BSの奇跡
生への執着がない。つまりいつ死んでも良い。何故なら失うものがないから。守るものがないから。常人よりも桁外れに執着というものがないのだ。
だからこそ、信号無視を出来るし、こうして異臭を放っていても関係無くコーヒーを啜ることが出来るのだ。
しかし、ピンクモーゼがBSの事をハルクと言っていた件に関しては気にかかる。
いくら自分より力持ちであるからと言って、ハルクに例えるとは言いすぎではないか?ハルクに例えられる程の何かがあったのではないか?
私は疑問に思い、BSにその事を聞いてみた。するとBSはボコボコ手鍋に水を入れまた沸かし始めた。
まぁな。確かにあんたの言う通りだ。あいつより腕力があるからと言って、そんなもんでスタンダップとはいくらあいつでも言わんだろう。
沸かした湯をマグカップに入れて、先程のコーヒーの残りと混ぜた。思いっきりアメリカンコーヒー、というかもう黒いお湯と化したソレを啜りながらBSは話を続ける。
俺にも執着があった時があったさ。あんた位の時かな。結婚して家族も居た。それなりに幸せだったよ。守るために誰かのために命を燃やし続けることは幸せなことだ。
...何があったんです?
...あんま言いたくねぇんだがな...しかたねぇ特別に話してやる。
と言ってBSは、棚に置いてあった1冊の煤けたアルバムのとあるページを開き渡してきた。
そこには、結婚式らしき集合写真があった。
これは?
俺と、家族だ。両家も呼んでな。このちっちゃいのが息子だ。
今から30数年前、俺にもちゃんと守るべき家族があった。俺はここの橋の工事に携わった土木工事の作業員だった。川を切り開き、海と合流させ、その上で陸橋を建てる。当時のこの地域では珍しい程でかい工事だったんだ。毎日朝早くから夜遅くまで馬車馬のように働いてた。重機オペレーターとかダンプトラックみてぇな免許は無くってよ、そういうのは花形に見えたね。とにかく何の免許もない俺らは、ただひたすら地面を掘り、ダンプに掘り起こした土を投げ入れる、重機で運んでくる部品を特殊なでかいネジを特殊な機械を使って留めていく、雨の日も風の日も。だが、今みてぇに人手不足にはならなかったよ。給料が良いからな。俺みてぇに何も無い男がよ、スーツ着て営業周りなんてしてても似合わねぇしよ、作業員の方がよっぽど給料良かったしウハウハだったぜ。金回りもそこいらのスーツ着た兄ちゃん達より羽振りが良くてな、調子乗ってたぜ。
BSは調子づいてきたようで前のめりになって話す。前のめりになったことで空気の流れがこちらに傾く。臭気を吸い込まぬようグッとこらえる。
そこにはあいつも作業員としていたんだ。今でもそうだが、ひょろっこくてな。よく作業場で上司に怒られてたわ。女みてぇだって。
喰っても喰ってもでかくならねぇ奴だっているだろうに、上司の奴は喰って身体をでかくしろっていつもあいつに言って昼食の炊き出しのご飯の量があいつだけ半端ねぇんだよ。喰えるかっての。だが、喰うことも仕事だってよ。相撲部屋かよって思いながらも上司には誰も何も言えねぇし、仕方ねぇから仲間達で少しずつあいつからご飯分けてもらって喰ったことにしてたよ。
なるほど。ピンクモーゼとBSは同じ職場仲間だったのか。
とにかくそんな環境で仕事してるから、ストレスが溜まってな。金曜日の夜は仕事終われば仲間達と夜通し遊びまくってたわ。そんな日々が2~3年続いたかな。
ある日の金曜日、いつも通り仲間達と夜通し遊んで家路に着いたわけさ。そうすると、消防車やら救急車やらがどんどん俺を追い越していくわけさ。どこぞの火事かと思ってさすがに焦ったわ。酒が回って倒れても明日は休みだしって、ちょっと急いで走ったわ。そしたら、火事は俺の家。最悪さ。まだ2階に取り残されてる子供達と嫁を助けにはしご車が梯子を伸ばすんだけど、火の勢いが強すぎてな。俺は居てもたっても居られず、水をぶっかけて家の中に駆け込んだ。
玄関入ってすぐが階段。迷い無く階段駆け上がって、2階の寝室で倒れてた子供2人と嫁を抱えてまた階段降りてもう少しってとこで屋根が崩れてきてな。もうダメかと思った瞬間、俺の周囲の空間の流れだけ一瞬止まったように思えてな。屋根の一部も俺の背中に乗っかって潰されてもおかしくなかったように思えたんだが、何の重さも感じなかったんだよ。屋根の一部を背に乗せたまま家族を地面に下ろして、その後で背中から弾き飛ばしたんだ。
んなばかな。火事場のくそ力ってやつですか?
まぁ、そう言うと簡単だな。きっと、人間何かの時はリミッターが外れるのさ。
でも、そのお陰で家族は無事だったんで不思議な力に助けられましたね。
...いや、死んでたよ...
その裏表紙、見てみな。俺の現世での執着はそれだけだ
煤けたアルバムの裏表紙には、「生きろ!」と今にも消えそうな程薄くなってはいたが確かに書いてあった。
...すみません...辛い話をさせてしまって
異臭漂う暗い陸橋の下で、アメリカン・コミック以上の奇跡を聞いた。俺の有給の1日はもうすぐ終わろうとしていた。