第45話 キク対前禍大喰
リューシュは立ち塞がるベルを交戦。
ベルの水際立った体術に翻弄されるも、仲間との会話から得たヒントで逆転し、勝利を収める。
二人で先に進むアグレイとキクだが、その前に巨大な影が現れた。
道路の両端にあった建築物は、姿を消していた。その代わりにアグレイとキクを包むのは、手入れのされていない雑木林と濃い緑の匂いだった。
二人の視野には、小高い丘とその上に位置するサクラノ公園が悠然と待ち受けている。
「アグレイ」
「ああ、着いたぜ、キク。この坂を登れば……」
広場となった平地から伸びる緩やかな坂は、雑草のなかを歩道が蛇行して観光客を導いている。登るに連れて細くなる歩道の頂上に、サクラノ公園の入り口が小さく見えた。
そして、その坂道に至る道程をひた走る二人を妨害するように界面活性が出現した。
揺らめく空間から新たな姿が出現する。界面活性から進み出たのは、ユーヴが対峙した赤子の喰禍を凌駕する巨体の持ち主であった。
本体が大きな球体で、そこから四肢が生えている不恰好の喰禍である。その漆黒の巌のような体表は黒光りして、どんな攻撃も受けつける様子はない。球体の中央に目玉があって、真紅の瞳を忙しなく動かしている。
喰禍はどこから発声しているのか分からないが、流暢な言葉を発した。
「この先は、選ばれた者のみ立ち入ることを許された聖域だ。お前達のような下賤な輩が進入できる場所ではない」
「喰禍なのに、話せるの!?」
キクが驚いて双眸を見開いた。
「我らは高度な知能を有している。お前達の言語を習得することなど、容易いことだ。さて、人間よ、この場より引き下がるか、我が面前に平伏すかは自由だ。どちらにしろ、死という運命からは逃れられんが」
「不細工な割に、饒舌じゃねえか」
アグレイが右手を掲げて、喰禍に近寄る。
「選ぶのは、テメエだ。そこを退くか、死ぬかだ」
「人間よ、我が言葉に背かぬ方が賢明だ。前禍大喰、セバスティアン・ブラガ。人間相手に不覚はとらない」
「前禍大喰……」
アグレイは得心して不敵な笑みを見せた。
「そうか。お前がアルジーに負けた禍大喰か。だったら、お前に用はない。俺は、アルジーに話があるんだよ」
アグレイのぞんざいな一言が神経を逆撫でしたのか、元禍大喰ブラガは激昂して両腕を天に突き上げた。
「負けたのではない! いずれ、あの生意気な小僧も跪かせてくれる!!」
アグレイは巨槌のように激烈な打撃を防御する愚を犯さず瞬時に逃れた。ブラガの両拳が地面を陥没させ、その判断の正当性を証明する。
「生憎な、お前に負けるほど安い弟じゃあねえんだよ!」
懐に入ったアグレイが跳躍。光を宿した右拳で本体を殴られると、ブラガは苦しげにアグレイを振り払った。
軽快な動きで着地したアグレイに代わり、ブラガを攻める人影がある。
キクはその機動性を生かし、ブラガの右腕に斬撃を叩き込む。動揺したブラガがキクの後を追うと、その立ち位置が逆転したことに気づき、平静を失って叫んだ。
「人間がぁ!」
アグレイとキクは、サクラノ公園に続く坂道を背にしていたのである。行く手に立ち塞がったはずのブラガは出し抜かれ、人間に進路を確保されてしまった。
怒り狂うブラガを尻目に、キクが囁いた。
「アグレイ、先に行って。あいつは私が倒すから」
「だけどよ、あいつは前の禍大喰だろ? 普通の喰禍と比較にならないほど強いはずだ。一人じゃ、心許ないんじゃねえか」
「何よ! 私が信用できないっていうわけ? ユーヴもリューもあんたを守るために残ったのよ。最後に、私があんたを守って何が悪いっての!?」
「あ、ああ。そうだな。そのうち、ユーヴやリューが来るだろうし。分かった、ここは任せるからよ、キク、頼みがあるんだ」
「何よ?」
「いや、無事でいろよな……」
返事を待たずにアグレイはサクラノ公園への道筋を駆け出した。
「お願いしたくせに返答を聞かないなんて、ズルいじゃない」
笑いを収めると、キクは研ぎ澄まされた視線をブラガに注いだ。
「一匹逃げたか。まあ、よいわ。死ぬ時間が多少伸びるだけのこと」
「逃げたんじゃないわ。あんたより強い相手と戦いに行ったのよ」
ブラガは憤激を言葉ではなく、その拳で表した。
キクが即座に飛び退くと、それまで彼女がいた空間を圧砕し、振り下ろした拳の半分までが地面に埋まる。
まともに食らえば、いとも容易くキクを肉片に変えるだろう威力だった。
その破壊力を目にしても、キクは萎縮することなくブラガの懐に潜り込む。巨体の持ち主だと小回りが利かず、かえって手を出しづらい位置である。
剣と化した右脚をキクが閃かせる。それがブラガの体表に触れた瞬間、両者の間で甲高い悲鳴が響いてキクが体勢を崩した。
「斬れない……」
ブラガの体表には掠り傷すらついていなかった。
これまでキクの右脚の刃を弾いたのは、唯一アグレイの強化した肉体だけであり、ブラガは全身がその硬度を有しているらしい。
攻撃が通用しないと知って、さすがにキクも動揺を隠せない。
「脆弱な人間に我を害することなぞできるはずもない。我は選ばれた喰禍なのだ。我の上に立つ者など、存在しない!」
叫びざまブラガはその巨躯を揺るがせて飛翔した。落下地点はキクの頭上。
慌てて避難するキクの背後でブラガが着地し、そこを起点として同心円状に衝撃が伝播した。キクはその衝撃に翻弄され、塵芥や木の葉にまみれて地を転がる。
「何か有効な手段を見つけないと。勝てませんでした、じゃ済まないんだから」
ブラガの弱点らしきものといっても、残るは剥き出しになった眼球しかない。
その位置は跳躍してようやく届く高さであり、空中にいる間は無防備な姿を敵の正面に晒すことになる。
「躊躇している暇なんて無いのよ。やらなきゃ、殺されるだけだもの」
キクが自身を鼓舞するように呟くと、真正面からブラガに肉迫する。
距離が開いたのでブラガは広い間合いを生かして力任せに拳を振るった。その一撃をかいくぐったキクは真横に跳ぶと、ブラガの右側から左側に抜けるような軌道を描いて宙を駆ける。
渾身の斬撃がブラガの目玉を抉る寸前、身の丈ほどもある掌がキクを弾き飛ばした。
虫を振り払うように雑な攻撃だったが、その一発が直撃したキクは高速回転しながら地べたに突っ込み、その反動でもう一度跳ね上がる。
俯せになったキクは震える手を着いて半身を起こした。常人ならば失神しても不思議ではない衝撃を、キクは耐えた。
「生きていたか。誉めてやろう、人間。我が偉大さを知ったならば、おとなしくしていろ。苦しまずに殺してくれよう」
「うっさいわね……。私が諦めるとしたら、死んだ後のことよ」
キクの声音にはいつもの張りが欠けていた。身体の各所で騒ぐ激痛が、その損傷を主張している。
脳震盪を起こしたのか、視野ではブラガが二体に増えており、風景は色彩が入り混じって混沌としていた。数十秒で回復するだろうが、それは隙だらけの数十秒を必要とすることだ。
その時間をブラガは許すはずがなく、キクを叩き潰さんと片手を振り上げた。必死にキクは勘を頼りにその圏内から転がって逃れる。
「地を這うとは、虫けらには似合いではないか」
ブラガは加虐の喜悦に浸って、懸命に砂煙のなかを泳ぎ回るキクを殺さず、わざと打撃を外していた。
突如、激しい光彩を放つ瞳でキクがブラガを見据える。
「治ったわ。あんた、私に止めを刺さなかったこと、後悔しなさい!」
その迫力は一瞬だけ確かにブラガを圧倒した。
困惑したブラガが中途半端な勢いで拳を叩きつける。それが大地にめり込んで動きが停滞した瞬間を見計らい、キクがブラガの腕に飛び乗ると、それを伝って眼球に接近する。
キクは腕の根本から最短距離でブラガの眼を狙った。鈍い光沢を放つ刃が確実に目玉を捉え、金属質の高鳴りとともにキクが弾き返される。
呆然と尻餅を着いたキクを、真紅の単眼が冷やかに見下ろした。
「目が我の弱点だと思ったか? 浅慮なり。我に死角はない」
ブラガは言った。厳かにして傲岸なそれは、キクにとっての死刑宣告でもあった。
もはやつけいる隙も残されていないキクは、途方に暮れたように硬直している。キクの持ち味である機動性は奪われ、体力は減少していく一方だ。
「今度こそ、終わりだな」
キクを踏み潰そうと、ブラガが高々と足を上げた。体重を乗せた足裏が下ろされたとき、キクは地を蹴って死を免れた。
「見えた……! まだ手はある!」
希望の寄る辺を見出したキクが言葉を押し出した。
ブラガが片足を上げた拍子に、体表に走った亀裂が見えたのだ。その途端、キクはある光景を思い出した。アグレイが拳を打ち込んだ際に見せたブラガの苦しそうな振る舞い。
アグレイが与えた一発の打撃が、ブラガの装甲に微小なヒビを生じさせていたのだ。
「あんた、もう一回跳んでみなさいよ!」
「ほう。望むとあれば、幾らでも。己の非力を、呪うがよい」
ブラガは勢いをつけて天に巨体を踊らせる。
ブラガの上昇がある点で止まり、わずかの浮遊を経て加速しながら落下した。キクの視界で次第に大きくなるブラガ。
その左脇下に刻まれた傷を目がけて、キクは余力を振り絞って跳躍した。
「む?」
キクの不可解な行動にブラガが息を飲む。
空中で一回転したキクの回し蹴りは、ブラガの傷に寸分の狂いもなく命中した。静かに両者は交差する。
ブラガが着地すると、大地を衝撃が鳴動させた。
だが、その威力を体内で相殺できず、ブラガの身体に斜線が走る。切断面がずれて、キクの脚に両断された上部が滑り落ち、下半身は膝を折って崩れた。
「このセバスティアン・ブラガが人間に敗れたのか。受け入れるしかあるまい。……だが、人間よ。もしかすれば、私に殺された方がよかったと後悔することもあろう。現在の禍大喰たるあの小僧は……」
全てを言い切ることなく、ブラガは消滅していった。
キクは丘の頂上を振り返った。
アグレイの背中を追って、遅くても着実な足取りで歩みを進める。
気を失う前に辿り着けるだろうかと、キクは不安に思った。
キクもタイマン対決がありました。
しかも、前禍大喰という強そうな相手でしたね。
キクの足の剣でも斬れないのは強敵でしたが、所詮はアルジーに負けた喰禍。
小物っぽい最期を遂げました。
この辺、仲間たちが一人ずつ残って意味があるのか、とも思えます。
一応、最後の方で意味があったのですが作中で説明されていないので、覚えていたら説明致します。