第33話 侵蝕への打開策
アグレイたちが巡回中に完蝕状態の人間に出会う。
その人物に近づいたアグレイは、アルジーの面影を宿す男に一撃で失神させられる。
さらに男は立ち向かってきたユーヴとリューシュを倒し、強力な界面活性を生み出して消え去っていくのだった。
アグレイが意識をとり戻したのは、統轄府の医務室においてであった。白い清潔な布と医薬品の鼻を突く匂いのなかで、アグレイは目を覚ました。
アグレイが上半身を起こすと、目隠しの仕切りで覆われた空間には、彼の他にもう一人、背もたれのない椅子に座るキクがいた。
キクは、うつらうつらと顔を上下させている。アグレイが起きても気がつかず、アグレイは手を伸ばしつつ呼びかけた。
「キク」
その声に首を跳ね上げたキクは、自分に迫る掌を目にすると慌てて仕切りの外に姿を消した。
「わあ、キク! 違うぞ、別に変なつもりは……」
「起きたばかりで騒いではいかんぞ、君」
代わりに答えたのは初老の男性だった。
白衣と髭に加えて顔色まで白い男は、この医務室を預かる医師であった。
医師に眼球と喉を覗きこまれ、胸に聴診器まで当てられるアグレイを、キクは後ろから心配そうに見ている。
「うむ。命に別条はないが、安静にさせなさい」
「ありがとうございました。何か気をつけることはありますか」
「うむ。大声を出させないようにな。ここ、医務室だから」
「おい、医師、それは俺に直接言いやがれ」
医師が去ると、キクが再びアグレイの傍らに腰かけた。
「キク、俺はどれだけ寝ていたんだ?」
「丸一日と、数時間くらい」
「そんなにだと……?」
キクは手短に、アグレイが気絶してからユーヴとリューシュが男の手に倒れ、界面活性を防ぐことよりも仲間を搬送することを優先した自身の行動、ばぁばに帰宅できない旨の連絡をしたことを説明した。
そのとき、医務室の扉が盛大に開く音が高く鳴った。
「キク君、アグレイ君の容態はどうかね?」
小さい密室にユーヴとリューシュが入ってきた。
リューシュは目立った外傷は無いが、ユーヴは額に包帯を巻いている。さらに肩を負傷したのか、左腕の動かし方がぎこちない。軽傷ではないはずなのに、キクとリューシュが看破できないまでに平気そうに見せていた。
「あら、目覚めましたのね、アグレイ。よかったこと」
「キク君はずっとつき添っていたのだ。感謝するんだぞ」
余計なことを、とでもいうようにキクがユーヴを一睨みする。
それを受けて、後頭部に手をやり愛想笑いを返すユーヴを、アグレイは単純に見直した。このときばかりは助け船を出す。
「そうか、ありがとよ。キク」
「別に、お礼を言われるためにやったんじゃないし」
キクの視線の鋭鋒が逸れると、ユーヴが胸を撫で下ろした。もう一脚の椅子にリューシュを座らせると、自身は立ったまましかつめらしく切り出す。
「さて、ここからが本題だ。アグレイ君が寝ていたこの一日の間に、えらいことが起きている」
「何だと?」
「僕達を襲ったあの男がイフリヤ市内の各地に出没している。以前、みんなで蟲騎士達と戦った大通りに現れたり、イフリヤの西端だったりと、その出現場所は一貫性がない。これまで姿を見せたのは九カ所で、かなりの被害も出ている」
「被害ってのは?」
「彼の存在が確認された地点は、全て界面活性が発生している。強力な界面活性だったらしく、すでに侵蝕が定着している。被害は、一般人二〇余人、警備隊と警官が四一名だ」
アグレイとキクの二人が息を飲む。まさか、この一両日中にそのような惨事が続出していたなどと、知る由もなかった。
「わたくし達を倒したその足で空間を渡り、大通りに現れたようです。あの男は積極的な攻勢に出ず、界面活性をもたらすことに専念していたというのが、現場に居合わせた警備隊の方の話です。そのおかげで、わたくし達も助かったようですが」
リューシュも心痛を隠せないようで、翡翠の双眸に陰りが混じっている。
アグレイの横顔に自責と自嘲が走った。責任感の強いこの男は、仲間を危険に晒し、人出が必要なときに警備隊として職務に携われなかったことを悔いている。
「最大の問題は、侵蝕された地域が新しく増えたことだ。そこを橋頭保として、いつ喰禍が攻めてくるやら……」
「何それ、どういうこと?」
独語したユーヴにキクの問いが飛んだ。
「ああ。界面活性はね、いきなり遠くの場所に発生させることはできないんだ。一定規模の空間が侵蝕された中継地点を必要として、ある範囲内において発生させられる。その中継地点からの距離と、界面活性を発生させるための力は比例する」
一同が沈黙し、ユーヴが言葉を続ける。
「つまり、中継地点から近い場所より、遠い場所の方が大きな力を要するらしい。勿論、界面活性の規模によっても必要な力は変動するがね。
ま、簡単に言えば、喰禍どもはその中継地点を九カ所手中にし、より多くの界面活性と喰禍を送り込んでくるだろう、ってこと。ボイエン教授の『界面活性。その範囲と規模に関する考察』を読めば分かることさ」
得意気に胸を張るユーヴをよそに、アグレイは沈痛な面持ちで手を額に当てる。
これまでの状態でも人間側の劣勢で、イフリヤが徐々に侵蝕されつつあったのだ。より事態が悪化しては、界面活性や喰禍を迎え撃つだけの処置では、対抗できないではないか。
「くそ……! 何とか、この街を守る方法はないのかよ……!?」
「そう悲しまないで下さいな。まだ、終わったわけではありませんわ。この街を救う手段は残されていますもの」
「本当か、リュー‼」
琥珀の瞳が縋るように、この期に及んでも端然とした女性に注がれる。普段ならおっとりしているだけの姿が今は頼もしく、流麗な金髪と相まって後光を放っているようにすら見えた。
「ええ。容易なことではありませんが、たった一つだけ」
「うむ。リューシュ君、僕も同じことを考えていた」
「何なの、その方法って?」
キクも熱を帯びた声音で答えを急かした。キクにとっても人々が傷つくこと、そしてレビンが失われるのは耐え難いことであった。
リューシュが、ややもどかしいほどゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それは、〈禍大喰〉を斃すことですわ」
その結論を聞いてアグレイとキクが浮かべたのは歓喜ではなく、頭上の疑問符だった。
「あら、お二人ともご存知ではないですの? 禍大喰とは、ある地域の喰禍を統べる、いわば喰禍の司令官ですわ。管轄の地域で界面活性を発生させて、侵蝕地帯の領土を広げるのも禍大喰の役目です」
「補足すると、喰禍に命令を下すのと界面活性を発生させる能力を一手に担う禍大喰を斃せれば、指揮系統が麻痺して喰禍どもは撤退していくってわけだね」
「本当に、そんなことが?」
アグレイはまだ信じられないといった様子で二人に視線を往復させる。
「大丈夫だ、信じたまえ。僕がこの街を訪れた理由はね、イフリヤを侵蝕から解放するためなんだ。信じてくれるかい」
「わたくしも、同じです」
「何で、イフリヤを助けにきたの?」
リューシュはいつもと変わらず、悠然と微笑んだ。
「イフリヤを目的としたのではありませんわ。ただ、わたくしはこれまで旅を続けてきて、禍大喰を斃した経験があったもので。この街も助けたいと思ったまでのことですの」
「僕も、禍大喰を斃して侵蝕が止んだ事例を目にしている。実績はあるからね、君達の役に立てるはずさ」
「そうだったのかよ。……まだ、希望はあるんだな」
アグレイはキクと目を合わせる。
「よし。じゃあ、早速その禍大喰とやらを斃しに行こうぜ! 俺達なら簡単だろ! なッ」
「いえ、少し問題が……」
賛同に淀みを生じさせたリューシュが言う。
「禍大喰がどの喰禍なのか特定しなければなりませんし、その所在も掴めていませんわ。まずはそれを調べるのが先決だと思いますの」
侵蝕を止めるための方法がユーヴたちから語られます。
侵蝕を司る各地のボス、禍大喰を倒すことで侵蝕が止まります。
ユーヴやリューシュが旅をしているのも、この禍大喰を倒して人々を助けるためでした。
問題はこの禍大喰がどの喰禍か、ということのようです。
本当にこういうときに知識人二人は説明役で助かります。