焼酎居酒屋人情噺
加筆部分はラストのみです。
【池淵】でお読みの方は飛ばしても大丈夫です。
「おっっ、俺とっ、結婚してくださいっ!」
ざわついていた店内に響き渡った大声に、辺りが水を打ったように静まり返る。
隣との距離も近く、衝立などあってないような、よく言えば開放的な店内。真っ赤な顔で立ち上がる男を見るまでもなく、誰が誰に言ったのかなんて誰でもすぐに理解する。
開店前かと思うくらいの静寂が訪れ、居合わせた客全員が見守る中、唖然と男を見ていた向かいに座る女の顔が次第に赤くなっていく。
「……はい」
微笑み頷いた女の声に、男が喜びの声を上げるよりも早く、周りから拍手と祝福とヤジが湧き起こった。
周りからの祝福に我に返ったのか、真っ赤な顔のまま周囲にペコペコと頭を下げてから座る男。女は仕方なさそうな、それでいて心からの喜びが見て取れる、そんな笑顔を男に向けている。
おめでとう、と。そう思いながら、渉は空いたテーブルの食器を下げに行く。
渉の勤める居酒屋はよく言えばレトロな、悪く言えばちょっと古びた、そんな店だった。店長のこだわりから、焼酎の品揃えが豊富なこの店。雰囲気ではなくそれを目当てに来る客がほとんどだった。
そんなお洒落さなど微塵もない店には珍しく、女性同士でよく来ていた客。そのひとりが、今周りからの祝福に頬を染め礼を言う彼女。
随分と顔を見なかった彼女が男と来だした時は少し驚いたが、徐々に距離が縮まっていく様子が微笑ましく。実は皆でこっそり応援していた。
店員である自分たち相手にさえさり気なく気遣い、何かをするたび礼を言ってくれる彼女と。少し頼りないところもありそうだが、見るからにお人好しで好感が持てる彼と。常連とはいえもちろん気軽に話す仲でもないが、他人事ながら幸せを願う程度には親近感を持っていた。
そんなふたりのプロポーズ現場に偶然とはいえ立ち会えて、少し嬉しい。
食器を下げて戻ると、店長がニマニマとしながらふたりを見ていた。
「店長。顔」
白タオルを頭に巻いた髭面のそれなりにガタイのいいおっさんがニヤけるその様子を小声で注意すると、カウンター席に座っていた顔馴染みの客が笑う。
「まぁまぁ。そう言わないであげてよ」
「渉くんだって嬉しそうな顔してるよ?」
馴染みすぎていて遠慮のないおじさんふたりに、店長と顔を見合わせ苦笑した。
「若いっていいねぇ……」
「バラ色の日々ってやつだな」
うんうんと頷き合うふたり。
「ね、大将。僕からあのふたりにお祝い。なんか注いであげて」
「それなら俺にも噛ませてよ。なんかめでたい、パァッとしたやつでよろしく」
「炭酸割りにすればいいって話でもないしなぁ……」
わいわい言い合うふたりからこちらへ視線を向けてくる店長に、渉は肩をすくめた。
カウンター内へと戻り、店長とふたりどれがいいかと話し合う。そうして決めた銘柄を言い出したふたりに味見してもらい、これでいいとのゴーサインをもらった。
「頼んでませんけど……」
グラスを置くと即座に告げられた言葉に、渉はわかってますよと頷く。いつもロックで頼むふたり、こうして泡の上がるグラスを見た時点で間違いとわかるのも当然だろう。
「お祝い、だそうですよ」
「えっ?」
驚いて渉の視線を辿ったふたりは、見覚えのある常連客に手を振られて慌てて頭を下げていた。
「いいのかしら……」
「なんかもう……お騒がせした上にすみません……」
恐縮するふたりに是非と勧める。
「ありがとうございます」
「じゃあ、いただきますね」
常連ふたりにもう一度礼を言う様子を見ながら、渉はテーブルを離れた。
幸せそうな笑顔だったな、と、ふと思う。
「渉くん、渉くん」
戻るなり手招きで呼ぶ常連ふたりに、渉はトレイを持ったまま傍へと行った。
「ね、あれってどれ?」
テーブルに置かれた、筆文字の焼酎のリスト。
「ちょっと変わった後味だよね」
「そうそう。いい感じにらしくなかった」
これですよ、と見慣れた文字を指で差す。
「おふたりも、あのふたりも、普通に芋を美味しく飲む方なので。薦めたことなかったんですよ」
ふたりに出したのは、少し変わった芋焼酎。しっかりと芋焼酎の味わいはするのに飲みやすく、喉を通ったあとに残る香りが今までにない爽やかさで。店では主にまだ芋焼酎に慣れていない人に薦めている。
「確かに。飲みやすかったよ」
「渉くんも詳しいよねぇ」
何気ない言葉に、渉は手書きのリストと店長を見比べた。
「店長に鍛えられてるんですよ」
なんの話からそんな話題になったのかは覚えていないが、昔習字を習っていたと言うと、店長から手書きの焼酎のリストを作ってくれと頼まれた。
就業時間内に筆ペンで書いてくれればいい、特別報酬もつけるから、と言われて引き受けた。
プラスチックの下敷きのようなケースに表裏。定番リストは一度書けばそれで済んだが、店長が気紛れに仕入れる数種類はその都度書かねばならない。瓶がすべて空けば新しいのが入り、そのたびに書き直しとなる。
安請け合いしすぎたかな、と思いながら。特別報酬の仕事上がりの一杯のおかげで少しは味にも詳しくなれた。
元々店長は聞かれた時に答えられるようにと、新しいものを仕入れると希望者には味をみさせてくれる。しかしその一回ではなかなか覚えきれなかった自分にとってはいい復習となったようだ。
そして何より。何枚も何枚も書くことで、書き終わる頃には銘柄も頭に刷り込まれる。いつからか、皆での試飲の際に出しあった感想をリストに書き加えるようになった。
そうしてできた今の形のリスト。コメントを見て頼んでみた、と言われると少々むずがゆく。どこか嬉しい。
食事を終えたあのカップルが席を立った。常連ふたりにもう一度礼を言い、お幸せにやらごちそうさまやら言われて赤面している。
「本当にお騒がせしてすみませんでした……」
会計の際にこちらにまでまた謝ってくれる男に、大丈夫ですよと笑う。
「こちらの方こそ。なんかこう、もっとお洒落で落ち着いた店ならよかったんですけど」
ムードの欠片もない照明というより電球な明かりに、ところ狭しと並べられるテーブルと椅子。狭い通路を店員が急ぎ足で通り過ぎ、人が来るたびに店長を始め皆が大声で迎えるような、そんな店。
もちろん自分にとっては誇るべき仕事場ではあるが、それとこれとはまた別だろう。
人生の一大イベントをそんな店で迎えてよかったのかと、男と、そして女を見やる。
男はきょとんと渉を見てから、隣の女と顔を見合わせた。
「……いえ。この店がよかったんです。俺にとっては大事な思い出の店だから」
「私にとっても同じです」
そう言い微笑み合うふたり。
「この店が好きだから。今日、もうひとつ大事な思い出ができて嬉しかったです」
「ふたつ、かな?」
男がちらりと常連ふたりの方へと視線をやる。
「そうね」
くすりと笑い、女が渉を見た。
「ですから。ありがとうございます」
「もうあんなに騒ぎませんので。また来させてください」
もう、と肘で男をつつく女と、ごめんと笑う男と。
幸せそうなふたりに、渉も自然と表情を緩める。
「ありがとうございます。もちろんお待ちしてますよ」
お幸せに。
心中呟いて、ああ、と思う。
ふたりのことを応援していた。それは間違いではないけれど。
目の前の彼女がきれいに見えるのは、きっと彼の隣だから。
「……お幸せに」
今度は心から、そう言葉にした。
「「ありがとうございます」」
意図せず合わさる声に、ふたりで照れたように顔を見合わせる。
そんな姿を目にしても、胸が痛むことはないけれど。
今は少しだけ、眩しく見えた。
会計を終えてから、女が気付いたように顔を上げた。
「あの、いただいた焼酎、すごく美味しかったので。どれなのか教えてもらえませんか?」
「炭酸割りって普段しないけど、全然物足りなくなかったよね」
そういえば銘柄を伝えていなかったことを思い出し、渉はカウンターの端の席からリストを持ってくる。示された銘柄に、まだ飲んだことのないものだねと言い合うふたり。
「これを見ていると気になるのがたくさんあって。いつも迷ってしまうんです」
礼を言ってリスト返しながら、女が少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「またオススメも教えてください」
手渡されたそれを受け取りながら、渉はふたりに笑みを返す。
「喜んで」
いつでも聞いてくださいと言うと、ふたりに揃って礼を言われた。
ペコペコと頭を下げながら出ていく男と、そのうしろ、男の分まで前と足元を気にしながら軽く会釈する女を見送ってから。
渉は手に持ったままのリストに視線を落とす。
もちろん自分は銘柄を書き写しただけなのではあるが。
それでもどこか覚える嬉しさと、ひとりになったら感じるだろう喪失感と。
今は短い溜息で逃し、渉はリストを元の場所へと戻した。
客が捌けたところで、少し早いが店を閉めることになった。
「渉。ちょっと残れるか?」
店長にそう声をかけられ、閉店作業をしていた渉は大丈夫ですと頷く。
店が忙しくてならわかるが、今日はもう時間通り片付けも済むと読めている。
怪訝に思いながらも作業を済ませた渉に、ほかの皆を帰らせた店長は座れとカウンターを示した。
お説教だろうかと思いつつ素直に座るものの、店長の表情に怒っている様子はない。
「店長、俺何か……」
「田崎さんと中野さんからだ」
常連ふたりの名とともに出されたのは、氷の入ったグラス。
店長は黒い一升瓶を傾け、定量より多めに注いだ。
「俺からも足してやる」
「店長??」
注がれた酒は、今日あのカップルに出した芋焼酎。
それをどうして、常連ふたりと店長が自分に飲ませるのだろうか。
うろたえる渉の前で、店長はもうひとつにも同じように酒を注ぎ、渉の目の前に差し出す。
「ほれ。乾杯だ」
「え……はい……」
カチッとグラスを合わせ、腑に落ちないながらも口をつけた。
まだ氷がとける前、芋らしい力強さは喉を過ぎて解け、アルコール感を消すように爽やかな香りが口内に残る。
(……美味しい、けどさ……)
なんのつもりかと店長を見ると、子どもの成長を見守るような笑みを返された。
「美味いだろ」
「まぁ、そりゃあ……」
店長が選び店に置いた酒なのだから、不味いわけがないのだが。
なんとなくむず痒い視線から逃れるように、渉はグラスに視線を落とす。
背の低いグラスの中、カランと氷が音を立てた。
あのふたりに出した、泡の上がるグラス。
当分は見るたびに思い出しそうだとふと思う。
とはいえ、所詮は自分でも気付かぬほどの淡い想い。今日の喪失感さえ乗り切れば、あとは思い出したところで悲しいでも苦しいでもなく、なんとなく気になるというくらいのものとなり。
そしてきっとそのうちに。
少し気恥ずかしい思い出になっているのだろう。
再び口に含んだ焼酎は、少し氷がとけて角が取れ。一口目よりも柔らかく広がり落ちていく。
自然に緩んだ渉の表情を見て、店長がぽつりと呟いた。
「……美味いと思えりゃ大丈夫かな」
「大丈夫って? 何がですか?」
はっとして視線を逸らす店長をじっと凝視する。
明らかに焦り始めたその顔に、とどめとばかりに付け加えた。
「隠し事、向いてないんですから」
ごまかすように己のグラスを傾けていた店長は、その言葉に観念したのか、まっすぐに渉に向き直る。
「田崎さんも中野さんも俺も。お前が気落ちしてないかって心配してたんだよ」
「気落ちって……」
何を、と聞きかけて思い当たる今日の出来事。
自覚ないそれは、もしかしたら傍目には透けてしまっていたのだろうか。
「せっかくの美味い酒がつらい味になっちまったらもったいないからな。確かめといてって言われてたんだよ」
顔に出そうになった驚きはなんとか収めたものの。慰めるようにではなく、ただ心配からのその声音がこそばゆく、渉は暫し言葉に詰まる。
自分が思っている以上に、周りは自分のことを気にかけてくれていた。
そのことに、今気付けた。
――だが。
「何言ってるんですか。見当違いもいいとこですよ」
素直に認めるのは癪なので、精一杯の虚勢を張る。
「まぁこれはありがたく頂戴しますけどね」
にっこり笑ってグラスを持ち上げ、渉はまたひと口含んだ。
仕方なさそうな顔で見返す店長には、おそらく強がりだと見抜かれているのだろうが。
嬉しさと見透かされていた恥ずかしさを、酒と一緒に呑み込んで。
胃に落ちる熱とは別の温かさに、渉はありがとうございますと心中独りごちる。
「……やっぱりこれ、美味しいですよね」
この酒はきっとこれからも、自分を励ましてくれるものとなる。
そんなことを漠然と感じながら、爽やかに抜ける後味を堪能した。
お読みくださりありがとうございます。