要塞線崩壊(塞)
1917年3月24日。大セルビア帝国北部国境線に築かれた要塞線によって一年半近く停滞していた前線だが、ついに動きがあった。
セルビアの要塞線『サラトフ線』は17の要塞地区、七の防衛地区からなる要塞線で鉄壁の防御力を誇るとされていた。事実、中世の要塞さながらの石造りのものながらも、一年半に渡ってオーストリア=ハンガリー二重帝国軍に加えて一部のドイツ帝国軍も跳ね除けていたため、優秀であったことは否めない。
だが、それはあくまでも『小火器』程度の話である。
ドイツ帝国軍は西部戦線にて獲得した重機関銃および軽機関銃を実用化して前線に配備し、また遠距離から要塞線を攻撃できるようにと高初速大口径のライフル銃も作られた。
そして極め付けに、戦車である。大祖国戦争にすれば中戦車に当たるそれではあるが、当時にはまだ存在していなかったのが戦車という車両の技術である。前述の高初速大口径銃より遠距離かつより効果的な砲撃が可能で、しかも軟対象である石造建築物に対してだけではなく対人性能も非常に優れていた。
それは、セルビアが実用化した戦車よりもさらに高性能であった。
さらに、高射砲の存在も大きかった。野砲ながらも野砲より高角の射撃が可能という点で非常に優れており、実戦が訓練状態ではあるが対要塞戦の主力として88mmの高角射撃砲も用いられている。独特な発射音とその圧倒的な威力から、諸国からはエイティエイト(eiighty-eight)として恐れられ、独墺ではアハトアハト(acht-acht)として称賛を浴びた。
少し後になるが、装甲車、特に戦車に対しての攻撃手段としても非常に有効であるという観点から、1918年の西部戦線ではアハトアハトが対戦車兵器として用いられるのだが、それは別の話。
ーーー1917年5月25日、奮戦空しくベオグラードが陥落し、大セルビア帝国は同盟国に降伏した。




