第25話 旅人リューシュの、のほほん紀行
自称詩人のユーヴを仕方なく自宅に泊めたアグレイ。
ばぁばは一対一でユーヴと会話し、信用に足る人物であることを見抜いていた。
一方、キクは買い物に出かけた先で不審な女性を目撃する。
キクは、現在居住している地域の地理に疎かったため、買い物に手間をとった。
問題はキクが仕事を終えて、重い荷物を下ろして休める場所を探していたときに起こる。
小休止する地点を探しがてら、周辺の地理を頭に入れておこうと散策していたキクの眼前に、その女性は現れた。
広場に幾つかの長椅子が置かれ、敷地の中央には噴水が設けられている。
キクは長椅子の一つに腰かけ、荷物を傍らに置いた。
ささやかな面積の公園にはキクの他に、噴水の縁に座っている女性しか人影はない。その女性が何を思ったか、キクの前に進み出て話しかけてきた。
「すみません、つかぬことを伺いますが、この街に宿屋はありませんでしょうか?」
「え……?」
キクは驚いて女に目を向けた。イフリヤに宿屋が存在しないことは、周知のことであったからだ。それを知らないとなれば、当然イフリヤ以外の出身である。
入境者の存在を知らないキクは、困惑するだけだった。
目を見開いたキクを気遣い、女の方から会話の続きを始める。
「あら、失礼しました。わたくしってば、名乗るのを失念しておりましたわ。ご容赦遊ばせ。わたくし、リューシュという名前です。この街に来て、まだ日が経っておりませんの。宿屋がどこにあるか、ご存知ないでしょうか?」
二十代前半の女性であった。
リューシュは、異性であれば思わず見惚れ、同性であれば嫉妬するほどの端正で気品ある容貌だった。
陽光を織りこんだような輝く金髪と穏やかな翡翠の瞳を有している。どこか温室育ちで世間知らずそうな雰囲気を漂わせていた。
背中には身の丈ほどもある大きな木製の『何』かを背負っていた。キクの知る由もないことで、それは巨大な弩という射撃の武器であった。
「この街には宿屋はありません。全部廃れてしまって」
「まあ、そうですの? 困りましたわ」
あまり深刻ではなさそうにリューシュは小首を傾げた。
「あ、私はキクというんですけど、統轄府に客室があるみたいですよ」
「キクさんですか、いい名前。よろしくお願いしますわ」
「はあ、よろしく。それでですね……」
「統轄府の客室って何ですの?」
どうにも会話が噛み合わず、掴みどころのない女性だ、とキクは思った。同時に、見知らぬ土地で困惑している女性を放っておけないとの義務感が、心の内奥で燃え始める。
キクは丁寧に統轄府のこと、手続きをすれば設けられた客室を利用できることをリューシュに説明した。居候してからアグレイに聞いたことがある。
「……でも、あそこは雑然としていて居心地が悪そう。もっと静かな場所はないかしら」
そう言ったリューシュの台詞は、さりげなく贅沢な物言いではあるものの、キクは別の理解を示した。
目の前のおっとりした女性が、アグレイやフリッツのような男どもが集まる、とキクが先入観を抱いている、統轄府に行くのは危険である。
しかも美人だ。これは危ない。
「今までは、どこで寝ていたんですか?」
「ええ、そこですわ」
リューシュはしなやかな指をキクに向けた。いや、その下の長椅子を指し示した。
「ここですかッ?」
「ええ。ほら、そこが寝ているときの涎の跡です」
可哀想ッ……。キクは胸中で叫んだ。
苦境が自分のことのように、目には涙の膜が薄く張っている。キクの動力源は不憫な他者を救済したいとの願望に顕著な反応を見せるのだ。
このときも、キクの心の燃料に火が点いていた。
警察と警備隊が哨戒しているが、治安は必ずしもよいと評せない。
しかも、界面活性や喰禍なんかが発生したら、どうするのか。こののんびりした女性のことだ、逃げ遅れてあたら命を失うだけではないか?
やや失礼な想像を膨らませ、キクは使命感を心身に漲らせる。
キクが勢いよく立ち上がり、その迫力はリューシュすらたじろがせるものだった。
「リューシュさん、家に来ませんか? 私、あるお宅に居候しているんですが、そこの主人であるお婆さまが親切な方なんです。頼み込めば何とかなるかもしれません」
「まあ、嬉しいですわ。そのお誘い、甘えても構いませんかしら?」
「はい。リューシュさんの境遇を説明すれば、きっと分かってくれます」
リューシュは端麗な眉目を笑顔で輝かせ、両手を広げて回転しながら軽やかに身を躍らせる。流麗な金髪が金色の粒子を振りまいて、眩しいほどだった。
リューシュの無垢な挙動は、芝居がかっていても自然なものに見える。
「何て嬉しいことかしら! この街にきて初めてお友達ができましたわ。今日は素敵な日ですこと!!」
その後、キクはリューシュを連れて帰路を辿った。
「リューシュさん……」
「わたくしのことは、リューと呼んで下さいな。わたくし達、もうお友達でしょう」
「リューシュさ……、いえ、リュー、私のこともキクと呼んで下さい」
それだけ言ってキクは口を閉ざした。それ以上は感激のあまり声にならなかったのだ。
人生の大半を孤児院で過ごしたキクにとって、満足に語り合える同世代の女性はいなかった。まして、孤児達を養う立場になってからは、友達などという相手を持つ余裕は無かったのだ。
その初めての友人に、キクは忠告する。
「変な男が二人いるけど、そのことは気にしないでね」
最後の仲間、リューシュの登場回です。
フランス人女性のイメージ。
ユーヴに並ぶ知識人キャラでもあります。
一人くらい、穏やかでお花畑な人がいたっていいじゃない。