
桃子は、ヒロシのことについてはこう書いていた。
「(ヒロシくんは)とろいことばかり。」
おそらく、小学生の頃と変わらず、ふざけて周囲の笑いを取ろうとするヒロシの様子を、冷静に観察した一言だったのだろう。
けれど、その言葉は──ヒロシのなかで、ある“スイッチ”を押してしまった。
日誌の次のページ。
そこには、桃子を罵倒する言葉が、まるで呪いの儀式のように、執拗に、汚濁の墨で塗りこめられていた。
言葉は意味を喪失しながらも、怒りと憎しみの圧だけを孕んで、見た者に生理的な嫌悪を呼び起こすようだった。
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理央の胸には、もはやヒロシへの尊敬など、ひとかけらも残っていなかった。
ほんの些細な指摘にも、過剰に反応し、怒りを憎しみに変えて相手を追い詰めていく──
そんなヒロシの姿を、理央は小学生の頃から幾度となく見てきたのだ。
けれど、桃子は違った。
罵倒された本人であるにもかかわらず、彼女は怒りもせず、涙も見せなかった。
ただ、呆れたような表情でヒロシを見ていた。
その視線は、まるで──
かんしゃくを起こして暴れる幼子を、遠巻きに見つめる大人のようだった。
理央は、そんな桃子の「動じなさ」を目の当たりにしながら、ヒロシの攻撃に毎回怯えて心をすり減らす、自分自身と比較していた。
そして気づく──桃子への感情は、もはや恋心を超え、敬意に近いものに変わりつつあるのだと。
「どんな批判も許さない」ヒロシの歪んだプライドも、桃子の前ではただ、未熟な自意識の空回りにしか見えなかった。
その瞬間、理央の目に映るヒロシは、「恐怖の対象」であると同時に、どこか子どもっぽくて、そして──哀れな存在でもあった。
ヒロシは桃子の日誌に書かれた「とろいことばかり」という率直な評価に激怒した。感情のままにページを罵詈雑言で埋め尽くす彼の姿は、異常な執念と怒りを露呈していた。しかし桃子はただ冷静に見つめ返すだけで、ヒロシの子どもじみた未熟さを浮き彫りにした。
二人の対照的な反応は、その本質の違いを如実に物語っていた。ヒロシは他者を貶めることでしか自尊心を維持できず、一方の桃子は他人の評価に振り回されない、真に成熟した精神の持ち主だった。理央の目には、ヒロシの狂乱と桃子の落ち着きが、少年と大人の違いのように映った。