第4話 青空を知らない世代
助けた少年の名前はレビンだった。
アグレイはレビンが住む孤児院へと送りがてら、無邪気なレビンと会話する。
つい先ほど助け出した少年を連れて、アグレイは街中を歩いている。
巡回していた場所と違い、この通りは通行人の姿が目立つ。道路も補修され、よく利用されているのだということが分かった。同じ街でも、随分と様子が変わっている。
「まったく、面倒なことを押しつけられたもんだな」
アグレイは落ち着きなく辺りを駆け回る少年の首根っこを捕まえ、無理矢理引き戻して隣に並ばせる。
「うろちょろすんなよ、ボウズ」
「痛いなあ。子どもには優しくしなきゃいけないって、お姉ちゃんが言ってたよ」
少年は機嫌を悪くしたように頭の後ろで両手を組んだ。
侵蝕に襲われた恐怖から、今まで口数が少なかったのだが、アグレイが帰り道を送っているうちに元気をとり戻したようだ。屈託のない奔放な振る舞いが少年の本来の姿らしい。
年相応の無邪気さを見せつけられては、気難しいアグレイも安堵の吐息を漏らさずにはいられなかった。
フリッツは統括府に残って報告書の作成をしている。
フリッツはそれを仕上げて今日の仕事は終いにするつもりなのだろう。余った勤務時間は、暇な人間を見つけて雑談で潰すつもりだ。
仕事で楽をすることにかけてはフリッツの右に出る者はいない。それ以外の点で、フリッツが他人の右に出ることもないのだが。
少年の子守という不得手な役目を仰せつかったアグレイは、できるだけ早くその任を終えるために少年を急かして歩みを進めていた。
「ボウズ、家はこの辺にあるのか?」
「うん、近くにね。それとさ。僕はボウズじゃなくって、レビンって立派な名前があるんだから、そう呼んで欲しいな」
レビンが金髪に覆われた頭を傾げ、青空にも似た紺碧の瞳で見上げてくる。
青空か、とアグレイは思う。
この街、イフリヤに侵蝕が初めて起きたのは十二年前だ。レビンの外見は、十歳かそれに届くかどうかくらいである。
つまりは、青空を見たことが無い世代だ。レビンにとって空とは、視界一面に広がる灰色の壁でしかない。雲の向こうにあるはずの太陽や月は、絵本や大人の昔話でしか知れず、レビンの想像力でも向こう側の存在だ。
この子が自分の瞳の色を比喩するとき、一体何と表現するのだろう。
「分かったよ、レビン。だが、お前は何であそこにいたんだ? 北側の地区は侵蝕が進んでいて界面活性が多発しているから、一般人は立ち入り禁止になっているのを知らなかったか?」
「それが、迷子になっちゃってさ」
「お前な、そんなんで通用すると思ってんのか」
言下に嘘だと断じられたレビンは心外だったのか、抗議するように両手を広げた。
「本当だよ。もちろん立ち入り禁止なのは知ってたけど、何だか不気味な人がいたからさ」
アグレイが眉根を寄せる。
当時、あの周辺にいたのはアグレイを含めて警備隊だけだったはずだ。不審人物の目撃情報もない。警備隊の一員ではと疑うアグレイは問いを発する。
「具体的に、どういう奴だったんだ?」
「男の人っぽかったんだけどね、髪が長くて、ぼろぼろの服を着てたんだ。あんな危ない場所を一人で歩いているのも変だし。その……興味が湧いちゃって。ちょっと追いかけてみたんだ。そしたら、いつの間にか知らないところにいて、男の人もいなくなってた」
警備隊は通常二人一組で行動する。界面活性を発見した際、一人はその対処をし、もう片方は周囲に異常を知らせたり応援を呼んだりするためだ。
単独で行動していたとなれば同僚ではないだろう。人間の姿をした異常者にアグレイは心当たりがある。レビンが目にしたのがその存在であれば、無事に済んだのは僥倖だ。
「ま、危なそうなことには近づかないのが身のためだ。もしお前の身に何かあったら、親や姉貴が悲しむってことくらいは分かるだろ?」
「……? ううん。親はいないよ」
思わずアグレイはレビンを見やったが、その先で少年の余りにもあっけらかんとした顔と出会い、わずかに戸惑った。
「僕は孤児院に住んでるんだ」
「……そうか。悪いこと言っちまったな」
歯切れ悪くアグレイは声を押し出した。レビンの表情には何の痛痒も浮かんでおらず、さして気にしていないようだったが、迂闊であったと自省する。
イフリヤに限らず侵蝕地帯には親を失った孤児、いわゆる侵蝕孤児が数多く存在している。満足な暮らしを送る子どもの方が少ないのに、安易に言葉を発したとアグレイは後悔した。
アグレイの後悔はレビンにも伝わったようだ。心配をさせまいと努めて明るく言う。
「でもさ、キクお姉ちゃんがいるから寂しくないよ」
「キク……お姉ちゃん?」
「そう。僕達のお世話をしてくれている人。本当のお姉ちゃんじゃないけど、僕のお姉ちゃんだし、みんなのお姉ちゃんなんだ」
レビンはその女性が誇らしいのか、胸を張って答えた。
「僕達には優しいんだけど、他の人が来ると怖い顔をするときがあるんだ。もし、お姉ちゃんが怖い顔をしても、嫌いにならないでね?」
年齢に不相応な配慮を見せるレビン。アグレイは笑みまでとはいかずとも、心持ち頬を上げて柔らかさを表情に加えた。
「レビンの姉貴なら、俺も嫌いにはならないさ」
「うん、ありがと」
気をよくしたレビンが話を続ける。
「そうだ。さっきの戦い見てたけど、強いんだね。喰禍をあんな簡単に倒す人なんて初めて見たよ。どうしたら、お兄ちゃんみたいに……」
「俺のことはアグレイと呼んでくれ」
アグレイがレビンの声を遮った。
一瞬だけアグレイの面上に浮かんだ苦痛、苦悶、自責の入り混じった複雑な感情は、レビンが目を向けたときには霞のように消え失せている。
だが、子どもは意外と大人の反応に敏感だ。
「僕……何か変なこと言った?」
恐る恐るアグレイの顔色を窺いながら尋ねた。
「……」
アグレイは言葉を返さずに、レビンの頭に手を伸ばす。そして、豊かな金色の頭髪を思いっきりかき回した。
「うわ! ちょっと、止めてよ!」
慌ててアグレイの掌から逃げ去るレビン。走ってアグレイの手の届かないところまで行くと、後ろ向きに歩きながらアグレイを見据えて手櫛で髪を整える。頬を膨らませて怒っていた。
「ひどいなぁ、急に何すんだよ」
「男は下らないことで怒らないのさ」
これはレビンではなく、自分に向けたものだろう。レビンもそれは感じたようで、透明の手で胸を撫で下ろすように嘆息した。
界面活性を退け、喰禍を軽々と倒すアグレイの能力は、侵蝕によって授けられたものだ。侵蝕は空間や物体だけでなく、生体すら変異させる。
侵蝕が人体に及ぼす影響は甚大で、界面活性に身体の一部でも飲みこまれてしまえば、その部位は変質して尋常のものではなくなる。
例を挙げれば、四肢が異形へと変形してしまったり、体色が変わったりする。しかも、物体でも生物であっても一度変質すると、その箇所から徐々に変異が広がっていく。
その症状は、まさに侵蝕と呼ぶに相応しい。
また、生物への影響は身体面のみではない。侵蝕の程度が深まれば、その精神にも異常を来す。人間であれば、理性の制御を失って暴走を始め、あたかも喰禍と化したかの如く他者に対して攻撃を加える。
完全な侵蝕、完蝕の状態になった者は喰禍と同様に扱われる。そのため侵蝕だけでなく、それに侵された人物までもが忌避されることになった。
侵蝕を受けた者は一ヶ所に集められてその居住区も隔離された。世界中どこでも考えることは同じで、被侵蝕者が集う街は無数に築かれていた。
このイフリヤも、その一つでしかない。
イフリヤに限ったことではないが、表向きは被侵蝕者の違法な逃亡を防止するという名目で、街の外周は長大な外郭で囲まれている。
結局、『壁』の外側の奴らにとって、俺達と喰禍は同類ということだ——。
レビン、コロナ渦を過ごした小学生みたいな感じでしょうか。
当時の子どもたちは大変だったでしょうね(しみじみ)