第31話 桜のなかに潜む者
実力を認められたキク、ユーヴ、リューシュはアグレイと一緒に警備隊として働くことになった。
家でも賑やかに暮らすことになり、それまで荒んでいたアグレイの生活も明るくなり始める。
一方、桜に包まれるある場所で何者かが会話を交わしていた。
イフリヤで最初に界面活性が発生し、現在は最も侵蝕が進んでいるサクラノ公園に、その男がいた。
長身を薄汚れた衣服で包んでおり、漆黒の瞳と頭髪をしている。瞳孔の奥には、青白い鬼火が宿っていた。
アグレイやレビンがその姿を見れば、界面活性と前後して出没していた例の男だと判じるだろう。
男は何をするでもなく佇立しているだけだった。
彼にとって、このサクラノ公園は安らぎの場であった。記憶を残していない彼が唯一鮮明に想起できるのが、ここの桜である。
彼が手に入れた力によって、サクラノ公園には季節を問わず年中桜が咲き誇っていた。
花弁が舞い散り、風の流れに踊り狂う模様で視界が埋め尽くされると、胸が蠕動するような言いようのない感覚に襲われる。
人間であればそれを至福と表すのかもしれないが、彼にはその観念は存在しなかった。 薄紅色の小片に優しく身体をなぞられると、耳にこびりついた幻聴のような声が聞こえる。
「アルジー。アルジー……」
この声の主は誰であったか彼には思い出せない。自分も叫び返していたようだったが、なぜそんなことをしていたのか。
厚い雲に隠された空のように、答えは窺い知ることができない。
いつの間にか、彼の傍らに幾つかの影が寄り添っていた。
巨大なものと小さいもの、三つの人影。そのうち、席次が一番高位の巨大な存在が彼に語りかけてきた。
『蟲騎士を指揮官とした先遣隊が全滅させられた由』
『目的は達したか』
彼は尋ねた。その会話は空気を介する声音ではなく、思念でなされている。
『否。一隊は橋頭保の構築に失敗せり』
『敵は何匹だったか』
『四匹の由にて』
彼は考えた。先遣隊の規模は小さくなく、人間の反抗があっても充分に任務は達成できたはずだった。知らぬ間に、人間はそれほど力を備えていたのだろうか。
イフリヤを含む通称〈曇天区〉と人間が呼ぶ一帯の喰禍と界面活性を彼は統率している。
彼に課せられた役割は、彼の管轄内で人類に残された居住区を侵蝕することだった。つまり、イフリヤの占領である。
わずかの考慮を経て彼は答えた。
『界面活性の足がかりとなる地点は、我が直々に赴いて確保せり。貴官らはその後、各自散開して人類を掃討すべきこと』
『了解。兵士の配置は如何』
『貴官の采配に任せり』
『命令を受諾せし』
言い残して巨大な影は消えた。
あれは元々この地域の支配者であったが、彼の猛威に屈して配下となったのだ。
そのせいか反発的な態度も多い。だが、彼にとってはどうでもよいことだ。いつでも滅ぼせる程度の相手だ。
近々、イフリヤの人類に大攻勢をしかける予定がある。彼はその準備をせねばならない。
「兄ちゃん」
彼は意図せず口から言葉を発した。
何の意味かも分からないその言葉は、発作のように彼の声帯を震わせる。発音すれば、桜と同じように甘美な心地が彼に去来するのだった。
彼はしばらくその快感に身を委ねようと、ずっとその場に立っていた。
絵に描いたようなボスの登場です。
ボスは、キクの孤児院が壊滅したときにアグレイが見た人物と同じ見た目をしていますね。
それに「アルジー」という言葉を知っているのはいったい?