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第5話: かつての親友が「恐怖の対象」に

1981年春、理央は中学入学と同時に再びヒロシと同じクラスになるという不運に見舞われた。音楽の授業で『エリーゼのために』を披露した理央は、かつてヒロシが女子生徒の演奏に感嘆したのとは対照的に、無言の怒りで応じられる。この時、理央は人生で初めて「嫉妬される」という経験をした。


事態は合唱コンクールの伴奏者選びで決定的になる。クラスメイトが理央を推薦すると、ヒロシは即座に別の生徒を推挙し、教室を支配するような圧力で理央を引きずり下ろした。理央はその瞬間、かつての親友の目に宿る異様な怒りに戦慄を覚える。彼にはまだ、ヒロシの怒りが「自己愛的憤怒」と呼ばれる心理現象であることが理解できなかった。

■ 承「親友から恐怖の対象へ」


【八事山中学校:まさかのクラスメイト】


1981年、春──

八事山中学校は、一学年に八つのクラスがある。


理央は、ヒロシとは別のクラスになるだろうと、密かに期待していた。


入学式の日。掲示板に貼り出されたクラス分けの名簿を見つめた瞬間、理央は自分の目を疑った。


──「1年D組・石川ヒロシ…… 正木理央」


また、同じクラスだった。


ヒロシの取り巻きたちは、四方のクラスへと散っていった。


にもかかわらず、よりによって自分だけが、ヒロシと同じクラスだった。


……なんで……またヒロシと一緒なんだ……。


トシアキたちはみんな別々になったのに。

よりによって、俺だけが──。


**************************************************************************

中学に入ったら、運動部に入ろう──。

理央は、そう心に決めていた。


小柄な自分も、運動すれば少しは身長が伸びるかもしれない。

そんな、ささやかな期待からだった。


それは、理央の「変わりたい」という願いが生んだ、ある意味「無謀な挑戦」だった。


もっとも、本当は運動より先に、きちんと食べることのほうが先だったのだ。


当時の理央は、ヒロシへのストレスのせいか、すっかり食欲を失い、少食になっていたのだ。


運動部に入りたい気持ちはあったが、理央の心は揺れていた。


ピアノを習っていたこともあり、音楽の世界──吹奏楽部にも強く惹かれていたからだ。


理央は、吹奏楽部を選ぶべきだった。


運動が得意ではない彼にとって、運動部はむしろ、自己肯定感をすり減らす場所だった。


だが、そんな助言をしてくれる大人は、当時の彼のまわりには誰ひとりいなかった。

球技が苦手だった理央は、消去法で「水泳部」を選んだ。


それに、新しい仲間を得て、ヒロシの支配から抜け出したい──そんな思いも、心のどこかにあったのだった。


**************************************************************************

中学に入って間もなく、クラス音楽会が開かれた。


理央は『エリーゼのために』を演奏した。


当時、男子がピアノを弾くのは珍しかったが、演奏が終わると自然に拍手が起こった。


その音に包まれながら、理央は少しだけ誇らしげに微笑んだ。


ふと、数ヶ月前の小学校の音楽室の記憶がよみがえった。


女子の真理子が同じ曲を弾き、ヒロシはそれを手放しで称賛していた。


「俺だって弾けるよ」と言った理央の言葉は、まるで聞こえなかったかのように無視された──あのときのこと。


……どうだ。これで口だけじゃないって、わかっただろ?


そう思いながら、理央はそっとヒロシに目をやった。


だが、ヒロシはうつむいたまま、ひと言も発しなかった。


怒りを押し殺すような表情で──。


……なぜ黙っている? なぜ怒っている?


理央には、それがわからなかった。


てっきり真理子のときと同じように、褒められるものだと思っていたのだから。


理央は、そのときヒロシが怒っている理由が分からなかった。


彼はこれまで、誰かに嫉妬されるという経験をしたことがなかったからだ。


理央の望みは、ヒロシの“下僕”になることではなかった。


本当は、対等な関係を築きたかった。


だからこそ──ヒロシに「認めてもらいたい」という気持ちが、心のどこかにあった。


だから、今日の演奏のあと、彼の反応が気になって仕方がなかった。


一方のヒロシは、かつて自分の影にいた理央が、少しずつ離れていく気配を、どこかで感じ取っていた。


そして今日──理央は、ヒロシにはできない「ピアノ」を、人前で堂々と弾いてみせた。


ヒロシには、それが「自分を超えて輝こうとする裏切り」のように映った。


しかも理央は、演奏のあと、自分の承認を求めるかのようにヒロシの方を見た。

──それはヒロシにとって、耐えがたい“反抗”だった。


こうした怒りは、心理学では「自己愛的憤怒(narcissistic rage)」と呼ばれる。


──自分の優越や支配が脅かされたときに生じる、激しくも理不尽な怒りである。


数日後、クラスで合唱コンクールの指揮者と伴奏者を決めることになった。


真っ先に手を挙げたのは、理央をよく知る男子・真野くんだった。


「正木(理央)くん!」

その直後──ヒロシが大きな声で叫んだ。


「太田くん!」

教室が、ぴたりと静まり返った。


太田くんもピアノは弾ける。だが、伴奏を任せるには明らかに力不足だった。

それはクラスの誰もがわかっていた。


それでも、ヒロシの声には、そんな理屈を押しのけるほどの感情が滲んでいた。

理央は衝撃を受けた。


……ヒロシが、自分への推薦を阻止した。まるで、引きずり下ろすように。

なぜ──?


そのとき、理央の脳裏によみがえったのは、数日前の音楽会の光景だった。


ピアノ演奏のあと、無言でうつむいていたヒロシの姿。


……ああ、そうか。これが「嫉妬」だったんだ。


ヒロシは、理央に向けられる拍手や称賛が、どうしても許せなかったのだ。


これまで、ヒロシは理央にとって──支配的ではあっても、“仲間”だった。


けれどこの瞬間、彼は理央にとって初めて、“敵”に変わった。


それも、人を支配する──恐怖の対象として。


**************************************************************************

ヒロシの放つ空気は、教室中に伝わっていた。

だが、誰も反論しなかった。


まるで彼の怒りに火を注ぐことを、みんなが本能的に避けているかのようだった。


──これは典型的な、集団同調圧力だった。

思春期の子どもたちは、「空気」や「力関係」にとても敏感だ。


ヒロシのような“強い存在”に逆らえば、次は自分が標的になるかもしれない。

そんな**予期不安(anticipatory anxiety)**が、教室を静かに支配していた。


やがて多数決がとられた。


「太田くん」と名前が呼ばれると、ヒロシが真っ先に手を挙げた。


それに続いて、ぽつぽつと数人の男子が手を挙げた。


太田くんはスポーツが得意で、いわば「クラスの序列」では理央より“上”だった。

だがピアノの腕は、明らかに理央に及ばなかった。


──この年頃では、ピアノの実力よりも、「序列」のほうが重要なのだ。


続いて、理央の名前が呼ばれた。


手を挙げたのは、最初に推薦してくれた真野くん、ただひとりだった。


こうして、伴奏者は「一旦」太田くんに決まった。


理央は、そもそも伴奏をやりたかったわけではなかった。


だから、落選そのものに落胆はなかった。


だが──あの瞬間、ヒロシの敵意が皆の前で露わになり、自分が「標的」になったことが、何よりも怖かった。


教室は、ヒロシの怒りに、静かに、完全に飲み込まれていた。


**************************************************************************

残されたのは、指揮者の選出だった。


教室には重たい沈黙が垂れ込めていた。


誰も立候補しない。誰も他人を推薦しない。


その沈黙のなかで、誰かがぽつりとつぶやいた。


「……石川くん(もう、ヒロシでいいんじゃない?)」


そのひと言は、“怒っている影響力のある存在”をなだめるための、ある種の合意だった。


教室に流れていたのは、ヒロシの情緒を鎮めることを優先する、いわば集団による“情緒的な共依存(emotional co-dependence)”だった。


発達心理学的に見れば、それは典型的な権威への服従にほかならない。


思春期──まだ自己の価値観が確立していない子どもたちは、「強い個人に従うこと」を、安全策として本能的に選びとってしまう。


たとえそれが、理不尽であると心のどこかで感じていたとしても──。


そして、その空気の中で、ヒロシは“選ばれていった”。


何も言わず、静かに席に腰を下ろすヒロシ。


その表情に大きな変化はなかったが、どこか満足げな気配が、肌で感じ取れた。


──この瞬間、ヒロシは「教室」という小さな共同体のなかで、カーストの上位に立った。


一方、ヒロシの怒気に晒され、声を失った理央は、まるで“いじめられっ子”のように、カーストの最下層へと転落していった。


**************************************************************************

ヒロシの推薦で、伴奏に選ばれた太田くんは、予想どおりだった。


ピアノの前に座ったまま、一音たりとも弾けなかったのだ。

だが本人は、どこか他人事のようにケロッとしていた。


恥じらう様子もなく、むしろ椅子に座っているだけで満足しているかのようだった。


彼はスポーツが得意で、“クラス内の序列”では理央より明らかに上だった。


その“余裕”が、むしろ周囲に受け入れられていた。


教室に漂う微妙な沈黙のなかで、女子のひとりがぽつりとつぶやいた。


「岡崎さんは?」


結局、ピアノ伴奏は、先日の音楽会で華麗な腕前を披露した女子──岡崎さんに落ち着いた。


しかし、それでよかったのだ。むしろ、ヒロシにとっては理想的な結末だった。


この一件で、ヒロシは複数の“勝利”を同時に手にしていた。


理央を、目立つ役目から引きずり下ろした。

理央が“歯向かえない存在”であることを、クラス全体に知らしめた。

教室の空気を、自分の支配下へと引き寄せた。

そして、自ら立候補することなく、「指揮者」という栄誉ある役割を手に入れた。


──それはまさに、ヒロシの“完全勝利”だった。


合唱コンクールの指揮者とは、音楽的な才能よりも、“壇上で皆の視線を集める力”が求められる。


たとえ腕を振るだけでも、それなりに指揮者らしくは見える。


だが、その場にふさわしいのは、「一目置かれる者」だけだ。


それはまさに、ヒロシのような少年が自己の優越性を誇示するには、最良の舞台だった。


その場を牛耳る執念。虚栄心。空気を読み、操作する力。


この一件で、ヒロシの本性は、ついに決定的に露わになった。


一方、理央の心には──ただ、ヒロシへの恐怖だけが残された。


かつて「親友」だったヒロシは、この瞬間から、「敵」となった。


ふたりの少年のあいだに走った亀裂は、──もう、決して修復されることはなかった。

理央はこの日を境に、ヒロシを「親友」から「恐怖の対象」と認識するようになる。ヒロシの支配手法は典型的な「予期不安」を利用したもので、クラスメイト全員が暗黙の共犯者となっていた。一方で、この屈辱が後の自立への原動力となるという皮肉──理央の苦悩はまだ始まったばかりだった。

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