第23話 自称詩人ユーヴ登場
傷心から立ち直ったキクは、レビンの住む孤児院まで出かけられるまでになる。
レビンは、元気になったキクを目にし、男の約束を守ってくれたとアグレイに笑みを見せたのだった。
アグレイも家と職場の往復だけという無味乾燥な人間ではない。
数日に一度はフリッツの誘いに応じ、居酒屋で酒杯を傾けることもあった。
ここ最近は心配すべき事柄が多くその機会を見送っていたが、アグレイは久しぶりにフリッツと酒を酌み交わしていた。
その居酒屋は木製の内装で落ち着いた雰囲気をしている。広い店内には幾つもの円卓が据えられ、給仕の女性が忙しく酔漢たちの間を縫って働いていた。
アグレイとフリッツも円卓の一つに座り、貝の乾物や干し肉を肴に麦酒を飲んでいる。
「今日は随分と機嫌がいいようだな。ほれ、もう一献」
「ん、済まない。分かるか、やっぱり。何だか知らんがキクが元気になってな。俺もようやくレビンとの約束を果たせたし、胸が軽くなってよ」
何もきっかけがないのに元気になるわけもないだろう、フリッツは思っても口には出さない。友人の気分を壊すこともないし、どうせばぁばの功績だろうと推測もできていた。
アグレイが一息に杯を干すと、再びフリッツは酒を注いでやる。
「おう、悪いな」
酔ってもアグレイの所作に乱れはない。ただ、顔は赤く染まって相当な酒量を語る。酔いが表面に出ない質の男のようだ。
対してフリッツは頬にも赤味を帯びることなく、平然とにやけ面を浮かべている。
「酒だけはあいつに敵わねえ」
そうアグレイに言わしめた男だった。『だけ』、という言葉が公正な評価であることに多くの者が納得している。
「そうだ、お前は入境者のこと聞いたか?」
「いや?」
アグレイは興味を引かれてフリッツに顔を寄せた。店内は混雑しているほどではないが、酔漢同士の会話は自然と声高になり周囲は騒がしい。
「つい昨日、入境許可を得て外部の人間がイフリヤに来たんだとよ。それも二人だ。別々に来たから、他人同士らしい。片方は自称詩人の変わった男で、もう一人は美人だけど世間知らずそうな女だってよ。こんなの初めてだって、課長も驚いていたぜ」
警備隊の課長は禿頭の中年男で、実戦に出ないが隊員の報告に基づいて警備の地域を采配し、総督と隊員の橋渡しとなる役職だ。
あの感情に乏しい中年ですら驚いたか、とアグレイは別のところに驚愕した。
「確かに聞いたこともないな。ここ数年で何人かしか外部の人間を見てないぜ。それが、一日で二人だと?」
「面白いと思うだろ」
「お前の話だと、どっちも変人らしいじゃねえか。大丈夫かよ、そんな奴らを街にいれて」
「一応、許可を通過したんだ。人格は知らないが、危険性はないと判断されたんだろう」
「ま、いいか。問題なんて、このイフリヤには山積していることだし。それよか、もっと面白い話題はないのかよ」
「よくぞ聞いてくれた。実は俺のとっておきの話があって……」
「そうだ。ちょうど昨日、俺とキクでレビンを訪ねたんだ。お前には感謝するぜ、あんないい場所を手配してくれたんだからな。だけどよ、帰りにキクが俺とレビンの内緒話を知りたがってよ。だから女は不粋なんだよな。別にたいそうな内容じゃないんだぜ……」
フリッツは、やや興醒めした表情で友人の話を聞いていた。
アグレイは仕事を終えて帰宅するところだったが、その足どりは重い。
キクが元気をとり戻したのはよくても、頭の上がらない女が家庭に二人もいては、アグレイは敷居を跨ぎづらい。
引きずるように足を自宅に向けるアグレイの前に、その男が現れた。
アグレイの居住する集団住宅の入り口の前に現れたというよりも、単にそこにいただけとの表現が相応しい出で立ちだった。
薄汚れた布を纏って道路に寝転んでおり、アグレイは立場上看過することができず面倒そうに声をかけた。
「おい、あんた。どうかしたのか? おい! 酔っているのか?」
「何だね、いきなり。人が気持よく眠っているところを」
男は緩慢に起き上がりアグレイに顔を向けた。
二十代後半だろうか。焦げ茶色の頭髪と瞳を有し、端正だがどこか甘ったれた顔立ちをしている。うだつの上がらない駆け出しの学者とでも形容できそうだった。
「こんな道端で寝る奴があるか。お前の家の寝台が地べたより寝心地悪いんじゃなけりゃ、早く帰るんだな」
「うむ。君の言葉は粗野だが、面白い表現をしているな」
男が目を輝かせて評し、アグレイは虚を突かれたように眉をしかめた。
「君の主張はもっともだが、残念なことに僕には家がないんだ。何せ、この街には来たばかりでね。そうだ、宿屋を知らないかな? 探しても見つからんのだよ」
アグレイが閉口したのは、この男の話し方にも理由があるが、フリッツの話を思い出したからだった。
例の入境者だろうか。変わった男というのは該当している。残りの項目は……。
「イフリヤには宿屋はない。それより、あんたは何をしている人なんだ?」
それを聞いた途端に男は立ち上がると、したり顔を浮かべて高々と宣言する。
「よくぞ尋ねてくれた。僕は……そう、詩人さ!」
こいつだ。
「お前が入境者か……。俺は統轄府警備課警備隊所属のアグレイだ。イフリヤに入った以上、奇妙な行動は慎んでもらいたいんだが」
「ほう、アグレイ君か。自己紹介されたからには、僕も名乗る必要、いや義務が生じたわけだ」
相手の伝えたいことを無視して、自分の言いたいことだけを語るのは、この男の特質だろうか。
短気ではあっても不当に怒りを覚えないはずのアグレイの額に青筋が浮かぶ。
「そう、僕こそ流浪の詩人にして、啓蒙の旗手! 風とともに歩み、雲とともに流れ、知識という名の種子を世界に育む。その名は、ユーヴェ・フォン・シュリーフェン! 現在二八歳にして、世の女性には吉報となる未だ独身さ。あ、署名いる?」
「いらん」
アグレイは有無を言わさず、ユーヴェ・フォン・シュリーフェン氏の胸倉を丁重に掴み、一気に締め上げた。
「ぐえ。君、ら、乱暴は止したまえ」
「お前、『流浪の詩人』だか知らんが、ただの住所不定無職じゃねえか。お前みたいな怪しい人間を街中に放っておけるかよ。留置所に連行してやる」
「待ちたまえ、ちゃんと許可はとってあるんだ」
男が焦って懐から出した許可証を見せられると、アグレイも唸りながら解放せざるをえない。それでも、相手を射るような眼光の鋭さは変わらなかった。
「ちッ、だがお前……、えーと」
「僕は高貴な人間だが、君のような一般人と壁を設けないことにしている。僕のことは気軽に愛称で、ユーヴと呼んでくれて構わない」
ユーヴへと本能的に躍りかかろうとした左手を右手で抑えつつ、アグレイは言った。
「ユーヴ、こんなところで寝られたら困るんだよ。イフリヤに宿屋はないから、その代わり統轄府に客室が設けられているんだ。手続きすれば使えるし、そこを利用してくれ」
「それは聞いたんだが、いざ入ってみたら、二部屋とも先客がいてね。にやけ面をしていた男に満室だって教えられたんだ」
「フリッツ……!」
客室を不法占拠している不良職員を恨み、アグレイは怒気を乗せて友人の名を呼んだ。
このままユーヴを放置することにアグレイが危惧を感じていると、ユーヴは恐るべき提案を発してきた。
「僕としてはどこで寝ても構わないんだが。これも何かの縁で、君のところで厄介になれないかな。君、統轄府警備課警備隊所属のアグレイ君なんだろう。路頭に迷った人間を保護するのも君の義務なんじゃないのかい?」
聞き流したかに見えて、アグレイの名前どころか所属まで覚えているのはユーヴの知性に寄るものだろう。
役職と名前を覚えていることを明言しつつ、自身の願望を口にしたのは一種の脅迫にも似ている。
「悪いが家には居候が一人いるからな。これ以上は無理なんだ」
「一人増えるも二人増えるも一緒だよ」
「お前が言うな……!」
アグレイは冷たい汗が額を流れるのを感じた。キクの場合は深刻な事情があり、ばぁばもそれを読みとったからこそ、キクを家庭に置いているのだ。
こんな変な野郎を連れて帰っては、アグレイの正気が疑われてしまう。
この男が寝ていたところを見過ごせばよかったが、まさかもう一度ここで寝ろとは、起こした張本人であるアグレイは言いづらい。しかも素性を知られたのは不覚であった。
観念したアグレイには、念を押すのがせめてもの反抗だった。
「いいか、今日だけだからな」
「うむ。分かった」
二人目の仲間、自称詩人のユーヴが登場します。
異世界ですので仮ですが、ドイツ人のイメージです。
フリッツに並ぶ作者のお気に入り。
ユーヴは率先してボケてくれるため、いるだけで場が明るくなる貴重な存在です。
詩人を自称するだけあって知識人でもあり、説明役としても重宝します。
かなり重要な役回りも演じてくれ、ユーヴ無しではアグレイたちは詰んでたと言っても過言ではありません。