第10話 アグレイの家で祖母と
仕事の後、筋トレをしながらアグレイはフリッツと会話する。
フリッツは、最近のアグレイの様子から悩み事を抱えていることに気付いているらしい。
筋トレを終えたアグレイは帰宅するのだった。
「ただいまー」
アグレイは寄り道せずに、集団住宅の一室である自宅に帰った。
アグレイの居住する建物は十二階建てであり、家族向けの物件だけあって間取りが広い。アグレイはその十階の一室に住んでいる。
アグレイが扉を開けると室内には明かりが点っていて、人がいる気配のある奥から静かな声が返される。
「お帰り」
短い廊下を歩くと、そこは調理場と一体化した居間になっている。
アグレイが目を向けると、調理場でかいがいしく料理をしている老婆の背中があった。
「ばぁば、飯は?」
「んー? もうすぐだからね。ちょっと待ってなさい」
アグレイは祖母に促されると、素直に食卓の席に座って頬杖をついた。
料理は未完成でも、その匂いはアグレイの鼻孔に届いている。待ち遠しそうに作業を眺めるアグレイに、ばぁばが肩越しに問いかけた。
「アグレイ、今日はどうだったの?」
「ああ、いつも通りだったよ。界面活性を封じて、鍛錬もしてきた」
「そう。偉いね」
ばぁばは竈のなかで赤くなった炭の上で揚焼鍋を振りながら笑った。
部屋の天井からは電球が吊り下げられていたが、それはイフリヤに侵蝕が発生してから明かりが灯ることは無かった。
室内を照らすのは壁や卓上に設置された燭台である。発電所が侵蝕によって機能を停止してからは、一般家庭の光源は主にロウソクでまかなわれている。
ばぁばは、揺れる光のなかで料理を皿に盛りつけて食卓に歩み寄った。
若い頃は多くの男を魅了して止まなかっただろう気品ある面影は、白に染まった巻き毛に包まれて穏やかな容貌を成している。黒い瞳が暖かくアグレイを映していた。
どれだけ空腹であっても、ばぁばが料理を並べている間にアグレイは手を出さない。ばぁばが席に着き先に口をつけてから、アグレイも食べ始める。子どもの頃からの習慣だ。
ま、これも嗜みだな。
そう思いながら、口中に溢れる涎を水で流して忍ぶのだった。
ただ、一旦食べるとアグレイの食欲は簡単に止まらない。盛られた食事の大半はアグレイの胃の腑に収まることになる。
今夜の夕食はフラナという川魚の姿焼きと黄根芋と野菜の煮物、トル麦のパンだった。トル麦のパンはイフリヤでは主食とされている。
黄根芋はジャガイモとほとんど同じ味と触感だが、根まで栄養があり食べられるために食卓で人気だ。
フラナは小骨が柔らかく、焼いただけでも喉に骨が引っかかることは少ない。フラナに塩を振り串に刺し、丸焼きにしたものはアグレイの好物の一つであった。
「もっと落ち着いて食べたらどうなの? 私は、あんたの分までとらないよ」
「うん? ああ」
料理を口一杯に頬張ったアグレイを見て、ばぁばが苦笑を混ぜて言った。
アグレイはおざなりな返事をしたものの、嚥下するのが間に合わない速さで、また食物を口に詰め込んでいく。
幼少から直らない孫の癖に、ばぁばは笑みの形に目を細めて話題を変えた。
「最近は、魚も活きのいいのが店にも並んでなくてね。あんたの好きな刺身は、そうそう食べさせて上げられないねえ」
「別にいいさ。ばぁばの料理は何でも美味いしな」
とても味わっているようには見えない食事の作法で、アグレイが料理の味を褒める。
「焼き魚も俺は好きだ。そんなことに気を使う必要は無いぜ、ばぁば。
……あ、それとな。北部地区で大きい界面活性が発生して、立ち入り禁止に指定された区画が増えたんだ。もしかしたら、ここら辺も界面活性が出るかもしれないから気をつけてくれ」
「そう……。この街も狭くなってきたねえ」
ばぁばは、その容姿を愁色に染めた。
イフリヤ市内は徐々に侵蝕が広がっており、現在ではすでに三割ほどまで侵蝕が進んでいた。そこでは常に界面活性によって空間の歪曲が認められ、喰禍が闊歩する地帯となっている。
「ばぁば、買い物や用事で外出することがあるだろうけど、できるだけ家の近辺で済ませるようにしてくれよ」
「でも、この辺では新鮮な食材が揃わなくて。やっぱり目抜き通りに近い方が、いいものが買えるんだよね」
「何言ってんだよ。ばぁばに何かあったら、俺はどうすりゃいいんだ?」
「そう言ってくれるのは、有り難いけど……。この街のために働いてるあんたに、もっと美味しいものを食べさせたくてね」
「だから、気にするなって。俺は、ばぁばがいてくれりゃ満足なんだ」
「できれば、そういうことは好きな女に向かって言って欲しいけどねえ……」
途端にアグレイが不機嫌にそっぽを向いた。口中で咀嚼したものを喉に流し込んで、ぶっきらぼうに呟く。
「その話はいいだろ。俺は今の生活に不満は無いんだ。女なんか関係ない。そりゃ、ばぁばは曾孫の顔を見たいだろうが……」
「そうじゃなくてね。あんたは毎日身を削って戦っているんだから、心を休められる相手がいれば幸いだと思うんだよ。
あんたは、限られた自分の時間を鍛錬と仕事に費やしてくれている。それで私や他の人間は救われるけど……、あんた自身はどうなるの? あんたは皆を守るために傷ついて、その後で何が残るのさ?」
「だから、ばぁばがいるだろ」
「こんな老い先短い年寄りを当てにされても、困るんだよ。あんたが一人になったときを思うと、見てられない」
「バカ言うな、ばぁば。もう大切なモノは失わないと決めて、これまで自分を鍛えてきたんだ。そのために俺は強くなった。ばぁばにそんなこと言われたら、俺はどうすりゃいいってんだ」
ばぁばはアグレイの怒気を軽くいなして、ゆっくりと説く。
「あのね、アグレイ。私は、あんたが自分の安らぎを求めてもいいんじゃないかと、言ってるんだよ。戦い続けて自分の身体を痛めていくだけなら、あんたが報われない」
「……別に、そんなつもりはねえよ。それよりばぁばこそ、喰禍との戦いで俺が明日死ぬかもしれない、ということを覚えていてくれよな」
「あんたこそ、バカを言わないでよ。年を食った者の方が先に死んでくのが、普通なんだからさ。孫を無残に死なせて、私が生き延びていたら、それこそ笑われてしまうよ」
「わ、分かってるよ、ばぁば……。ただ、そういう可能性があるって……、言っただけだ」
ばぁばの剣幕に気圧されて、アグレイの勢いが弱まった。
その後、アグレイが口を開くのは反論を目的とするのではなく、眼前の料理を口に含めるためであった。
口内を物理的に満たして誤魔化すアグレイを、ばぁばは顎を下げて上目使いに見やる。相手が無言で白旗を振るのを感じると、語調を和らげて締めくくった。
「まあ、私も今すぐと言っているんじゃないんだ。アグレイが、頭の片隅にでも留めて置いてくれれば、それでいいんだよ」
「……ああ」
感情の炎が鎮火したアグレイは、ばぁばの意見に素直に頷いた。
それから当たり障りのない二言三言を交わし、アグレイが料理の残りを胃に収めて、遁辞を卓上に放つ。
「美味かったぜ、ばぁば。じゃ、俺は部屋で休むから。……ごちそうさん」
逃げるようにアグレイが自室へ去っていく。居間に接した二つの扉の片方にアグレイが背を消すと、ばぁばは苦笑して後片づけを始めた。
アグレイとばぁばの住居の間取りは、玄関を入ると廊下があって居間に続いており、部屋は三室ある。廊下に面した部屋と、居間から通じている二部屋だ。二人暮らしの割に間取りは広く、使わずに余っている部屋もあった。
それも当然で、元々は五人暮らしだったのだ。
「……」
ばぁばは静かに居間で時を過ごす。
やがて、ばぁばが廊下に面した寝室に向かうため、居間の壁面に設置された燭台の火を落とすと、その場は本当に暗い闇に満たされた。
アグレイの祖母の登場です。
アグレイは祖母を「ばぁば」と呼び、地の文でも同じ表記にしています。
気を付けていますが、アグレイが「ばばぁ」と呼んでいればご報告いただけますと、とってもうれしいです。
ここでは、イフリヤの一般的な家庭の暮らしを書いてみました。
電気が使えないのでロウソクが主な光源です。
食べ物はこの世界独自の名称ですが、現実世界に近似性を持たせています。
食事で凄いと思うのは、上橋菜穂子先生ですね。
『精霊の守り人』シリーズが好きですが、さすが文化人類学者という感じの食事の設定です。