第16話 はぐれ孤児院壊滅
孤児院を見守ることにしたアグレイだったが、偶然キクと顔を合わせてしまう。
態度が軟化したキクとレビンの今後について会話していると、大規模な界面活性が発生。
孤児院に駆けつけるアグレイの前に、怪しげな人物が映る。
その人物を気にしつつも、アグレイは孤児院へと向かうのだった。
アグレイの脚力ならば数分もかからない。『マルセル診療所』の看板を目印に、アグレイはその敷地に入る。
アグレイがそこで見出したのは、局所的に強力な界面活性に飲みこまれて異形へと変貌した孤児院と、それを前に呆然と立ち尽くしているキクだった。
すでにこの世界の一部、キクにとっては世界全体にも等しい価値を有するはぐれ孤児院を蹂躙し尽くし、役目を遂げた界面活性は足早にこの場を去ったようだった。
その痕跡として残されたのが、青銅色に変色し奇妙な形に捻じれた建造物だけである。そして、その内部に子どもが潜んでいたはずだった。
身動ぎもしなかったキクが、覚束ない足どりで孤児院だったものに近づいていく。
「おい、キク?」
「……マックス。テオ。フラニー。フィリス。レビン……」
アグレイはその様を見守っていたが、キクが変質した孤児院に手を触れようとすると、焦燥を露わにしてキクを羽交い絞めにして引き止めた。
「止めろ! 完全に侵蝕されているんだぞ。触ったらどうなるか知れたもんじゃない!」
「だって、あの子達がまだなかにいるのよ……。助けなきゃ……」
「無理だ! 諦めろ!!」
故意に事実を隠さない直接的な表現を用いて、アグレイはキクの未練を断とうとする。
それが効いたのか、単に女性の筋力ではアグレイに抗し得なかっただけか、アグレイはキクの意思に反してその身を孤児院から引きずり離すことができた。
キクの精神を刺激しないように、アグレイは孤児院が彼女の視界に映らない場所まで連れていく。
さっきの大通りに出ると、界面活性が全て消えているのを確かめ、ようやくアグレイはキクの拘束を解いた。
だが、せっかく自由の身になっても、キクは身体を動かすだけの気力が無かった。アグレイの手が離れると同時に、キクが糸を切られた操り人形のように腰を地面に落とす。
「……」
キクの双眸に透明な液体が溢れ、頬を滴ったそれは顎から無垢な雫となって落下する。
夜気に冷えた路面に幾つもの濡れた花弁を咲かせたが、止め処なく湧き出る涙は小さな露の花を次々と塗り潰し、いつしか大輪の花を描いていた。
嗚咽も上げずにキクは泣いていた。
「くそ……。こんなことが……」
アグレイは彼女を慰めてやるべきだろうが、キクの悲哀を軽減できる言葉をアグレイは知らず、安易な同情は憚られた。
それにアグレイも悲嘆と無関係であったわけではない。
贈り物をくれたアグレイに向けた子ども達の笑顔。太陽かと見紛うほど輝いていたそれらは、虚無の地平に命の灯を沈めてしまったのだ。
長い交友を持ったわけではないが、自分に懐いていたレビンに対し、亡き弟の面影を重ねていたアグレイの心痛もキクに劣るものではなかった。
アグレイの胸郭は自身に対する呪詛で埋め尽くされる。
「まただ……。俺は強くなっても、結局誰も守れないのかよ……?」
アグレイは己の掌を額に押しつけた。もう何も考えたくないというかのように。
両者の絶望を静謐という音響がしばし彩っていたが、第三者の声がそれに亀裂を生んだ。
「キクお姉ちゃん……? アグレイも。どうしたのさ、二人して?」
その呼びかけに反応できたのはアグレイだけだった。どうやら自失しているキクの耳朶には届いていないらしい。
「レ、ビン?」
「うん。何そんな怖い顔してんの?」
不思議そうに小首を傾げているのは、死んだと思われたレビンだった。
アグレイは目を擦り、次いで跪いてレビンの肩に両手を当て、それが幻影ではないことを確かめると、血液に安堵が混じって全身を巡るのを感じた。
「お前、今までどこにいたんだ?」
「この前アグレイに貰った色鉛筆さ、みんなで順番に使うことにしたんだ。今日は僕が使っていい番だから、絵を描きに行ってたんだ。ちょっと遠出したから、キクお姉ちゃんに怒られるかなと思ったんだけど」
レビンは丸めた紙と、色鉛筆の小箱を握っていた。それを見た瞬間、アグレイが脱力し、その手がレビンの肩から滑り落ちる。
「どうしたの。アグレイ、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。……俺より、キクお姉ちゃんのとこ行ってやれ」
そう言われてレビンがキクに目を移し、そこでキクの異常に気がついたようだ。
「お姉ちゃん!? どうしたの。どこか痛いの?」
レビンが眼前に立つと、さすがにキクも潤んだ瞳を少年に向けた。だが、霞がかった思考では、それが誰か認識できていないようでもある。
「何で泣いてるの? 怪我してない? キクお姉ちゃん」
「あ、あ、レビン……?」
「うん、レビンだよ」
「あ、レビン。……レビンなのね!?」
キクの目に意識の光が戻った。レビンをかき抱いて豊かな金髪に半面を預ける。
「キクお姉ちゃん、痛い……。それに……うぅー」
常とは違ってキクの方から抱きつかれ、レビンは困惑する。
横顔にアグレイの視線を感じると、幼い年齢に似合わず頬を赤くした。いつもキクに抱きついているくせに、立場が逆になったら妙に照れるようだった。
キクはレビンの苦言に耳を貸さずに、大粒の涙を流しながら、無心になって慟哭を大通りに響き渡らせる。
人形が生気を得て人間に帰ったかのように、アグレイには思われた。
レビンは運よく生きていました。
ここで侵蝕に飲み込まれた他の子どもたち……。
ちゃんと後半で「再利用」されています。