第10話: 遅すぎた裁き
199X年、二十代になった理央は海外生活から一時帰国し、友人テツヤとの会話で衝撃的なニュースを聞いた。かつての美術教師・長野諏訪男が新聞に実名で報じられたという。1980年代、諏訪男は「美術授業」と称して女生徒に性的嫌がらせを繰り返していたが、学校は問題を黙殺し続けていた。
理央の脳裏には鮮明なイメージが浮かんだ。保護者たちが学校や教育委員会に訴えても「調査します」という空虚な返答しか得られず、ついに新聞社に直接告発。記者の熱心な取材により、ついに諏訪男の悪行が公になった様子だ。校長室で新聞記事を突きつけられる諏訪男、保身に走る校長...理央は、遅すぎた正義の実現を複雑な思いで空想した。
199X年──
季節はめぐり、理央はいつしか二十代を迎えていた。
その頃、彼は名古屋を離れ、海外での生活を送っていた。
久しぶりの一時帰国。懐かしい空気のなかで、テツヤと喫茶店で語らうひととき──
その会話の中で、思いもよらぬ名前がふいに浮上した。
「おお、そうだ。美術の諏訪男……あいつ、新聞に載ったんだわ」
その一言に、理央の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
──あの中学時代。
生徒を恐怖と沈黙で支配し、「授業」の名を借りて体操服姿の女生徒たちの身体に、執拗に、そして恍惚とした手つきで触れていた、あの異常な“伝説の美術教師”.....長野諏訪男。
ついに、その名が「実名」で報じられたという。
公然と....公式に.....裁きの場へと引きずり出されたのだ。
けれど……
それは、あまりにも遅すぎる裁きだった。
1980年代後半から90年代初頭にかけて、ようやく全国で体罰や性加害に関する報道が増加し始めたという。
理央はそのとき海外にいたため、記事そのものを直接読むことはできなかった。
報道の空気を肌で感じることも、なかった。
だからこそ、彼の中で「空想」が動き出す。そう、いつものように(笑)。
【理央の空想①:「この膨らみが」→「手錠の音が響く」の巻】
理央の脳裏に浮かんだのは、まるでドラマのワンシーンのような、あまりにも現実味を帯びた空想だった。
──汗で透ける体操服の女生徒が、教壇の前で小さく震えている。
名目は「人体の造形美の学習」。だが、教室に充満するのは、張り詰めた空気と、生徒たちの無言の抗議だけだった。
少女の蒼白な顔に「ヤバい」の文字が刻まれ、下唇を噛む歯が震えている。
「……この膨らみが……」
長野諏訪男が、いつものように女生徒の胸元に手を伸ばそうとした、その瞬間──
ガタンッ!
扉が吹き飛ぶように開き、鋭い朝陽が教室を切り裂く。
「愛知県警・生活安全課です。長野諏訪男さんですね?」
地味なスーツの刑事二人組。一人は警察手帳を突き出し、もう一人は証拠品入りのビニール袋を握り締めていた。
教室は、時間が止まったように静まり返る。女生徒の肩が、かすかに震えていた。
戸口には、校長・教頭・学年主任が、借金取りに出くわしたサラリーマンのような顔で並んでいる。
校長(額に脂汗):「いや、その、我々のほうで内部調査を......」
刑事(鋭く):「証拠隠滅の恐れがあります」
刑事がぴしゃりと遮った。女生徒の背後で、誰かがこぶしを固く握りしめた。
刑事は生贄になりかけた少女に視線を送り、微かに頷く。その表情は「もう大丈夫だ」と告げていた。少女の瞳に、涙の薄膜が光る。
「長野諏訪男!児童福祉法違反、準強制わいせつ、職権濫用の現行犯で逮捕する!」
刑事が告げた言葉に、諏訪男は爬虫類のような目を見開いたまま固まっている。
「児童保護のため、即時身柄確保!」。
カチャリ!冷たい金属音が教室に響き渡る。刑事の右手に光る手錠が、正義の歯車のように噛み合った。
諏訪男は状況を呑み込めないのか、それとも何かを計算しているのか──その顔には、戸惑いと苛立ちが醜く混じり合っていた。
【理央の空想②:諏訪男、ついにスクープされるの巻】
理央の脳裏には、別の鮮烈な妄想が浮かんでいた。
──199X年、冬の職員室。
職員室はいつになく静まり返っていた。古びた木製の机の上には、一面に広げられた朝刊が何部も置かれている。黒々とした見出しが、職員室の沈黙を切り裂く。
「市立中学校 美術教諭、長野諏訪男(45)。不適切指導の疑いで調査」
教員たちは互いに顔を見合わせることもなく、ただ無言で手元の資料をめくるふりをしていた。
誰も、口を開こうとはしなかった。
そのとき、奥の校長室に通された諏訪男の姿がわずかに見えた。
諏訪男はまだ、何が起きたのか分かっていない様子だった。
「……あなた、新聞……見ていないんですか?」[*1]*
校長の声は、かすかに震えていた。
額から流れ落ちる汗を、何度もハンカチで拭っている。
校長のバーコード頭の隙間に滲む汗が、蛍光灯の光を反射していた。
言葉を選びながらも、もはや感情は抑えきれていなかった。
「とにかく……まずい……私の監督責任が……いや、これはもう……」
諏訪男の顔から、ふっと笑みが消えた。
ただでさえ小さかった爬虫類のような目が、完全に点になっていた。
これまでは「学校が守ってくれる」と高を括っていたのだ。
だが、すでに遅かった.......すべては、後の祭りだった。
おそらく現実は、こんな感じだったのだろう。
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あの一件が新聞沙汰にまで発展したのは、学校側が長く事態を黙殺し続けた結果、ついに保護者が「新聞社への告発」という最終手段に出たのではないか。
それは、理央の“空想”でありながら、限りなく現実的な推測でもあった。
──199X年。
校長と教頭は、諏訪男の異様な授業内容について、たびたび保護者から苦情を受けていた。
だが校長の対応は、いつもこうだった。
「……注意しておきます」
曖昧な言葉を繰り返すだけで、具体的な対応は一切なし。
業を煮やした保護者たちは、今度は教育委員会へと訴えた。
だが、そこでも返ってきたのは、
「……調査しておきます」
という、煮えきらない返答だった。
学校も教育委員会も、まともに取り合おうとしない。
やがて、ある被害生徒の保護者たちは決断する──もう黙ってはいられない。
彼らは、地元新聞の社会部に文書を送った。
そこには、学校との応答記録に加え、数人の生徒による切実な証言が添えられていた。
震える筆跡で綴られた文字が、恐怖と不安の記憶を生々しく伝えていた。
手紙を受け取った記者の目は、一瞬で研ぎ澄まされた。
数日もしないうちに、取材は核心へと迫っていく──
──そして、いま。
校長室の重苦しい沈黙のなかで、すべてが現実として諏訪男に突きつけられていた。[*1]*
「……まずい……私も、監督責任を問われる……」
校長のバーコード頭の内側にあったのは、教育への責任でも、生徒への思いやりでもなかった。
ただ、自らを守ろうとする「保身」──それだけだった。
遠く、廊下の向こうで始業のチャイムが鳴る。
諏訪男が教壇に立つことは、もう二度となかった。
理央の空想は、そこで終わった。
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注釈 [*1]:「本人や学校が知らない間に記事になる」ことはあるのか?
1990年代には、以下のようなケースが実際に存在し、記者が独自に裏取りを行い、「被害届なし」でも掲載された例は多数存在したという。
・被害者の保護者が、新聞社に告発。
・記者が水面下で複数の被害者・同級生に取材し、内容を裏取り。
・学校側や加害教員に事前に通達せず、記事として掲載。
・翌朝、新聞で事実を知って校長が仰天、加害教員を呼び出す。
・社会的制裁として、 新聞記事掲載 → 懲戒免職 → 公務員資格停止 → 刑事告訴へと進むことも。
諏訪男のケースに当てはまる可能性の高い流れ:
・複数の女生徒またはその保護者が、最初は学校に相談するも、「問題化したくない」と黙殺。
・教育委員会にも訴えるが、内部調査で曖昧に処理。
・被害者の保護者が、FAX、封書、電話などで新聞社に直接告発(実名・経緯・写真などを提示)。
・地元紙が取材を行い、諏訪男や学校に事前通知せず記事掲載。
・翌朝、新聞を見た校長が、慌てて諏訪男を呼び出す。
・教育委員会は慌てて調査を始め、懲戒処分へ。
・その後、被害者の証言をもとに、県警(生活安全課、 少年課)が事情聴取。
法的手続きが進む。
この事件が明るみに出た背景には、1990年代に入ってようやく表面化し始めた教育現場の不祥事への社会的関心の高まりがあった。理央は海外にいたため実際の記事を読めなかったが、長年隠蔽されてきた真実がついに暴かれたことに、ある種の感慨を覚えたのである。