第18話 キク、アグレイの家へ
はぐれ孤児院が界面活性によって崩壊。
可愛がっていた子どもたちを失い、意気消沈するキクだったが、レビンだけは生きていた。
アグレイはフリッツに頼んでレビンを移す孤児院を斡旋してもらう。
一方、アグレイはキクを自宅で休ませることにした。
アグレイは通りから二人の姿が消えると、キクに向き直る。
キクは、アグレイとフリッツのやりとりを遠目にしても、我関せずというように呆けた視線をどこにともなく注いでいる。
「レビンは、あいつに任せよう。ああ見えて、役に立つ男だ」
「私、もうどこにも行くところが無いわ……」
「それは、俺が探すってレビンとの約束だ」
アグレイが手を貸してキクを立たせる。キクは、自発的に立とうともしなかったが、アグレイに急き立てられると抵抗もせずに腰を上げた。
アグレイが後ろを見ると、静かにキクがアグレイの影を踏んでいる。
キクがついてくるのを確認して、アグレイは思考に没頭し始めた。キクが居住できる場所を探さなくてはならない。
第一に孤児院は除外する。フリッツが言及したように、キクは年齢制限で引っかかる。何より、侵蝕されている身では、孤児院への入居は望めない。
また、イフリヤ市内に宿泊施設は存在しない。観光名所であったサクラノ公園が健在であった当時とは違い、侵蝕後はイフリヤを来訪する者もいないので廃れていったのだ。
だが、数年のうちに幾度かは何らかの事情があって外部から人が訪れることもある。その際に、宿屋代わりの機能を果たすのが統括府だった。
統括府には、職員のための仮眠室が設けられており、それとは別の客室が備えられている。珍客にはそこを利用してもらうのだ。
本来の役割を除いては、客室はほとんどフリッツの午睡の場と化してはいたが、そこをキクに利用させるという手段もある。
アグレイは探るような目をキクに投げ、溜息を吐いた。この状態にあるキクを一人で、それも統括府に置いていけるわけがない。
「やっぱり、俺の家しかないか……」
アグレイの自宅は部屋が余っているし、何よりばぁばの存在が大きい。ばぁばならば身体的な世話だけでなく、心的な領域での補助も期待できると思われた。
「キク、俺の家に来てくれ」
アグレイに他意はなかったため、さりげない口調だったが、いきなり男にそう言われて怯まない女性はいないだろう。
キクは足を止め、警戒するようにアグレイを見やった。
「違う、変な気はないぞ!? 家にはばぁばがな、じゃなくって俺の祖母もいるからよ、安心してくれ。十何年も使ってない部屋があるから、そこ貸してやろうと思って……」
随分な部屋を貸されるものだとキクは思ったがそれは置いておき、アグレイの慌て振りを見れば、疚しい気持ちはないとの判断を下すのは難しくない。
キクが歩を進めてアグレイを追い抜いた。そのまま歩き去られると思ったのか、アグレイが引き止めようと手を伸ばす。
アグレイの手がキクに届く寸前、キクは自ら振り向いた。
「何してるの、あなたの家に私を置いてくれるんでしょう? 早く案内してよ」
その声には疲労が重苦しく沈殿していたが、元の勝気な少女の片鱗を垣間見せていた。アグレイは、おう、と息のような返事を漏らし、先に立ってキクを自宅に導く。
しばしの時間が過ぎて、二人は集団住宅にあるアグレイの私宅に到着した。解錠したアグレイが扉を開き、先に上がるようキクに勧める。
「……お邪魔、します」
キクを伴って廊下を歩き、いつも通りアグレイはばぁばに帰宅の旨を告げた。
「ただいまー」
「はいよ、お帰り。今日は遅かったねえ」
調理で背を向けているばぁばが、孫の隣に並んでいる若い女に気づくまでは間があった。
見知らぬ女性がその場にいたことで、ばぁばがいつもは垂れ下がっていた目蓋を上げて瞠目する。
「あれ、あんたその娘は?」
「ばぁば、いきなりだけど事情があって、こいつをこれから住まわせたいんだ。いいよな?」
ばぁばは驚愕したが、掌を口に当てて驚きの叫びを押し殺す余裕を持っていた。
最初の心理的衝撃から立ち直ると、ばぁばが普段は気品に溢れた瞳を、はしたないとの謗りを免れない好奇の色で満たした。
「やだねえ、あんた。私がちょっと言ったからって、こんなに早く相手を見つけなくてもいいのに。でも、可愛い娘さんじゃないの」
「あの、ばぁば、そうじゃなくて……」
「あ、そうだ。私、これから友人の家に行って、今晩は帰れないからね」
「いや、そういう妙な気を使わなくていいんだよ」
外出しようとするばぁばの襟首を掴んで阻止すると、アグレイは有無を言わせぬ語調でばぁばに言い聞かせた。
「いいか、ばぁば? 俺とキクはばぁばが思っているような関係じゃないし、キクをここに住まわせるのも、文句は言わせねえ! 分かったか、ばぁば?」
「文句は言ってないけどね」
「……そうだけど」
簡単にばぁばの掌で転がされるアグレイを余所に、キクは真摯な面持ちでばぁばに挨拶する。
「私はキクという名です。身寄りがなくて、アグレイさんのご厚意で立ち寄らせて頂きましたが、もしお邪魔であれば……」
「邪魔なんてことはないのよ、お嬢さん。不肖の孫の唐変木が、若い女の子の役に立つのなら、この老いぼれには嬉しいことだわ」
「じゃあ、ここにいさせてもらっても……?」
「ええ、いいのよ。むしろ歓迎するわ。アグレイのしかめ面だけだと、目に飽きがきてね」
「くぅッ」
ばぁばに言われ放題され、しかも女二人で勝手に平和的合意に達したことで立つ瀬を失ったアグレイが、悔し紛れに呻いた。
「私は料理を温め直すから、ほら、あんたは寝床の用意をしてきな」
アグレイが元は両親の部屋に入っていった。
平常は穏やかなばぁばだが、今日は会話に毒が多かったのは、意外な訪問者に気を弾ませていたからだということに、アグレイは気づいていない。
アグレイが居間を去ると、ばぁばはキクを席に着かせておいて調理場に向かう。料理に火をかけつつ、背中越しに声をかけた。
「キク、私はね、あなたの素性もここに来た理由も問わないけれど、一つだけ聞いておきたいことがあるのよ」
「はい、何でしょう」
「まあ、アグレイは見ての通り単細胞だけど、無責任な子じゃないからね。考えなしに女を家に連れてくるほどバカじゃない……はずなのよ。
だから、アグレイがあなたをここに連れてきたのは警備隊としてなのか、友人としてなのか、それとも他の間柄としてなのか、一応確かめておきたいんだよねえ」
ばぁばの疑問はもっともだとキクは思う。
だが、キクは答えに窮するように黙り込んだ。強いてばぁばも急かさない。やっとキクが口を開いた。
「私には、分かりません」
キクの唇を零れて出たのは、簡潔な言葉だった。
「でも、恐らくは警備隊としての義務だろうと思います。彼の方から、友人になる機会を何回も作ってくれたのに、私は信用しきれずに彼の差し伸べてくれた手を振り払うだけでした」
「……そう」
その後、室内には容器を火が熱する音だけが響いていた。机上に視線を落としていたキクが不意に目を上げる。
いつの間にか音が止み、食欲をそそる芳香が漂っていた。ばぁばが湯気を立てている鍋を持って、笑顔を見せる。
「さあ、夕飯だよ」
その匂いに釣られたようにアグレイも扉から姿を見せる。黙っていつもの席に座り、待て、と命令された犬のような眼差しを料理に注ぎながら、それが誇りであるかのように言った。
「キク、ばぁばの料理は美味いんだぜ」
ここはばばぁがテンション上がっているところが好きです。
女っ気のなかった孫が女性を連れてきて、ばばぁもさぞ嬉しかったと思います。
今回、アグレイが自宅にキクを連れてきますが、仲間が増えてくると拠点のようになります。