第5話 孤児院のキクお姉ちゃん
会話するなかでレビンが孤児院出身だと知ったアグレイ。
レビンを世話しているキクという少女がいるらしい。
しかし、『キクお姉ちゃんの怖い顔』とは……?
「こっちだよ、おに……、アグレイ」
レビンの声でアグレイの物思いは破られた。
孤児院へとアグレイを先導していたレビンを、いつの間にか追い抜いていた。振り返ると、横道からレビンの顔が覗いている。
「おお、悪いな」
脇道に逸れると、急に人通りは途絶える。
幅が狭く建物に挟まれた道は、しばらく歩くとまた大きな通りに合流する。だが、そこには人影は見当たらない。目につく建造物も、外壁が剥がれ落ち、崩壊しているものも少なくなかった。
侵蝕地帯で界面活性が発生する地域には偏りがある。侵蝕が活発で頻繁に界面活性が現れる場所と、ほとんど界面活性が確認されず、もし出現したとしても、侵蝕するほどの影響が無くて自然消滅してしまうのが多い場所。
言うまでもなく後者の方が住むのに安全で好まれる。人気が無いのは、それだけ危険な地域ということである。
「おかしいな。この辺に孤児院なんてあったか?」
アグレイの言うことは当然だ。子どものための施設を、このような辺鄙な場所に建設するとは考えづらい。
「まさか……、お前が住んでるの、はぐれ孤児院じゃないだろうな?」
はぐれ孤児院とは、統括府に登録されていない不認可の孤児院のことだ。
その実質は、普通の孤児院にも保護されない身の置き場の無い子ども達が寄り添い合って、既成事実として成立している孤児の集団だ。
盗みや売春で生計を立てるが、充分な収入が得られずに餓死や栄養失調で命を落とす子どもが大半である。
また、後々になって重大な問題を引き起こす孤児もおり、『適切な処置』が要求される場合がある。アグレイは事件を未然に防ぐため、わずかな可能性も無視できなかった。
質問の効果は劇的で、前を行くレビンの背筋が瞬時に伸びた。反射的に振り向こうとしたのを何とか途中で止め、上擦った声で言い繕う。
「あ、あのさ、僕ここから一人で帰れるから、アグレイも早くお家に帰ったら……?」
はぐれ孤児院であることを隠そうとしている。利発ではあるが、所詮は子どもだ。口を割らせるのに手間をとることもないだろうと、アグレイは算段をつけた。
アグレイは左手をレビンの頭に置いて、優しく語りかける。
「おいおい、白々しいな。俺とお前の仲だろ」
「あの、いや……」
アグレイは少しだけ力を加え、掌で円を描くように動かした。その下にあるレビンの頭部も、自然と緩やかな円形に回される。
「俺はお前に貸しがあるんだぜ? 侵蝕から助けてやったという、な」
「うー。でも、キクお姉ちゃんは裏切れないよおぉー……」
「裏切るんじゃない。ちょっとだけ友達、俺のことだが、に教えてくれればいいんだ。ほら、言ってみ? 白状しなって」
「あうぅー……」
されるがままに首を回され、右手で頬を突かれるレビンはアグレイに心を許している。それでも話を渋るのは、恐らくキクお姉ちゃんとやらに口止めされているのだろう。
アグレイの責め苦によって、レビンが陥落するのも時間の問題だ。さらに問答を継続していると、不意に背後から声高に呼び止められる。
「ちょっとあんたッ! レビンに何してるの!?」
「うおぉ!?」
第三者がいないものと思い込んでいたせいで、必要以上にアグレイは驚いた。レビンを笑えないほど、その背筋は伸び切っている。
だが、アグレイが肝を冷やした理由はそれだけではない。女の声は、大の男ですら竦み上がらせる迫力を備え、鋭く放たれていた。
「あ、キクお姉ちゃん!」
救いの手を差し伸べられたという風に、レビンがアグレイの掌中から逃れて後ろの人物に向かっていった。
「どうしたの、レビン? あなたがいないから心配してたのよ?」
「ごめんなさーい」
レビンは女、キクの腰の辺りに抱きついて服に顔を埋めている。キクは素直に謝るレビンの頭を愛おしげに撫でていた。
キクは、女性と少女の中間とでも言うような雰囲気を帯びていた。年の頃は、一七か一八歳だろう。
光加減によっては緑にも映る肩まで届く黒髪と、頭髪と同色の湿った夜のような色合いの瞳が、幼い顔立ちと調和して不思議な印象を他人に与える。衣装の裾が短く、その右脚は包帯で肌を隠していた。
「知らない場所に行って迷ってたんだ。おまけに界面活性にも会っちゃうしさ」
「界面活性ッ!? それは怖かったでしょう? 無事で何よりだわ。だからいつも、遠くまで遊びに行っちゃいけない、と教えているのよ。これからは気をつけてね」
「はーい」
これまでのやんちゃ振りは消え失せ、レビンは従順に返答する。
「ね、あの人は誰?」
「僕を界面活性から助けてくれた、アグレイっていう人。ここまで送ってきてくれたんだ」
「界面活性から……助けた?」
アグレイに当てられたキクの視線が刺すように鋭くなる。
それだけの能力を備えた人物であり、それが何を意味するか思い至ったようだ。
キクがレビンを向いたときには、その目から圭角がとれて穏やかなものになっている。
「分かったわ。じゃあ、私はこの人にお礼を言うから、レビンは先に帰っててくれる?」
「うん」
キクが促すと、レビンは頷いて走り去っていく。
キクの視界から外れると、レビンは申し訳なさそうに両手を合わせ、拝むようにアグレイを振り返った。
キクお姉ちゃんが不利になることは話せないが、自分を助けてくれたことには感謝しているのだろう。
アグレイは怒りを覚えていないことと、別れを目線で告げた。レビンは内面の安心を笑みによって可視化し、それから建物の陰に消えていく。
さて、といった様子でアグレイはキクに向き直る。
相対したキクは温かみをすっかり収め、冷たい黒曜石にも似た瞳の焦点をアグレイに結んでいる。アグレイとレビンに向ける眼差しの、その温度差たるや、だった。
なるほど、これが『キクお姉ちゃんの怖い顔』か。前もってレビンに聞いていなければ、アグレイも臆していたかもしれない。
本作のヒロイン的な立ち位置のキクの初登場です。
ちょっと気が強そうですが、今のライトノベルにはこんな娘はいるのでしょうか?