第8話 アグレイとフリッツ
キクの説得に失敗し、アグレイはキクと小競り合いを起こした。
肉体の一部が侵蝕された蝕肢を有するキクの能力により、アグレイは敗北する。
はぐれ孤児院のことは職場に報告しないことにしたアグレイは、いつも通り職場の警備課に出勤する。
翌日、アグレイが統括府に出勤すると、そこには日常の風景が広がっていた。
統括府は、正式名称を侵蝕地帯行政統括府という。
イフリヤの街全体を囲む塀と一体化して築造された建物だ。イフリヤの外周をなぞるように造られた塀の高さは三メートルほどだが、一ヶ所だけ抜きん出て高い壁が遠方からでも確認できる。それが統括府だ。
俯瞰すると、統括府は半分だけイフリヤに、もう半分は壁の外に突き出している。その外壁に塀が繋がる部分が、ちょうど統括府の中間ということだ。
統括府に勤務している大半はイフリヤの住民で、長官などの一部の管理職のみが外から出向してきている。
アグレイは三階の警備課に向かった。
幾つかの部所がすでに忙しく立ち働いているのを廊下で横目にし、警備課が設けられている部屋に入った。机が置かれて書類が山積しているのは、どこも代わり映えしない。
「よお、アグレイ」
「ああ」
朝っぱらから何が楽しいのか、にやけながらフリッツが手を挙げるのに、アグレイは顎を下げるだけだ。フリッツは機嫌が良いのでなく、それが素なのだと知っていれば気にならない。
「ほい。これ」
フリッツが何やら書類を見せようとするのを、アグレイは眉をしかめて拒んだ。
「俺に報告があるなら、書面じゃなくて口で言ってくれ」
フリッツは手中の紙片を丸めて屑籠に放った。
「おうよ。仰せのままに。昨日の界面活性が理由で巡回の経路が変わったみたいだ。もう俺が覚えたから、お前はついてくりゃいい」
「そんなことか。やることに変わりはないんだろ」
それから二人は統括府を出て、連れ立って当番の地域を巡回していた。
北部地区は、イフリヤで初めて界面活性が出現し、侵蝕が確認された地帯である。
十二年前のその日、サクラノ公園には祝日とあって多くの行楽客が訪れており、サクラノ公園を中心に発生した界面活性は、恐慌に陥った民衆を悉く飲みこんでいった。
侵蝕は、局所的ながら気候を捻じ曲げるほどに強力なものであった。
その日を境に、イフリヤ周辺は雨も降らず晴れもしない曇天が、現在まで続いてきた。そして、これからも曇り続ける、停滞した日々の連続だ。
「今日も、曇りだな」
例によってアグレイが言ったのを、無視することなくフリッツが反応する。
「アグレイ、お前また言ってるが、何の天気なら満足なんだ?」
「……あ?」
「晴れでも雨でも、お前は同じことを言うんじゃないか? 空はよ、お前がどんだけ愚痴を並べても、変わらないんだよ。だったら、お前の方が慣れるしかないんじゃないか」
フリッツのくせに利いたこと言いやがると思ったが、咄嗟に反論のしようもなかった。
「そう……だな」
アグレイは不承ながらも頷いた。
「だけど、いつの日か、この空が晴れてくれるんじゃないかって……思ってよ。俺達のやっていることは無駄じゃない。界面活性を封じ込めて、喰禍を倒してりゃ、そのうち……あのときの青空が、いきなり顔を出すんじゃないかと願っちまうんだ……」
アグレイ達の仕事は対処療法的なものだ。
界面活性や喰禍が出現した際に、それらを撃退して被害を最小限に抑える。侵蝕された世界を直しもできず、後手に回るだけで決して抜本的な解決には繋がらない。
先の見えない戦いは、警備隊の隊員を着実に疲弊させていく。警備隊の退職時期は大まかに三期に分けられる、というのは警備隊での有名な軽口だ。
第一期は着任して三日以内、初仕事での殉職。それを生き延びて三ヶ月、油断が原因で死亡するのが第二期。最後の第三期は、三年目に完蝕されて同僚に殺される。
笑えない冗談だった。
「フリッツ。俺達が初めて会ってから、結構経ったよな。その間、俺達はずっと同じことを繰り返してきた。それで、何が変わったよ? どうせこのまま戦い続けるなら、漠然とした理由より、もっと確かな……何かのために戦いてえ」
「どうした? お前にしちゃ気弱だな。昨日、何かあったのか?」
アグレイの頭に浮かんだのは、先日出会ったキクという女の姿だった。キクは、レビン達のために日々戦っている。
その単純にして強固な意志は、戦うための動機が定まっているからではないか、とアグレイは思っていた。
長年を共にした相棒に告げるのは気恥ずかしく、アグレイは話題を変えた。
「……そうだった、昨日レビンが言っていたんだが……」
「レビン?」
フリッツが聞き返す。
下手なアグレイの誘導に誤魔化されたのではなく、余計な詮索を控えたのだろう。同年ながら、フリッツの方がそういった気配りは格段に上手い。
「ああ、昨日助けたボウズだよ」
「あの子か。それで何だって?」
「レビンが迷い込んだ原因だ。怪しい人物を見て追いかけたんだそうだ。長髪の男で粗末な衣装を着ていたらしい。そんな身なりでこの辺をうろつくようなのと言えば……」
「完蝕された人物ということだな。報告はしたのか」
完蝕を確認すれば統括府に報告するのが義務だった。いつ他人に危害を加えるかもしれない完蝕の状態は、喰禍と同じ扱いである。
「いや、できれば俺の目でも確かめたい」
アグレイは首を横に振って言った。レビンを疑うわけではないが、目撃証言だけで報告するのもアグレイには憚られた。
「発見と同時に倒せば、俺の作る書類も一枚で済むな」
「ま、そうか。完蝕なんぞ毎日増えているんだから、急ぐこともない」
二人は口を閉じたが、すぐ沈黙に飽きたフリッツが無駄口を叩き始めた。
「とっておきの話があってだな。実は……」
「待てッ。あれは?」
アグレイがフリッツの話を遮って耳を澄ますと、遠方から叫び声が届く。
「界面活性を確認した!! 近くの警備隊は至急応援を求むゥー!」
その内容を認識すると、まず足が動いてからアグレイは相棒に呼びかける。
「お前は案山子かよ、フリッツ! 早く行くぞッ!」
「いや、お前の反射神経と比べるなよ。ま、行くけどよ……」
フリッツはアグレイにとって相棒のような存在です。
キクや後に登場する人物は仲間、というイメージで違いがあります。
どう違うねん、という感じですが……。
戦うのはアグレイ。
書類作成などの事務的な役割は主にフリッツという分担になっています。
肉体派のアグレイと頭脳派のフリッツ。まるで亀と右京さんみたいな。
相棒ってそういう……