三十五話 約束を抱いて出陣
まるで水面から顔を上げる様に目を覚ませば、蒼嵐の視界に映るのは心配そうな表情でこちらを覗き込む黄緑色だった。
「……は、やて?」
「っ、蒼! 良かった……起きたぁ……っ!」
目覚めに見る顔にしては情けない顔が過ぎる、と、文句を言いたくなった蒼嵐だったが、自身の置かれた状況がいまいち分からず、何も言えずに口を噤む。
身体を起こすが、何処にも痛みは走らなかった。確か、記憶に残っている限りでは傷口が開いていたはずだが、と一人静かに思い耽った。
「……何処か、痛みますか?」
すれば、遠慮がちな声が蒼嵐の鼓膜を叩く。下げた視線を元に戻せば、浅葱色の瞳と目が合った。問題無いと首を振れば、桐は安堵した様に笑う。
「……あっ! そー兄起きてるーっ! 良かったぁ!」
そうか、自分は、と現在自身の置かれた状況を思い返していれば、甲高い声が蒼嵐の耳に飛び込んできた。そちらへ目を向ければ、何かを運んでいるらしい緋月が視界に入った。
「桐ちゃんっ! 使い終わった人形、全部ヤタに浄化してもらったよー!」
「あ……助かります、ありがとうございます!」
「疾風兄さん! 兵士の皆、大体起きたぞ! そんで椋さんが呼んでる! 作戦の間で待ってるって!」
と、緋月と桐が話し出すと同時に紅葉が駆け込み、疾風に伝言を伝え、また去って行く。遠くでまた彼女の声が聞こえる。どうやら、彼女は伝令役を引き受けているらしい。
「え!? わ、分かった、今行く! ……蒼、お前は無茶するなよ! でも落ち着いたら作戦の間まで来て! 蒼も作戦の要だからね!」
疾風がそう返した時には既に、紅葉の姿は無かった。ぼんやりとその様子を見ていれば、唐突に自分の名を呼ばれ、蒼嵐はハッとする。
「……あぁ、分かった」
そう短く返せば、疾風は満足そうに笑って駆け出していく。あっという間に去っていくその背中は、まるで流星の様だった。
「あ! あたし、この灰どうにかしなくっちゃ! 桐ちゃん、そー兄、また後でね!」
唐突に声を上げるのは緋月だ。緋月はもう一度重たげに灰の入った箱を持ち上げると、よろよろとふらつきながらも慌ただしげに去って行く。
そうして、この場に残るは桐と蒼嵐の二人きり。蒼嵐はそっと静かに桐へ視線を戻すと、その顔をまじまじと見つめる。
「……あの、私の顔、何か付いてますか……?」
不意に、彼女の顔に浮かぶ心配の色が濃くなった。困った様に眉を八の字に下げ、戸惑う様にこちらを見上げる姿に、何故か蒼嵐の心臓は強く拍動を打った。
「……いや、悪い。まだ少し、ぼんやりとしていて」
慌てて目を逸らすが、口にした言葉が原因で、再び桐は心配そうに顔を覗き込んでくる。
「…………、あの時」
「…………?」
その沈黙が気まずくて仕方なくて、とうとう堪えきれなくなり、蒼嵐は苦手な会話を試みようとする。すれば、桐はきょとんとした顔になって、蒼嵐の次の言葉を待った。
「夢の中で……手を、引いてくれたのは、お前……か」
蒼嵐が思い出しているのは、先程まで見ていた夢の事だ。しかし、あれは夢であれど現実に起こった事だと、蒼嵐も何となく察していた。何故なら、触れ合った手に、まだ温度が残っている様な気がしたからだ。
「あ……! え、えぇと……はい。……その、すみません。勝手な事を、してしまって」
問われた桐は目を見張ると、右へ左へ忙しなく視線を彷徨わせ、何度も瞬きを繰り返した後、観念した様に頷いた。そのまま彼女が口にするのは謝罪。蒼嵐は焦りを感じた。
「……いや」
別に謝らせたかった訳では無い。だが、その弁明も出来ず、会話はそこで終わる。この時ばかりは、義兄弟の能天気さと朗らかさが羨ましく感じた。
「……お前が」
「……でっ、でもっ!」
何とか会話を続けようと口を開けば、相手も同じ事を考えたらしく、二つの声は重なり合う。
「っ、悪い。先に言え」
「あっ、ごめんなさい! どうぞお先に……ぁ」
そして、お互いに発言権を譲ろうとして、再び声は重なった。桐は少し恥ずかしそうに顔を赤らめて、困った様に目を逸らす。何度目か分からない沈黙が落ちた。
「…………お前が、手を引いてくれて、助かった」
無言の譲り合い、押し負けたのは蒼嵐だった。静かに、言葉を噛み締める様に、一言一言ずつ紡いでいく。
真っ直ぐと、しっかりと、真正面から熱い想いをぶつけてくれたおかげで、蒼嵐の凍った心は溶け出した。きっとあのままだったら、自分は弱さを言い訳に全てを投げ出していただろう。
そんな想いは、何処か気恥ずかしくて言葉にならなかった。自分はいつもこうだと、少しだけ情けなくなる。
「……いいえ、あの時言った通り……私、蒼嵐さんにはたくさん助けて貰いましたから」
けれど、桐は莞爾として微笑んで、放たれた言葉の裏に隠された想いまで受け止める。
「えぇと、その……今度は私が、手を差し伸べる番だと、思ったんです」
それから、また少し顔を赤らめて、そんな事を呟いた。表情を隠す様に、袖に隠れた手を口元まで持っていっていたが、その行動は意味を成していない。
「……っ、す、すいませんっ! わ、私ったら何だか恥ずかしい事を……っ!」
蒼嵐が何を言おうかと考えていれば、それを呆れと勘違いしたのか、桐はわたわたと手を振りながら素っ頓狂な声を上げる。
「……っ、はは」
「ぁ……ひぇ、わ、笑わないでください……!」
それが何だか可笑しくて、蒼嵐は思わず笑い声を上げる。すれば、桐は赤い顔を更に赤くして、蚊の鳴くような声で抗議した。
まるで、桐が初めて蒼嵐の前で笑った時の様だった。あの時とは違い、笑っているのは蒼嵐で、困っているのは桐であるが。
「っ、もう! そ、そんな笑ってられる程元気ならっ! も、もう私が傍にいる必要ありませんよねっ!? わ、私……もう作戦の間に行きますからっ!」
桐は目をぐるぐると回しながら、裏返った声を上げつつ立ち上がる。どうやら敵わないと判断し、ここから逃げ去る手を選んだようだ。
「……俺も、行くのにか?」
しかし、桐が逃げ込もうと企んだ作戦の間は、蒼嵐もこれから向かう場所で。桐の作戦は呆気なく瓦解する。
「あっ……!? あ……いや……その……! ……も、もうっ! 意地悪です、蒼嵐さんっ!」
そうして、桐は降参だと言わんばかりに座り込んでしまった。耳まで赤くなった顔をぷいと背けて、すっかり拗ねてしまったらしい。
「くっ……はは、悪かった。……ほら、行くぞ。疾風が待ちぼうけてるかもしれんからな」
一頻り笑って、蒼嵐は立ち上がる。拗ねる桐へ向ける微笑は、まるで天嵐の様だった。そのまま同時に桐へ手を差し伸べれば、彼女は観念した様にその手を掴む。
二人で向かう作戦の間。その足取りは、確かなものだった。
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「……それじゃあ、今から出陣するよ」
静かに掛かる、疾風の号令。集められた精鋭の兵と、緋月達はそれぞれ気合いの入った声を返した。それぞれの瞳に、もう迷いは無い。
「皆さん、お気を付けて……!」
そんな勇猛な兵士達に声を掛けるのは、自身の服の裾をきゅっと握った桐だった。彼女は、戦う事は出来ない。故に、皆の帰りを待つ他無いのだ。
桐の言葉に頷いて、疾風を筆頭に皆走り出す。今回の作戦は奇襲が主な作戦。その為、皆一様に地を駆ける事を選んだ。
「――桐」
その殿を務める蒼嵐は、ふと桐の名を呼んで立ち止まった。
「……? は、はい」
桐が何事かと返事とすれば、蒼嵐は振り返って真っ直ぐと桐の瞳を見つめる。しばしの沈黙、それから――。
「……必ず、帰る」
「……! はいっ! お待ちしております!」
僅かな微笑みと口約束を。桐は少しだけ泣きそうになりながら、待っていると微笑み返した。
*
遠ざかっていく兵達を、一人見送る桐。だが、その背中達が見えなくなった瞬間、不意に糸が切れた様にその身体は崩れ落ちた。
「……おっと、危ない」
その身体が地に打ち付けられる前に受け止めたのは、少しやつれて見える長身だった。
「うーん、少しだけ見送りには遅かったみたいだねぇ。――美藍、彼女を」
現れた長身――晴明は、のんびりと呟きながら傍に控える美藍を呼ぶ。
「アイ」
美藍が意識を失った桐を横抱きにし、城内へと連れていくのを見送りながら、晴明は深い溜息と共に座り込む。その顔に色濃く浮かんでいるのは、普段は縁が無い様に見える疲労。
彼はどうやら、既の所で里そのものにかけられた呪詛を綺麗さっぱり返してしまった様だ。
「……それにしても」
不意に晴明は、美藍に姫抱きにされた桐に流し目をやった。
「君が兄者――賀茂保憲殿の孫娘だったとはね。ふふ、思ったよりも世間は狭いものだ」
その小さな呟きを聞き届ける者は、夕凪の他にいなかった。




