第11話: 広大な空の下で
理央の思春期は、心を深く傷つけられスクールカーストの最下層にまで追いやられた苦悩の日々だった。しかし彼は「変わりたい」という強い意志を決して失わず、一歩ずつ前進し続けた。その粘り強い歩みは、やがて彼自身も予想しなかった形で実を結び、失われた青春を少しずつ取り戻していくことになる。
やはり、あの諏訪男は「まともな人間」ではなかった。
彼がついに裁かれたことは、理央にとってささやかな救いだった。
──もっと早く、裁かれていれば。
そんな思いが脈を打ち、やがて静かに胸の奥へと沈んでいく。
諏訪男とヒロシ──理央の目には、彼らはまるで「親子」に見えていた。
一人は、大人の仮面を被った狡猾な支配者。
もう一人は、子どもの皮をまとった冷笑的な後継者。
支配者は、実名入りで新聞に告発された。
だが、その「後継者」であるヒロシが、その後どんな人生を歩んだのか、理央は知らない。
理央がバイクで風を切っていたころ、ヒロシはまだ、小学生時代の自転車に乗っていた。
──あの少年は、今どんな大人になっているのだろう。
頭の回る彼のことだ、小賢しく世の波を渡っているのかもしれない。
けれど──
自分を顧みることなく、他人の痛みを理解せず、他者を矮小化し憎悪へと塗り替えるような人間は、やがて誰からも必要とされなくなる。
彼もいつか、どこかで、必ず報いを受けるだろう。
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思えば、理央の中学・高校時代は、人生でもっとも辛く、もっとも長い季節だった。
唯一の拠りどころだった「絵」への情熱も、とうに失われていた。
クラス写真も卒業アルバムも──あの頃を思い出させるものは、すべて処分してしまっていた。
彼の“女性性”は、長いあいだ彼を苦しめ続けた。
小学生のころから「女みたいな奴」とからかわれ、ヒロシには「イジイジしやがって」と一方的な憎しみを向けられ、それを虐めの理由にされた。
自己肯定感は完全に破壊され、心の奥まで冷たい泥に沈んでいった。
理央は中学時代、一部の女子から「かわいい」と言われたこともあったが、同時に一部の男子から「迫られる」こともあった。
「理央...かわいいね……」「食べてしまいたい」
顔を寄せられ、唇を奪われそうになったことが、何度かあった。
ふざけ半分の子もいれば、無言で体を触ってくる子もいた。
特に後者は、少し気味が悪かった。
理央はその度に"男らしく"「やめろ」と撃退した。
そうすればしばらくは近寄ってこない。しかし、忘れた頃にまた同じことが繰り返されるのだった。
当時の理央には、彼らの行動が理解できなかった。
ただの悪ふざけなのか、それとも自分を「女子に見立てた練習台」にされているのか──。
どこか馬鹿にされているようで、屈辱的だった。
あの頃の理央は、男が男に対して『そうした感情』を抱くことがあるなど、夢にも思わなかった。
しかし、大人しく中性的な見た目、弱々しく無抵抗な雰囲気……
そんな彼の特徴は、彼らにとって格好の「興味の対象」だったのだろう。
もし理央が“普通”の少年だったら、激しい嫌悪と怒りを覚えたはずだ。
だが当時の理央は、同性からの性的な嫌がらせでさえ、 「自分に興味を持ってくれるだけマシなのかもしれない」と感じてしまうほど、深い劣等感に囚われていた。
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理央は高校を卒業すると、長いトンネルのような管理教育の「支配」から解き放たれ、初めて「自由」を手にした。
まずガソリンスタンドでアルバイトを始め、次に──それまで校則で禁止されていたパーマをかけた。
「僕ちん、いい男になったがね〜」
バイト先の主婦にそう言われた時、理央は「またか」とうんざりした。「僕ちん」と呼ばれ、子ども扱いされるのが屈辱的だったのだ。
ある日、年上のバイト仲間の車から、胸の奥を震わせるような幻想的な音楽が流れてきた。
テレビやラジオで聴くありきたりな曲とはまるで違う、高揚感に満ち、心臓と共鳴するような音。DJがテンポを上げ、音を重ね、聞いたことのない曲へと変化していく──
それは営業中のディスコで録音されたライブテープだった。
非日常的で洗練された、きらめくようなその音楽に、理央は強く引き込まれた。
──ディスコってどんな場所なんだろう? どんな服装で行けばいいんだろう?
年上の仲間の話を聞くたび、理央の好奇心は膨らんでいった。
思い切って「ディスコに行ってみたい」と打ち明けたが、返ってきたのは「まあ、そのうちな」という軽い笑いだけ。
──このダサい格好じゃ、行っても浮くだけだ……
相変わらず垢抜けない理央だったが、ふと閃いた。
──ディスコでバイトすればいい。制服を着れば、みんなと同じになれる。
変わりたかった。中高時代の忌まわしい「亡霊」を振り払うように、理央はディスコのバイトに応募した。
──嫌ならすぐやめればいい。とにかく、やってみよう。
ディスコに足を踏み入れたことすらない彼の、あまりにも無謀とも言える一歩だった。
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1987年、冬──
夜の街は、残酷なまでに正直だった。
「いやだぁ、なんであの人がボーイさんなの?」
「なんか、あの人、オジンくさくない?」
かつてスクールカーストの頂点にいたようなヤンキー風のバイトたちは、そんな少女たちの無慈悲な言葉に耐えきれず、次々と辞めていった。
一方で理央は──
スクールカースト最下層の"弱々しい陰キャ"から、どこか儚げで中性的な雰囲気を纏った少年へと変貌していた。
それは、いわば「制服の魔力」だった。
制服が彼の冴えない過去を覆い隠し、長年コンプレックスだった「女性性」を不思議な魅力へと変えた。
まるで、長いあいだ彼を苦しめてきた”女性性”という鎖が、ある日突然、光を放つ装飾品に変わったかのようだった。
──これは、運命が仕組んだ“化学変化”による、冗談のような「逆転劇」だった。
次々と自分に向けられる視線。
それは、かつてのような「からかい」ではなく、異性からの好意に満ちたものだった。
理央は、その突然の「地殻変動」に、ただ呆然とするしかなかった。
若者たちの欲望が交錯する夜の街。
光と影、嫉妬や噂、横恋慕、足の引っ張り合い──
誰かに標的にされ、根も葉もない噂を立てられるのは、むしろこの世界のほうが苛烈だった。
しかし、それはもう「虐め」ではなかった。
理央は、過去の体験から、その構図を理解していた。
ヒロシの巧妙な手口に比べれば、この程度の嫌がらせは幼稚にさえ思えた。
「注目されるほど嫉妬される」
──そう考えると、かえって気が楽になった。
さまざまな感情が交錯する世界で、理央は幾度も恋を経験した。涙も流し、傷つきながらも、確かに成長し、自信を取り戻していった。
そして今、思うのは、ただひとつ。
自分に自信を与え、成長させてくれた「恋の達人」たち──
あの少女たちへの、心からの感謝だけだ。
理央の「変わりたい」という願いから始まった「無謀な挑戦」は、結果的に彼の自信回復を助ける決定的な経験となった。
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季節はめぐり……
20XX年──テキサス州ダラス。
東洋人の少年ヒカルと、白人少年ルーカスが、チェスボードを挟んで真剣勝負をしていた。
静かな集中のなか、そこへ突然、ひとりの少年が割り込んだ。
そして彼は、何の前触れもなくチェスボードをぐちゃぐちゃにした。
ゲームは、そこで終わった。
ゲームを台無しにしたのは、ヒカルの友人──ピーターだった。
そして、もっと驚くべきことに、ピーターは「ある少年に命令された」と言ったのだ。
命令した少年の名はマイケル。
彼もまた、ヒカルの友人だった。
マイケルは、ヒカルとルーカスが仲良くしているのが面白くなかったのだろう。
そこで、自分の“配下”であるピーターに命じて、二人の絆を断ち切ろうとした。
──その「東洋人の少年・ヒカル」は、理央の息子だった。
そう、理央はいまや父親になっていた。
「チェスボード事件」の話を聞いたとき、理央の脳裏には、かつての記憶がよみがえった。
ヒカルとルーカスの仲に嫉妬し、部下を使って壊そうとするマイケルの姿は、まるでヒロシのようだった。
──いや、ヒロシならもっと巧妙に、誰にも気づかれないように仕掛けただろう。
「マイケルは、いい友達なの?」
理央が静かに尋ねると、ヒカルは短く「うん」と答えた。
その一言に、理央は思った。
子どもは、まだ人間の心の深層を知らない。だからこそ、自分のような大人が、見えないところでアンテナを張って、守ってやらなければいけない──と。
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理央は、海外への移住を果たしていた。
ここまで来るのは、あまりにも長い道のりだった。
小学校高学年から高校卒業までの名古屋での日々──。
管理教育の理不尽な校則、諏訪男のような教師の暴力的指導、
ヒロシという名の「友情」を装った支配。
自己肯定感は粉々に砕かれ、未来は灰色に霞んでいた。
「お前の人生はもう終わりだ」と宣告されているかのようだった。
──しかし、その抑圧された心の奥底で、確かに何かが蠢いていた。
「ここから抜け出したい」
この渇望が、理央の内に潜んでいた強烈なレジリエンスを覚醒させた。
「欠点を探しては矯正し、個性を規格に押し込む」管理社会から、
「欠点は個性と受け止め、長所を徹底的に伸ばす」自由な世界へ──
「あの頃の自分に二度と戻りたくない」
この一念が、彼を海の向こうへと駆り立てた。
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ダラス。
ニューヨークのような喧騒も、ロサンゼルスのような輝く海もない。
代わりにあるのは、地平線まで広がる草原と、炎のように熱気に満ちた街だ。
摩天楼は、炎のようにごうごうと燃え上がり、何層にも重なり合うハイウェイは、未来都市のように街中を駆け巡り、遮るもののない地平線と、その上に果てしなく広がる空が、すべてを見下ろしている。
かつての「親友」ヒロシは、過去の栄光という檻に閉じこもったままだった。
一方の理央は、嫌な記憶から逃げるように、ただ前へ、前へと進み続けた。
「変わりたい」──その切実な願いが、海の向こうへと彼を導いていた。逃げるように進んだ道が、いつしか「夢」へと繋がっていた。
「逃げるが勝ち」
──だが、本当に大切なのは、「自分自身から逃げないこと」だった。
ヒロシは他人を貶めることでしか自分を保てなかった。
理央は、弱さと向き合い、変わり続けることで、少しずつ過去から解放されていった。
頭上には果てしなく広がるテキサスの空。
胸には、長年の重荷から解き放たれたような、安堵が広がっていた。
──あの苦しみさえも、いまでは懐かしい思い出。
長く不思議な旅を振り返った理央は、美しい青春だったと、心からそう思えたのだ。
【完】