十五話 ■
「――――……」
吐き出した息が、震える。今にも意識が飛びそうであった。名前は知らぬがこの宮の姫である少女を逃がし、代わりに神獣朱雀の手先に捕まった■は、さながら鳥籠と言うべき檻に収められていた。ここは朱雀宮。火将の宮であるはずなのに、酷く寒い。
「――嗚呼! 何故余は満たされぬ!? 嗚呼、嗚呼! 之も全て、彼奴の所為だ! 余の代理が死ななければ、安倍晴明が殺さなければ!」
それきっと、この気の触れた神獣朱雀が放つ凄まじい妖気の所為だ。■は小さく歯噛みする。例え仮に神獣が堕ちたとしても、それが放つのは禍々しい神気であるはず。けれど、何かに怒り、発狂している神獣朱雀が放っているのは確かな妖気。――つまり、神獣朱雀の気が触れた事には、神以外の何者かが関与しているという事だ。
「っ……」
元より■は、名を忘れられてしまった影響で力を失い、ほとんど人間と変わらない状態なのだ。それが今、この場で寒気がする程の妖気に当てられ、遂に耐え切れなくなったかの様にどうっと檻の中に倒れ込んだ。宙に吊られた檻はその衝撃で僅かに揺れる。
(……珀、さま)
倒れ伏したまま、■は最愛の主の名前を強く思い浮かべる。それは、自身に名をくれた大切な主。彼女の名前だけは忘れない様に、強く強く思い浮かべる。自分まで主の事を忘れてしまえば、きっと彼女も力を失ってしまうだろう。それだけは許されない。だって、今度こそは、■が彼女を助ける番なのだから。
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■は物心ついた時から名前が無かった。与えられたのは、使い捨ての駒という役割だけ。■の中の最古の記憶は、自身の小さな手が握った短刀を見つめている瞬間だった。
■は何処の生まれという訳でも無かった。ただ、気が付いた時には駒として生きていたのである。生みの親の名前も、育ての親の目的も知らず、ただそうしろと言われたからそうするだけの日々。この世の善悪なんてものは教わらなかった。だから、与えられた「白髪の少女を殺す」という使命に疑問さえも持たなかった。
失敗した時の事などを考える意味は無かった。成功した後の事などは考える頭も無かった。ただ、与えられた短刀を握って、与えられた使命を果たすだけ。失敗すればそれまで、成功してもそれまで。■は文字通り、一国の姫を殺す為だけに用意された使い捨ての駒であった。
それは、今思えば、急拵えでとても杜撰な計画であった。だから、■が他の人間を殺す事は一度も無かった。ある程度の技術だけ身に付けさせられ、未熟なままに放り出された。それでも、■は何とも思わなかった。何かを思う頭など無かったから。
狙いは一国の姫と言えど、小国の姫だ。だから、小柄な■は警備の目を盗んですんなりと宮まで忍び込む事が出来た。案外簡単な事だと思った。こんな簡単な事で自分の人生は終わるのだと、少しだけ心がざわつく感覚がした。
それから■は、不用心に開け放たれた戸の隙間から小さな身体を滑り込ませた。
「――珍しいお客さんやね」
「――――!」
標的の姫は、こんな真夜中だというのに、椅子に腰掛けて月明かりを頼りに書物を読んでいるところであった。姫は突然侵入してきた■に驚く事も無く、ただ淡々と声を掛けてきた。
あぁ、見つかった、と思った。それだけだった。どうせ失敗しても成功しても死ぬ運命に変わりは無い。何だかもう、全てがどうでも良かったのだ。
「……これで、おひめさまのこと殺すっていったら、どうするの」
ただ、何となく、誰とも何も話さないまま死ぬのは嫌だと思った。だから、何となく標的の姫へと話しかけた。だって、彼女は逃げる事も騒ぐ事もせずに書物へ視線を落とし続けていたから。■は手に握った短刀を一瞥して、姫の元へと歩み寄る。それから彼女の眼前へと短刀を突き出せば、彼女はようやく視線を■へと向けた。
「別にええよ、殺しても。それで、あんたが幸せになれるんやったらな」
「――――!」
それから、姫は若草色の瞳を■に真っ直ぐと向けたまま淡々と言い放った。思ってもみなかった言葉に、■は思わず息を飲む。
「しあ、わせ?」
無意識の中で繰り返す。一瞬だけ意味の分からなかった言葉は、口に出す事で意味のある言葉へと認識が変わった。しあわせ――幸せ。それは、■が生涯手に入れる事が出来ないものであった。
「……僕、しあわせになんかなれない。なれっこないよ。……だって、しあわせになる方法なんか、知らないから」
だって、ここで姫を殺す事が出来たとしても、その後は捨てられて終わりだから。どうせそのうち■も捕まって殺されるのだ。■は、姫の眼前に突き付けていた短刀を下ろした。姫を殺したって幸せになれない■には、彼女を殺す資格など無いのだから。
「……そう」
姫は、■の返答にたった一言を返した。それから彼女は静かに本を閉じると、真っ直ぐと■を見つめたまま立ち上がる。■は、何故だか姫から目が離せなかった。きっとこのまま、警備の兵の元に突き出されて殺されるのだと思っていた。
「幸せになれへんのやったら、幸せになる方法が分からんのやったら、ウチとおいで。ウチが、幸せになる方法を教えたるんよ」
「え」
けれど、違った。姫は、真っ直ぐ■を見たままそう告げた。幸せになる方法が分からないなら、一緒に来いと言った。目を見張った。息を飲んだ。思わず声が零れた。驚いた。凄く、びっくりしたのだ。許されるだなんて思っていなかったから。ここで終わりなのだと思っていたから。
「……いいの?」
やがて、溢れ出したのは一つの疑問。
「僕も、しあわせになって、いいの?」
それは、今まで許されるはずの無かった道。使い捨ての駒では無くなって、一人の人間として生きる道。窓から入る月明かりの下、期待を視線に混ぜて姫を見上げる。
「ええよ。ウチが許したるんね」
そうすれば、姫はただただ優しい顔で微笑んだ。途端に力が抜けて、手にしていた短刀が軽い音を立てて地面に落ちる。
「……ぅ、あ」
視界が潤み始めた。今まで押し込めて、二度と出てこない様にしていたものが溢れ出して、目の端から零れていく。
「ぅあぁああああぁぁぁあああんっ!」
その日、■は初めて自分の意志で涙を流した。ようやく、産声をあげたのだ。押し殺していた死への恐怖と、始めてもらった優しさに大きな声で泣いて、命を狙っていたはずの姫に抱きしめられて慰められた。すぐに衛兵が飛んできたが、姫が「大丈夫だから」と追い返してしまった。その間、■はずっと大きな声で泣き声をあげていた。
「……落ち着いたんね?」
しばらくして、ようやく泣き止んだ■は、寝台に姫と並んで座って頭を撫でられ続けていた。■には居た事が無いから確信は出来なかったが、きっと家族が居たらこんな感じなのだろうなと思っていた。
「お前、名前は?」
それから姫は、小さく首を傾げて問うてきた。しかし■には名前が無いから、答えに窮してしまった。少し考えてから、僅かに首を振るう。
「お前、名前無いん? せやったら、ウチが付けたるんよ。そやねぇ、もっと世界が楽しい事、知って欲しいから――……」
その日から、■は■になった。名前を与えられて、一人の人間になったのだ。一人の人間になってからは、驚きの連続であった。身なりを整えられて、成り行きで姫の護衛という事になった。そこで初めて知ったが、姫の名前は虎珀と言うらしい。
虎珀と過ごした日々は、かけがえのないものとなった。とても楽しかった。――幸せであった。
王に本当の息子の様に可愛がられ、盲目の軍師にちょっかいを掛けては丸め込まれ、隊長に勝負を挑んではこてんぱんにやられ、虎珀と共に、笑って、怒って、泣いて、また、笑った。
沢山の幸せを貰った。だから、■は心に誓ったのだ。絶対に虎珀の事を守ると。けれど、誓っていたのに、守れなかった。■は死んだ。虎珀も死んだ。守る事は出来なかった。何もかも失った。
(あぁ、神様。どうか、虎珀様を、神様の傍に置いてください。真っ白な虎にして、誰にも負けないくらい、強く――……)
最期は、薄れ行く意識の中でそんな祈りを遺した。強く強く願った。
そのたった一人の強い願いが、虎珀に新たな生を与えるとは知らぬまま、■は最初の命を落とした。




