十二話 ひらり、ひらり、ひらり
「……話は、纏まったな。代表、看守諸君、それから先代朱雀代表の……否、美藍、龍、氷雨、いかる、安倍紅葉と……ヤタ。身の程は弁え……否、気を付ける、様に」
それから、静かに目を開けた麒麟は、一人一人確かめる様に名を呼んで、決して無茶はするなと念を押す。怖がらせないように、言葉を慎重に選んで。一度間違えたのは愛嬌だ。
その証拠に、名を呼ばれた皆は、顔を上げてしかと頷いている。その表情に、怯えなど存在していなかった。
「――紅葉っ!」
不意に落とされる、もう一つの声。それは、緋月の物だ。名を呼ばれた紅葉が静かに声の方向へ向き直れば、緋月がただ、心配そうな瞳をしてこちらを見つめていた。
「……大丈夫。俺を、信じてて」
だから、紅葉は真っ直ぐと緋月を見つめたまま頷いて拳を突き出した。
信じていて。今度は無茶などせず、絶対に帰ってくる。絶対に、命を無下にはしない。
「……! ……うんっ! 紅葉なら大丈夫って信じてるっ!」
目を見張って、それから、大きく頷いて。緋月は突き出された拳に、自身の拳を思い切りぶつけるのであった。
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ばくばく、ばくばく。心臓が、脈打っている。それは、走っているから。それは、緊張しているから。――それは、凄く凄く、怖いから。
「……っ、もう少しで朱雀宮、かしら」
心にもやもやと纏わりつく黒い不安を誤魔化す様に、いかるは固い声を落とした。死への恐怖が、間に合わない事への恐怖が、少女の声を震わせる。
「……大丈夫だよ、いかる。俺達がついてるから」
そんないかるの手を握ったのは、紅葉であった。まるで、いつも相棒がそうする様に、何も心配は要らないと手を繋ぐ。こうすれば、自身の不安も、相手の不安も和らげる事が出来ると、紅葉はしかと知っていた。
「――――!」
ただ、手を繋がれただけ。たった、それだけの事だ。それだけで、いかるの恐怖は薄れていく。繋がれた手の温度が、紅葉の体温が、何処か、遠い記憶の母を思い起こさせて。それが、酷く懐かしくて。
「……ありがとう、なのだわ」
いかるの視界はゆらとぼやけた。少女はそのぼやけた世界を懸命に保ったまま、震えた声で礼を告げる。繋がれた手に縋る様に、ぎゅっと力を込める。
やがて、世界はぐにゃりと表情を変えた。美藍と龍、それから氷雨はぴくりと反応する。見知った光景――ここは確かに、朱雀宮だ。
「うへぇ……なんだか嫌ぁな雰囲気ですねぇ……」
しかし、漂っているのは肌が粟立つ様な、気色の悪い瘴気だ。他の宮に漂う清らかな空気とは違う。こんな瘴気に晒されていれば、神獣朱雀の気が狂うのも理解出来る。
「気持ち悪イ……何ナノ? コノ、まとわりつく様な気配……」
現に代表である美藍さえも、この場に留まる事を身体が拒否しているくらいであった。ここに居ては危険だと、身体が警鐘を鳴らしている。
「――! 気を付けろ! 誰か居る!」
そんな顔を顰める青龍兄妹、それから他の面々へと氷雨の忠告が飛んだ。彼の言葉に皆がはっとして顔を上げれば――。
「――――……」
そこには、人影。
黒い外套を纏った人影が、立ち尽くしていた。
「何だ……? 女……?」
「知らない顔……朱雀宮の者ではないかしら! 気をつけるのだわ!」
氷雨といかるの言葉に、外套を纏った女はついと口端を吊り上げた。ゆっくりと、その手を、こちらへ差し伸べるように伸ばして。
「――ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ」
女は、呪法を呟いた。
瞬間、爆発する様に淀んだ瘴気が拡がって、それに追従する様に数多の黒揚羽が飛来する。まるで、女が使役している様であった。
「うわっ!? 何だこの蝶……!?」
「させません!」
紅葉の驚愕と同時に飛び出したのはヤタだ。彼女は神気を爆発させて瘴気を祓うと、手にした獲物で黒揚羽の大群を斬り裂かんとする。
「無駄よ」
「なっ!?」
しかし、ヤタの攻撃はまるで幽霊がする様にすり抜けてしまい、黒揚羽へ攻撃が当たる事はついぞ無かった。
その瞬間にヤタは気が付く。この黒揚羽には、実体が無いのだ。
「っ、しまっ――……」
――ひらり。
けれど、もう遅い。
ヤタの身体はすっかり黒揚羽に覆われ見えなくなってしまう。
「ヤタ!」
響く紅葉の悲痛な絶叫。この場からでは、ヤタの無事は確かめられない。
「――ッ!」
美藍と龍が、同時に地を蹴った。
一瞬で二人は女へと肉薄する。目にも止まらぬ速さで放たれる掌底。頭を狙う様に振られた杖。
しかし、そのどちらも女を捉えられない。
「……残念、貴方達もお終いね」
――ひらり、ひらり。
とっ、と小さく音がした。龍は目を見張る。振り抜いた杖の先に女が立っていた。女は外套の奥で薄く笑うと、その手をついと上げる。それに合わせて、まるで泉が湧き出す様に揚羽が溢れ出した。
「ッ、美藍!」
「哥哥!」
黒揚羽は二人の龍を飲み込んだ。互いを案ずる声は、一瞬の内に聞こえなくなる。
「チッ、残るのが俺だけとは!」
残された氷雨は、舌を打って結界を展開した。しかしそれは守るだけの術に非ず。まるで蛇の様に練られた結界術がうねり、女を穿たんと真っ直ぐに伸ばされていく。
「あら、素敵な術。――でもね、無駄よ」
けれど、氷雨の術も女には届かない。くす、と笑声が漏らされると同時に、結界の中に蝶が湧いた。
「なっ……!」
驚愕も困惑も全て、黒揚羽が飲み込んでいく。氷雨の姿が見えなくなった途端、女を穿とうとしていた結界術も掻き消える。
「私の揚羽は、呪いなの」
――ひらり、ひらり、ひらり。
黒揚羽が羽ばたいて、女の指に止まった。あれほど沢山居たはずなのに、今観測する事が出来る蝶はその一羽だけ。
紅葉は、握った手を、小さな身体を必死に抱き寄せて、震える身体で、震える瞳で必死に女を睨み付ける。
「うふふ、そんなに怖い顔をしないでちょうだい」
――ひらり。
女は、一歩ずつ、一歩ずつ、紅葉へと近づいて行く。まるで、絶望までの時間を数える様に、刻む様に、ゆっくりと、ゆっくりと。
――ひらり、ひらり。
せめて、せめて、いかるは、守れる様に。紅葉は、腕の中のいかるを一層強く抱き締めた。
泣き声が聞こえる。誰かが、泣いている。誰が、誰が――自分、が。
――ひらり、ひらり、ひらり。
「さぁ、お眠りなさい」
蝶が、止まった。
「ぁ、う……」
蝶に魅入られた少女達は、途端に崩れ落ちる。守る様に、守られる様に、互いを強く抱き締めたまま。目元に、恐怖の象徴を浮かべたまま。
「……あら。貴女……もしかして、安倍の子? 嗚呼……なら、あの子は三足烏だったのね。通りで、見た事があると思ったわ」
少女達の傍に膝をついて、紅葉の目尻に浮かぶ涙を拭った女は、はた、と思い当たった様に外套の影に隠された瞳を瞬かせた。
見覚えのある顔――それは、紅葉の事だけでは無い。今し方自身の術で飲み込んだ神々の中に、かつて捕らえた三足烏も居たのだ。
「安倍、安倍――憎き安倍。嗚呼、この娘、どうしてやろうかしら」
それから、女はふっと笑うと、愛おしそうに紅葉の頬を撫でる。何処までも優しい手つきとは裏腹に、紡がれる言葉は何処までも恐ろしかった。
「四肢をもいで、眼球を抉って、舌を抜いて……いいえ、安倍晴明も居ないのに、そんな事をするのはつまらないわね。だってこの子は、安倍緋月でもないもの」
まるで歌う様に、うっとりと紡がれていく言葉。しかし、その言葉はふいと止んで、女は静かに首を振るった。目の前の安倍の子は、安倍緋月ではない。例え害したとて、自分の計画には何も意味を成さないのだ。
「うふふ……残念だけど、今は朱雀の子を捕える方が先ね」
薄ら笑いを浮かべた女は、そのまま視線をいかるへ移す。それから女は、母が子にする様に、優しく、ただ優しくいかるの頬を撫でた。
「……嗚呼、ついでに安倍の子も生贄に捧げてあげようかしら。そしたらきっと、貴女は気付いてくれるわよね? ――安倍緋月」
しんと静まり返った朱雀宮、入口。まるで、友の冗談を笑うかの様な軽やかな笑声が一つ、ずっとずっと、絶えず響き渡っていた。




