二十六話 血濡れ色の雛
「――何だァ? まだガキが居やがったのか」
不意に、号哭する疾風の鼓膜を何者かの声が叩く。緩慢な動作で振り向けば、そこには血濡れた刀を手にした兵士が立っていた。勿論、この里の者では無い。
「……ぉ、まえ、が」
その姿を認めた疾風は、静かに喉を震わせる。吐息に混ざる様に落とされた声に、兵士の男は顔を顰めた。
「あぁ?」
「お前が、みんなを」
男は苛立った様に聞き返す。疾風はそれに、怒りと殺意を込めた声で答えた。握った拳が自然と震える。疾風の言葉を理解したらしい兵士の口元が、歪に吊り上がって行くのが見えた。
「……そうさ、俺がやった! 命令に従わねぇ奴は皆殺しにしろって言われたからなぁッ!?」
男がそう下卑た笑みを浮かべた瞬間、疾風の身体は無意識のうちに突き動かされていた。
「――かは……っ!?」
疾風の小さな身体が、兵士の男の身体にぶつかった。突然の事に兵士は耐え切れず、苦鳴と共に後退する。その隙に疾風は駆け出した。目的は、長老の亡骸が握り締めていた短刀。
「クソッ、待てガキ!」
背後で男が怒鳴っていたが、それを無視して疾風は小刀を手に掴んだ。そのまま空いている片手で足元の砂を握り、振り向きざまにそれを放り投げる。
「ぐぁっ!」
どうやら思惑通り、砂は目眩しになった様だ。罵詈雑言を吐き捨てながら目を擦る男に向かって、疾風は駆け出して行った。
極力音は出さない様に低空を飛んで、疾風は男の背後に回り込み、手にした短刀で切りかかる。狙いは首、一撃で仕留められる様に。かつて、もしもの事があった時にと父に教えられた急所だ。
「舐めてんじゃねぇぞガキィッ!」
だが、相手は油断しているとはいえ兵士。早々に砂での目眩しから復帰し、長刀で疾風の攻撃を防ぐ。そのまま反撃が来る前に、疾風は翼を打ち付けて急上昇した。
飛ぶ速さなら誰にも負けない。本気の父にも匹敵する速さだ。その自慢の速さで撹乱すれば、男は苛立った様に舌を打つ。
こちらは小刀、あちらは長刀。どう考えても疾風の不利。速さで撹乱し、奇襲をかけようとも、ほとんどがその長刀で弾かれてしまう。
それだけでは無い。勿論相手は反撃もしてくる。故に、疾風は既にあちこちに切創を作っていた。ひりつく様な痛みを堪えて、尚も疾風は小刀を振るう。
「この……捕まえたぞ!」
少し、息が上がるのを感じた瞬間。疾風は男に捕えられる。翼を強い力で掴まれ、血の気が引くのを感じた。
「っ、しまっ――……」
もがけども、大人の力には敵わない。いくら翼を動かそうとも、男の拘束から逃れる事が出来なかった。男が顔を歪めて、翼を掴む手に更に力を込める。
「あまり大人を舐めるなよッ! クソガキ、がァッ!」
瞬間、黒い羽根が舞い散った。
何かが折れる嫌な音。平衡感覚を失って傾く身体。背中に走った焼き付く様な熱さ。
「――っあぁあああぁあああぁぁあああ!」
突如走った激しい痛み。鋭い痛み。それは、頭の中を白く焼き尽くす。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
「がっ」
夢中で振り回した手に握っていた小刀が、何かに刺さる感触を得た。二羽の鴉は墜落する。お互いに、鮮血を撒き散らしながら。
疾風は、全身を打ち付けながらも着地する。落ちて尚、背中を焼き続ける痛みに絶叫した。
一拍遅れて、兵士が落ちてくる音がする。嫌な音が鳴り響いた。
(……どう、なった? ……わかんない。でも、にげなきゃ。にげないと……おれも、死ぬ)
痛みで兵士を気にしている余裕の無くなった疾風は気が付かなかった。落ちた兵士の関節が、おかしな方向に曲がっていた事に。その首に、深々と短刀が突き刺さっていた事に。
*
(――とおさん、かあさん)
疾風は、背中を抑えて、片手を赤く染めながら歩いた。足を引き摺って、両親の元を目指す。
(なんで、こんなことになってるんだっけ)
痛みで、意識が朦朧としていた。最早、自分が何故両親の元を目指しているのかさえ分からない。とにかく、両親の元に行きたかった。何故だか分かりはしないが、両親に会いたくて仕方なかったのだ。
(痛い、痛いよ……。助けて、とおさん、かあさん……)
喉からは血の味がしていた。呼吸も上手くいかない。ひゅうひゅうと喉が鳴る。全身が痛くてしょうがない。
(なんで、とべないんだろう)
今すぐ飛んでいきたいのに、背中の痛みがそれを阻む。何故だか、片翼の感覚が無い。痛い。とにかく痛いのだ。
でもきっと、そんな物も両親に会えば治るはず。痛みもさっぱり消えて、また飛べる様になるはずだ。
「――――ぁ」
そんな甘い幻想は、打ち砕かれた。疾風の目に映る、血塗れの姿。まるで罪人の様に、一振の刀に貫かれ、磔にされた父の姿。それに縋る様に倒れている母の身体も穿たれ、綺麗な黄緑の服は赤く染っていた。
世界が歪む。丸く歪んだ世界は一つずつ落ちて、また、歪んで、消える。
「かあさん」
なんだいと笑う声が返って来ない。また服をこんなに汚してと怒られない。こんなにも身体中が痛くなる程怪我をしたのに、頑張ったねと抱きしめてくれる事は、もう二度と無い。
「とおさん」
先生と呼べと言われない。遅いぞ、また寝坊かと笑われない。大人相手に勝てる様になる程強くなったのに、流石は俺の自慢の息子だと肩車をしてくれる事は、もう二度と無い。
「――ぁ」
疾風の中で、何かがぷつんと切れた。
「――ぁぁぁぁあああああぁぁああああぁあああっ!」
世界は終わる。黒くなる。なにもなくなる。いたみもくるしみも、とおくにきえていく。
疾風は、何よりも愛していた世界を失った。
*
「――っ!」
天嵐は、絶望の慟哭を上げた小さな身体を、地面に倒れ伏す既の所で抱き留めた。可哀想に、彼は鴉天狗の命とも言える翼の片方を失っている。
「くっ、遅かったか……。――お前達! 他にも生き残りが居ないか探せ!」
目の前で磔にされているのは彼の両親だろうか。一歩遅かった事を悔やみ、宙を駆る自身の里の兵士達に号令をかけた。だが、きっと、この様子では恐らく。
天嵐は眠る様に気を失った、腕の中の雛を想い、静かに目を伏せる。駆け付けて来た衛生兵が手早く止血薬を塗り込んで、彼の応急処置はなされた。
「――! お前……、薫か」
その間、静かに磔にされた男を眺めていた天嵐は、ふと気がついた。その男が、この里随一の剣士であった事に。
少し前から、青の一族の同胞であったこの黄緑の一族は、黄の一族にその一存を脅かされていると聞いていた。
その時に、身体の悪い長老の代わりに飛んで来た彼と一度だけ話したのだ。
『いやぁ、自分の話で恐縮なのですが、うちにも若君様と同じ歳の子がおりまして。何としてでも里を守り抜かなくてはという気になりますね』
彼は、そう朗らかに笑っていた。人見知りをして緑嵐の影に隠れてしまった蒼嵐の事を、優しく眺めながら。
『そうか、そりゃ守り抜かない訳にはいかねぇな。俺達も早急に援軍を出す。それまで、何とか堪えてくれ』
そう答えたのは、ほんの数日前だ。今でも、同胞のあの安堵した様な笑みが思い浮かぶ。剣士は自分しかいないからと、まるで颯の様に飛んで帰った彼の姿は、今でも網膜に焼き付いていた。
「薫……悪い、悪かった……俺達が、もう少し速く来れていたなら……」
深い後悔に沈む天嵐は、護衛として傍に立っていた兵士を呼び付けると、亡骸は皆この地へ丁寧に埋葬する様に言いつけた。彼がしかと頷いたのを見て、天嵐は腕の中にいる雛を見つめる。
「お前の忘れ形見は、必ず守る。――今日から、コイツも俺達の家族だ」
そして、物言わぬ勇猛な戦士に誓った。「何としてでも守り抜かなくては」と笑っていた、その大切な存在を今度は守り抜いてみせると。
今度こそ、この命に変えてでも。




