プロローグ
多くの人は求めるだろう。未来に向かって羽ばたく為の力強い翼を。
それは例えば白鳥であり、鳩であり、燕である。
或いは未来を掴むための強靭な鉤爪を。
それは例えば鷲であり、鳶であり、鷹である。
でも、そんなモノがあっても羽ばたけない、伸ばした手は空を切る。俺は、そんなモノよりも………
「大葉!おい、聞いてんのか?おい!」
ぼんやりとした思考を声の方に切り替えると、目の前では前のめりになって青筋を立てた生徒指導の松山が、空白の進路希望の紙を俺に突きつけていた。
「すいません。ぼーっとしてました」
「はぁっ⁉ ボーッとしてただぁ⁉ こっちは一週間も進路希望調査の提出期限遅れてるお前に指導してたってのに、お前は何も考えてなかったのか!」
「はい、まあ」
俺がまだ覚めきらない意識のまま答えると、ドカンとソファに座り込み、大きなため息を吐いた。
「ったく大葉よぉ、お前成績だけは良いんだから、適当にでも学校名書いてくりゃ、こっちは何も言わなくて良いんだよ。その辺わかってんのか?」
「職務怠慢はダメですよ」
「お前マジで一回しばき倒すぞ!お前が生徒怠慢だっての!」
青筋がもう二、三本増えたように見えた。
「はぁ……国語一位に数学三位、英語も十位。理科社会系は少し落ちるがそれでも校内総合七位。全国でもトップ百以内。ここまで出来てなんで夢とか目標とかが無いんだろうなぁ?」
「なんででしょうね」
「お前に聞いてんだよ!」
先生は大阪出身なだけあってノリツッコミが上手い。その証拠に周りの先生方は申し訳無さそうな顔をしながらも、笑いを堪えている。
「……お前、またなんか別のこと考えてんだろ」
「いや、特に何も」
「見え見えのウソつくんじゃねぇよ……」
松山はちらりと時計を一瞥する。そう言えばもう夕日が落ちかけてしまっている。
「はぁ……遅くなっちまったな。お前もう帰れ、進路相談終了!おつかれ!」
「わかりました」
「…………一応言っておくが、明日までには書いてこいよ」
「………善処します」
「ホント頼むぞ……」
多分相当お疲れだったのだろう。俺が職員室を出るときにはもう、ソファにもたれかかって天を仰ぎ見ていたので、俺が進路希望調査表をその場に置いたままだと気が付いていなかった。いつ頃気がつくだろうか。職員室が荒れないことを祈るばかりだ。
「それでペロがさ〜………あっ、翔!」
最終下校時刻は十八時、現在時刻は十八時時三十分だ。校門のところまで行くと、幼馴染の玲奈が友達とおしゃべりをしていた。流石にこんな時間まで残っているとは思わなかった。
「玲奈、今日は遅いんだな」
「いやそれ翔のほうなんだけど……」
「俺は進路指導」
「あ〜松山?あいつまじでしつこいよね。こんな時間まで説教とか。熱血?みたいな」
「まあ、そうだな」
玲奈の友人はいつの間にか姿を消していて、俺たちは並んで歩き出す。
「それで、どうなの?」
「ん、何が?」
「いや進路のことに決まってんじゃん。それでこんな時間まで残ってたんでしょうが」
「まあたいして変わったことは無いよ」
「翔のその状態がもうすでに変わったことだけどね……」
呆れたようにため息を吐く。
「明美さんだって心配してたんだから。昨日の夜なんかメールで『明日翔の進路について聞いといてくれないかしら?』なんて送られてきてビビったんだよ?うわ、マジか。ってね」
「そうなんだ」
「も〜、反応薄いなぁ……」
明美さん、とは俺の母のことだ。大葉家と、玲奈の家である篠原家は付き合いが長く、その由来は親たちの学生時代にまで遡る。夕食なども一緒に食べることが多く、酒の席になると当時の武勇伝や、失敗エピソードなどがどんどん掘り返されていく。その様を見ているのはなかなか面白いが、中には笑えないものもいくつかあったりもする。
「そう言えば、もう夏だね」
蝉の鳴き声が大きくなってきたのを知ってか知らずか。
「そうだな」
「なんか予定とか、あるの?」
「特に無い。強いて言うなら家族で夏祭りに行くらしい」
「それ毎年そうだから。なんなら毎年一緒に行ってるから」
「それ以外は何もない」
「じゃあさ、これ一緒に行かない?」
そう言って取り出したのは一枚の紙だった。もちろん進路希望調査表ではない。なんかのパンフレットらしき物で、色とりどりで楽しげだ。
「この前中学校の先生と偶然会ってさ。リサちゃん先生、覚えてる?」
「多分覚えてる」
「多分ってアンタ……」
リサちゃん先生、もとい折原梨沙先生は俺たちが中学生だった時の担任の先生だった人だ。明るい性格で、担当だった国語の授業も面白かったのでみんなから好かれていた。進学にたいしてやる気の無い俺にこの学校をおすすめしてきた人なので、流石に覚えていた。
紙に書かれた内容を要約してみると
「夏休み限定で中学生の外部教師?」
「そ。ざっくり言うとね。」
もっと詳しく言えば、高校生対象のボランティア活動の一環で、偏差値の高い学校に進みたい中学生の勉強を手伝ったり、高校生活について語ったりする、という内容らしい。
「………本気か?この俺にそんな……?」
「いや、リサちゃん先生直々の頼みだから。『大葉くんも是非!』って言われたんだからね。まあアンタ成績は昔から良かったじゃん。それにね、言っとくけどウチってかなりの進学校だからね?アンタ軽く一位とか取るけど普通ありえないから」
「勉強ができても教えるのが上手いとは………」
「アンタ中学の田山さんにちょちょっと教えて二十点くらい伸ばしてあげてたじゃん!私だって定期テストの時は教えてもらってるし」
「田山、誰だっけ………?」
「はぁ……まったくアンタってやつは……」
またため息を吐く。俺と深く関わる人達はみんなため息が多いのは気のせいだろうか?
「でも、高校生活について話とか……」
「あんた英語のスピコンで優秀賞取ってたじゃない!」
「えっと……」
「スピーチコンテスト!リサちゃん先生に言われて出たやつ!」
「あー、そんなのもあったなー」
「はぁ……」
そんな話をしていると、いつの間にか玲奈の家の前まで来てしまっていた。
「まあとにかくそういうわけだから、しっかり考えといて。アンタの進路決定の助けになるかもしれないし、そうでなくても気分転換になるでしょ?」
「そうかなぁ」
「私だって一人で行くの緊張するし、一緒に来てよ」
はいコレ、と俺に無理やりパンフを押し付け、また明日!ああと先生から許可あるからね。とさらっとエグいことを言い残して、家の中にさっさと入ってしまった。
「えぇ……」
蝉の声が、俺をあざ笑うように住宅街に響いた。
終業式当日、俺はやはり職員室に呼び出されていた。
「お前結局こんなところまで引っ張りやがって……書いてきたんだろうなぁ!進路希望調査票!」
「あ、そっちは出来てないです」
「はぁっ⁉ お前、マジ、お前……はぁ………?」
松山からはもう力が抜けてきていた。そろそろ限界なのかもしれない。
「でも別の件で用事があって……」
「………ん? 何だ珍しいな、お前からの用事なんて。どうした」
「あの、これ……許可が必要なやつで、お願いしたいんですけど」
俺がおずおずと例のパンフを見せると、松山はパンフレットに幽霊でも憑いていたのかと言うような表情をして、俺の方を見てきた。
「なんです?」
「お前、ホントに大葉か……?なんか、偽物とかじゃ、ないよな?」
「ホントに大葉翔です。それで、許可の方は大丈夫そうですか?」
パンフを持つ手がわなわなと震えている。ホントに大丈夫かな。
「ああもちろんだ! お前にもちゃんと心はあったんだなぁ! 俺は嬉しいぞ!」
今にも泣きそうな表情だ。今日だけで喜怒哀楽をコンプリート出来そうな勢いだが、許可は出るらしい。
「もう無理に進路希望調査を提出しろなんて言わねぇ。コレをしっかりやり切ってまた考えてみろ、多分何かしらの答えが出るはずだ!」
「はい、なんとかやってみます」
「おおっ! 頑張れよ!」
このまま行けば進路のことで小言を言われることもなさそうなので、玲奈に半強制的に参加させられたのは内緒にしておこう。そのほうが精神衛生上良いだろう、お互いに。
さあ、面倒なことになってしまったなぁ……