第48話 アグレイとアルジーの決着
アグレイは後悔からアルジーと戦うことができず、一方的に攻撃されるだけだった。
そこへ到着したキクがアグレイへのみんなの期待を語り、覚悟を取り戻したアグレイはアルジーへと拳を繰り出すのだった。
先に仕掛けたのはアグレイだった。
この両者の脚力には数メートルの距離など無に等しい。
瞬時に間合いを詰めたアグレイが左を打って具合を確かめると、いきなり主砲の右拳を捻じ込んだ。アルジーが上体をしなやかに反らせてやり過ごす。
攻撃を避けるのと連動させたアルジーの左拳の二連打がアグレイの前進を阻んだ。
足を止めたアグレイに向けて、アルジーが牽制の左を積み重ねる。先ほどとは見違える水際立った身ごなしで、アグレイは避け続けた。
アグレイは左半身で矢のような連打をしのぎ、不意に伸びきったアルジーの腕を自身の左腕で押しやり、無防備となった胴体に右拳を送った。
アルジーはこれを読んで退いている。追撃を目論んだアグレイの頭部にアルジーの右蹴りが猛然と迫り、両手を交差させたアグレイがかろうじて防いだ。
まともに食らえば致命傷となる打撃の交錯を繰り広げ、両者は瞬きの静寂を挟んだ。
二人の能力は拮抗している。身体能力の全てにおいてアルジーが一歩抜きんでているが、強化したアグレイの一発は劣勢を逆転させるだけの破壊力に満ちていた。
再び両者が衝突する。
足を止めて一歩も譲らない気迫を漲らせ、拳の応酬を開始した。
二人とも避けてから打つ、などという悠長な手順は踏まない。避ける動作に打撃を連動させている。刹那の遅滞もない拳の交換が目まぐるしく展開した。
攻撃の手数はアルジーの方が多い。触れれば切れそうな超速の拳が空を鳴らし、アグレイに殺到する。
首を曲げてアルジーの右を外しながらアグレイが軽い左拳を放つと、アルジーも左を返してきた。回避できる余裕のないアグレイは肩で受ける。
アグレイの咄嗟の防御が功を奏し、肩に当たった拳が滑ってアルジーの攻勢に隙ができた。アグレイの右の強打が軌道上の桜を砕きながら走る。青き輝きが直線的に流れるさまは、さながら地上の流星の如し。
その一撃はアルジーに届かなかった。アルジーが左肘でアグレイの腕を内側から打って、その進路を変えたのである。
アルジーはそのまま右直拳を打ち、アグレイは右手を引きつつ左鉤打ちに繋げた。
拳が交差して、二人の頬が同時に鈍い音を上げる。
相打ちになった両者は、磁石が反発するように弾け飛ぶ。アルジーは即座に立ち直ったが、アグレイは効いたらしく、膝が折れた。
敵を休ませるほど生易しくはないアルジーが跳躍、急角度で降下すると踵落としをアグレイの頭頂に叩き込む。
寸陰の差で飛び退いたアグレイの代わりに、踵落としは地面を噛み砕いた。地に裂傷が刻まれてその隙間から噴煙を巻き上げる。
その幕を割ってアルジーがアグレイを猛追し、回し蹴りを繰り出した。
かろうじて直撃を避けたアグレイが、逃げの一辺倒から攻勢に移行する。右上段蹴りは難なく躱されたが、蹴りの勢いを殺さずに回転しながら身を沈め、本命の水面蹴りでアルジーの脚を狙った。
アルジーが真上に跳んで脅威から逃れた。
アグレイの攻めは苛烈を極める。空中で身動きのとれないアルジーに、宙返り蹴りが唸りを上げた。この後方宙返りしながら蹴りを決める荒業は、しかし何の手応えも残さない。
天地が逆転した視界でアグレイが瞠目した。
アルジーは、蹴り上げたアグレイの足に着地し、その反動を利用して後ろに飛び退いたのである。人間を超越した体術だった。
距離をとって一息入れた二人の肩に、桜の花弁と静寂が積もった。
キクは固唾を飲んで攻防を見つめている。もはやキクが介入できる領域の戦闘ではなかった。
「お前も強くなったんだな、アルジー……」
感慨深くアグレイが言った。アルジーは、名前を呼ばれる度に瞳のなかの鬼火を困惑するように揺らめかせる。
「なぜだ。なぜ、お前はその言葉を知っている? その言葉の意味は何だ? なぜ、お前は何回もその言葉を言うんだ?」
拙い口調でアルジーが疑問を発する。
アルジーの頭にこびりついて離れない問題はそれだった。『アルジー』とは、何だ。なぜ、あの男がその言葉を知っているのだ。
「アルジーは、お前のことだ。お前の名前が、アルジーなんだ」
「違う。僕は、禍大喰だ。アルジーなんか知らない!」
動転したようにアルジーがアグレイに殴りかかった。それはアグレイの頬を捉え、アグレイがたたらを踏んだ。
だが、踏み止まると今度はアグレイが殴り返す。
「お前はアルジーだ。何回だって呼んでやる!」
拳を顔面に打ち込まれ、アルジーが弾かれたように後退する。
先ほどまでの高等技術など、まるで消え失せていた。それはただの、強大喧嘩にも似ている。
「言うな!」
「うるせえ、アルジー!」
「黙れ!」
「アルジー、昔は俺に殴られたらすぐ母さんに泣きついていたくせに、自分で殴り返せるようになったなんて、根性ついたじゃないか!」
交互に殴り合うアグレイとアルジーは、一進一退を繰り返した。
重い打撃音とともにアグレイが仰け反ると、次はアルジーが炸裂音を響かせて身を折る。だが、勝負は互角ではなかった。アグレイの体力と肉体は限界に達していた。
やがて、アグレイが拳を支えられずに両腕をだらりと垂らす。それを見逃すことなく、アルジーが大振りの一撃を与えた。
呆気なく、アグレイが弾け飛んだ。
「もう何も言えなくしてやる!」
突進の勢いを乗せ、アルジーが全力の一打をアグレイにぶつける。
突然アグレイが前のめりになって、拳が外れた。アグレイの眼光が閃いたのを見て、外れたのではない、アグレイが避けたのだと、アルジーは理解する。
雄叫びを上げて、アグレイが両拳を連打する。
「アルジー! アルジー! アルジー! アルジィィー!!」
拳を打ち込まれるごとにアルジーは退いていく。耐えかねたようにアルジーの頭が下がると、アグレイは渾身の左正拳をねじ込む。
それはアルジーの誘いだった。
アルジーは隙の大きいその一撃を皮一枚の差で顔を掠めさせ、空振りしたアグレイの左に自分の右腕を被せるように拳を放つ。
アルジーの一撃は直撃すれば、アグレイの生命を断ち切るには充分な破壊力だった。
だが、アグレイは、アルジーの拳が視界を埋め尽くすほど近づいても動揺しなかった。
アグレイはアルジーの駆け引きの一歩先を読んでいたのだ。予測通りの打撃に対して首を傾げるという最小限の動作で、死神の掌に掴まれることを拒否する。
空虚な手応えに慄いたアルジーが見たのは、自分に迫るアグレイの手だった。
余力を残していないアルジーは、次の攻撃を恐れて総身を粟立たせる。
その手が急に上へと伸びるとアルジーの頭に優しく置かれ、悲しげに撫でられた。
「ごめんなあ、アルジー……」
アルジーが身を竦めたまま動きを止めた。
いつだったか、こんな光景を見たような気がする。記憶の水底からその映像を引き上げようとしたとき、アルジーの身体を衝撃が襲った。
アグレイが一際輝きを増した右手を思いっきりぶち込むと、アルジーは弓なりの軌跡を描いて吹き飛んだ。
アグレイの拳には、弟に止めを刺した、嫌な感触だけが居座っている。
「う……」
仰向けに寝転んだまま立とうとしないアルジーが呻いた。
アグレイが駆けつけようとしても、足が命令を聞かずにつまずきそうになる。
「くそ! 言うこと聞け! これが、これが最後なんだから……」
アグレイは自身の脚を殴りつけて叱咤し、横たわるアルジーまで走った。
「アルジー? アルジー、ごめん。ごめんなあ。俺は、お前を見捨てて一人で逃げて、終いには殴るしかできなかった、駄目な兄ちゃんだ」
アルジーが片方だけ薄目を開けた。顔の左半分は、アグレイの一撃で破壊されて崩れ落ちている。
その痛々しさに、アグレイは声を詰まらせた。
「アルジー。ごめんなあ」
アルジーは、やっと思い出せた。自分の頭に優しく手を置いてくれた人。界面活性に飲まれるとき最後に見た、母に抱かれて泣き叫ぶ自分に向かって、ひたすら謝っていた人。自分は、ずっとその人のことを呼んでいた。
「ああ、兄ちゃん」
アグレイは、はっとしてアルジーを見た。震えるその手がアルジーに触れようとしたとき、アルジーは淡く発光して塵になっていった。
「待ってくれ、待って……。アルジー……」
アグレイが縋りつこうとしたとき、アルジーの全身は虚空に溶け込んだ。
言葉もなく呆然と、かつてアルジーであった青い微粒子が天に昇っていくさまを、アグレイは見やっていた。
ふと、それまで空を覆っていた灰色の雲が割れ、一条の光が差し込んだ。
光は空を見上げるアグレイの額に当たり、どんどん広がってアグレイを包み込んでいく。
ラスボス、アルジーとの決着です。
最後の技も何も無い殴り合いも王道ですね。
アルジーもただ完蝕されただけの人間なのに、禍大喰になるほど強かったのは、アグレイの兄弟だからでしょうか。
ご都合主g……お黙り!