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侵蝕の解放者  作者: 小語
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第12話 アグレイの過去 了

アグレイは自分の過去を夢で見ていた。

アグレイが八歳の頃、家族でサクラノ公園に遊びに来ていた。

弟のアルジーと一緒に遊び、父のランディ、母のソフィーたちと食事を楽しむ。

そこへ、イフリヤ市で初めての界面活性が人々を襲うのだった。

「それにしても、今年は一段と桜が綺麗ね。こういうの、狂い咲きっていうのかしら?」


「確かに、いつもと雰囲気が違うな。桜で視界が煙って、人の姿まで見えないなんて。全部の風景が桜で埋まるほどだ」


 それまで食事に熱中していたアグレイが、夫婦の会話に興味を持って問いかける。


「そんなに、凄いの?」


 息子の疑問に、母が呆れたように吐息を漏らす。


「あんただって去年も来たでしょう、覚えてないの?」


「アグレイは飯に夢中になっていて、花のことなんか覚えてないんだろ?」


「ちぇー」


 両親の言葉にアグレイは不貞腐れる。料理を口に運ぶ作業に戻ってアグレイが沈黙すると、代わってアルジーが口を開いた。


「本当に綺麗だよねー。桜が一杯で。……ずっと、こうだったらいいのになー」


 両親が目を細める先で、アルジーは無心に桜木を見上げていた。


 アルジーの瞳は桜で満たされている。黒瞳を桜の奔流が埋め尽くし、惚けたように視線を虚空に縫い止めていた。


 それまで食事に没頭していたアグレイが、不意に周辺を見渡す。


「どうしたの、アグレイ?」


「桜が……、揺れてるみたい」


 それを聞いた父がアルジーに倣って視界を上に向ける。


「お、本当に揺れているな」


 かなり酒が入っていて顔を赤らめている父が同意し、母が嘆息した。


「あなたは酔っているからでしょう。もう、あまり飲みすぎないで、よ……?」


 顔を上げながら注意する母の声は語尾が掠れていた。


 桜が揺らめいている。


 いや、正確には空間が歪曲して、それに桜が巻き込まれたため、ねじ曲がって目に見えるのだ。このとき、初めてイフリヤで界面活性が発生したのだった。


 界面活性が知識として頭にあっても、実際に目の当たりにするのは、アグレイ一家を含めたイフリヤ市民は初の体験だった。


 両親も驚愕に戦くだけで、双眸を見開いたまま動くことができない。


「助けて!」


「一体どうなって……ぐ!?」


 周辺から悲鳴が上がり始めると、さすがに消防士である父の表情も引き締まった。酔いを吹き飛ばして全身に緊張を纏い、状況を把握しようと努める。


「皆さん、慌てないで下さい! 落ち着いて! ……まさか、これが侵蝕なのか?」


 時間にしたら数秒だったろう。その短い間が、界面活性においては命とりとなる。


 アグレイの瞳に、これまで見たこともない光景が映っていた。


 桜の花弁が、枝が、幹が全て輪郭を失い溶け合わさって、混沌とした色彩がアグレイに迫ってくる。一部も全体も無い、桜そのもの。空も陸も区別がつかず、一体化した世界がアグレイの眼前に突きつけられる。


 それが何か理解できない。その原初的な恐怖は見えざる手となってアグレイの身を包んだ。衝動が、アグレイの足に訴えかける。


「ひゃあああぁぁぁぁぁあああ!?」


 弁当を放り出してアグレイは逃げ出した。


 家族のことを失念してひたすら走った後で、ようやく家族のことを思い出したアグレイは足を止めて背後に目を向ける。


 アグレイの双眸が見開かれ、口唇の隙間からは呻きが漏れる。


「あ、あ……」


 アルジーは母の両腕に抱かれまま泣いていた。


 アルジーが恐怖のあまり動けずに硬直していたのを助け起こそうとして、母まで逃げ遅れたようだ。


 それを救うために父はその場に残ったものの、二人と同様に抗しうる手段もなく界面活性の餌食となってしまっていた。


 ただ一人、家族のことを顧みずに逃げたアグレイだけが助かっていた。


「あ……、お父さん。お母さ……ん」


「お兄ちゃーん!」


 弟の声でアグレイは自失から戻った。家族に触れようとしたのか、手を突き出す。


「ご、ごめんよ……。アルジー……」


 頼りない足どりで歩むアグレイの進みは遅い。


 数歩も足を運んだとき、両親はおろかアルジーも、輪郭を失った歪んだ姿しか残っていなかった。アルジーが何か叫んでいるが、その口から放たれる言葉は界面活性の外に出ることはない。


「君! 危ないぞ!」


 この恐慌のなかで少年のために危険を冒したのだから、その人はきっと勇敢な人物だったのだろう。界面活性に向かうアグレイを後ろから抱えると、その場を急いで遠ざかる。


「待って。まだ、お父さんとお母さん、アルジーが……」


 アグレイの視界で三人が小さくなっていき、界面活性に溶けこんで見えなくなる。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……」


 アグレイはそれだけを呟いていた。やがて、アグレイの目は闇一色に染まっていった。




「……ごめんなさい」


 意識を失ったのではない、眠りから覚めたのだと、夢の余韻が口を吐いてからアグレイは気づいた。


 アグレイは今、自分の部屋で寝台に横たわり、天井を見上げている。


 暗い室内に窓はあっても、肝心の空が曇っていては採光の用を成さない。


 だが、昼では薄暗く、夜では薄明かりの天候は、完全な白日も暗夜も生み出さない。暗がりを和らげる淡い光が窓から差し、調度品の朧な影を浮かび上がらせていた。


 アグレイは、暗闇のなかに失った何かを見ようとしているのか、暗闇そのものを見ているのか、凝然と双眸を見開いていた。


 夢によって想起された家族を失った過去が、アグレイの胸中を自責や懊悩のない交ぜになった感情の坩堝とさせる。


 アグレイには、自分のせいで家族が界面活性の犠牲となったという罪悪の意識が強かった。自分が家族のことを頭の片隅にも留めず、一人で逃げた行為は恥ずべきものであったと思っている。


……お兄ちゃーん!


 必死に助けを呼んでいたアルジーの声が再生されると、アグレイは反射的に上体を起こした。震える手で顔を押さえると、口中で噛み潰しきれない嗚咽が漏れ出る。


「何が、兄ちゃんが守ってやる、だ」


 身動きできなかったアルジーを庇って、両親は逃げ遅れたのだ。


 アグレイが逃げる際、わずかでも弟のことを慮って、アルジーの手を引いて逃げたなら状況も変わっていたかもしれない。


 なぜ、あのときの俺は、アルジーを連れて逃げられなかったんだ?


 これが、アグレイが幾度も自らに問うてきた懐疑だった。


 そして、答えは出ている。


「俺は、両親よりも、弟よりも、自分が助かりたかった、それだけだ……」


 アグレイが顔を覆う両手、その指の隙間からアグレイが覗くと、横にはもう一台の寝台が置かれている。


 寝台は一対だった。ただ、片方は主を亡くして久しい寂莫を帯びていた。


 生前にアルジーが使用していた家具は、そのまま残っている。


 かつて弟の生きていた痕跡だけが存在し、それがその死を忘れさせてくれない。アグレイの行為が風化しないための、刻印のようでもあった。


「俺は……、弱虫で、薄情で、卑怯者だ……」


 アグレイは懺悔してからも姿勢を変えず、再び眠りに就こうとはしなかった。


 家族を失って以来、アグレイにとって眠りとは安息への入り口ではないのであった。

過去編の終わりです。

アグレイが強くなろうと自分に厳しいのは、自分の弱さで家族を失ったという経験が理由でした。

とにかく筋トレで自身を追い詰め、人々のために戦うアグレイの行動は、やさしさやマジメな性格というよりも強迫観念に近いような気がします。

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