第十話「想う涙」
――何故、何故、何故。この言葉ばかりが頭を駆け巡る。
そうしてこの世界が憎らしく思えて、お前を連れ去ってしまいたくなるのに。
お前は何もかもを包むように微笑んで、俺を宥めてしまうのだ。
***
「常盤よ、これは…」
男は、突然として現れたその姿を見て、言葉を失った。目の前にいるのは紛れもなく、妖と呼ばれる存在。それも、霊力を持たない人間から見ても分かるほど強大な力を持つ天狗だった。
「――この森に住まう天狗でございます」
女は何の動揺も見せず、淡々と答える。
「しかし、この天狗は…」
「はい、秋吉様。この天狗は必ずや天狗の長となりますでしょう」
驚きを隠せずにいる男と、落ち着き払った女。黒の天狗は小さく舌打ちをして、女に歩み寄った。
「……先の言葉はどういう意味だ」
平常を保てず、黒の天狗の言葉が威圧的になる。
「どうもこうも、お主が聞いた通りだ。儂はこの生命を差し出す。この世界のために」
「常盤…!」
顔色ひとつ変えずそう答えた女の姿に、荒れ狂う感情が黒の天狗を襲う。そしてその激情は溢れ出す霊力となり、容赦なく他の者に多大な重圧を与えた。
――黒の天狗の霊力は、それはもう凄まじいものだった。
家屋が強い力を前に悲鳴を上げる。それは、人間とて例外ではなく。
「――っ、う…」
青年たちが地に膝をつき、小さく呻き声を上げる。多少なりとも霊力を持つ男さえも、その苦しさゆえにうずくまっていた。
「やめぬか、氷雨」
それでも、顔色ひとつ変えずに、女は凛と座っていた。
「……何故、俺に黙っていた…?」
「言う必要がないと判断したからだ」
「……何故、そう判断した…っ?」
「――お主は、」
一拍の、沈黙。
「お主は、優しいから」
女のその一言で、今までの重さが嘘のように空気が軽くなる。
「――何故…?何故、お前でなければならないのだ…?」
誰に問うわけでもない、黒の天狗から零れ出た小さな声だった。
「……常盤が、姫巫女だからだ…っ」
呆然と立ち尽くす黒の天狗に、息も絶え絶えに答えたのは、男だった。
「……姫巫女?」
「そうだ…っ。強い霊力を持って生まれ、初代姫巫女の生まれ変わ――」
男の言葉は続かなかった。一瞬のうちに黒の天狗に喉元を掴まれ、話すことはおろか、呼吸さえもできなくなっていた。
「――たった一人の女を、貴様たちは犠牲にするのか?」
怒気を孕んだ声が空気を震わせる。
「そ、れが…世界、をっ、護るた…め、」
「……世界を護る?――ふん、違うな」
ぎりり、と。黒の天狗の爪が男の喉元に食い込む。
「貴様たち人間は、ただ己が可愛いだけだろう?己が生き長らえたいがために、他を犠牲にする。なんと愚かで傲慢なのだ」
そう笑う黒の天狗の表情には、一切の温もりが消え去っていた。
「ちが、う…!姫、巫女の掟、は…遥か昔、から、ある…っ」
「……だからなんだと言うのだ?掟だから、変えられないと?」
「……氷雨、やめろ」
「今も昔も、人間は変わらない。ならば掟もまた、その傲慢さから生まれたものなのだろう」
女の声は黒の天狗に届かない。
「……さぞお前たちは嬉しいだろうな。己を差し出さずとも、己を護れるのだから」
「――氷雨!!」
「嬉しいはずが、あるか…!!」
女の制止と、男の叫びが重なった。
「――嬉しい、はずが…ない…」
男の声は、今にも消え入りそうなほど弱々しくなり。今までとは違う男の態度に、黒の天狗はその手の力を少し緩めた。
「――常盤は…」
続く男の言葉を察し、女もまた、静かに視線を落とす。
「――常盤は、私の娘、なのだ…」
男の頬を伝って、娘を想う涙が静かに落ちた。